2008/02/09 - 2008/02/09
16004位(同エリア20435件中)
Garminさん
- GarminさんTOP
- 旅行記6冊
- クチコミ0件
- Q&A回答7件
- 8,388アクセス
- フォロワー1人
ハザンホテルで軽い朝食を済ませた。 暖かい辛めのラーメンだ。 タマゴが入っている。 ハザンの街中を出ると徐々に民族衣装の人たちを見かけるようになった。 HUNG君の話だと、こんな多くの人が路上にいるのを見るのは初めてだという事だった。 やはり旧正月(TET)で親類の家に挨拶に行ったりするのだろうとの事だった。 ここの周辺に住んでいるのは白モン族、赤モン族、青モン族が住んでいるとの事だが、女性は服装でその民族を特定できる。 それに比べて男性は本当に地味で、ハノイあたりのベトナム人と同じ普通の格好をしていて、私達旅行者がぱっと見ても男性は何族なのかはなかなか判らない。 私が思っていたのと大きく違うのは、子供達だった。 異なる民族、たとえば青モン族、白モン族はその生活している地域が全く違い、市場等以外ではあまり交流は無いと思っていたのだが、少なくとも子供達は民族を超えて一緒に遊び、一緒に歩いている。 今朝まで泊まっていたハザンの町だが、実は標高は高くない。 ずっとハノイから川沿いを北上してきたのだが、ハザンの町の中心街は標高で100mからしかない。 日本でいうと東京の八王子の駅ぐらいの標高だ。 周りには山が多くあるのだが、国道2号線は殆ど高低差の無い所を走って来たのだった。
写真
前にも書いたがインドシナ半島の地形は北東から南西にかけて細い山脈がいくつも並んでいるのが基本だ。 今まではこの山脈の間の谷を走ってきたのだが、これから今日はこの山脈を一つ越えて反対側に出る。 ハザン市内から27km程走ると今までの川沿いの道から山道に入る事になる。 ここでもまだ標高は20m程度なのだが、ここから先は一気に標高1100m以上まで上る事になる。 山道に入る直前に橋があり、そこに人が大勢集まって遊んでいた。 女の子達は道路で日本とそっくりの「羽つき」をしている。 今は日本でも羽つきをして遊んでいる子供なんて見かけないが、ここではあちこちでやっている。 パドル形のはご板も、ついている羽もそっくり。 日本との違いは羽根を落とした時に墨で顔に×を書いたりしない事ぐらいだ。 インターネットで羽つきの起源を調べてみると14世紀、室町時代に中国から伝わった遊びだという事があちこちに書いてある。 14世紀というとホイアンがコーチンと言われ日本人町があった時代で日本とも交易が盛んだった時代、ひょっとしたら羽子板は中国からベトナム、そして日本に伝わったのではないかと思う。
写真
それにしても少数民族の女の子が来ている服は見事だ。 日本も「着物」を正月に着たりするが、あくまでもそれは「買ってきた物」であったり「貰い物」あるいは「借り物」だったりするのだが、ここでは全て自分で作るという。 唯一ろうけつ染めを個人レベルで行うという事だが、色彩感覚も不思議だった。 今回、ハノイに到着してからずっと「白」という色を見ていない気がしていた。 白い車はなんとなくクリーム色だったし、白いはずの紙もなんとなく白くない。 全ての白がくすんで見えていた。 唯一白だと思えたのは赤い横断幕でChuc Mung Nam Moiという文字が白抜きで書かれているその文字の部分だった。 しかし、ここの民族衣装には稟とした白が存在し、黒も限りなく黒く、緑、青、赤、それぞれくすみの無い原色が使われている。 こういう原色が目立つのだが、近くに行くと青は青でも実は微妙なグラデーションで模様が入っていたり、ビーズが刺繍してあったりと、意匠的にも優れているものが多い。 この人たちがいる所は冬で山も畑も枯葉色をしている中でぱっと花が咲いたように明るくなる。 男の子たちはバイクに「Hello!」と声をかけ手を振ってくる。 女の子も手を振ってくる。 P氏は50肩でバイクに乗りつつも左手を時々ぐるぐる回すのだが、それを見てさえ周りの人が手を振ってくるぐらい社交的だった。 走っていると民族衣装を着た女の子の集団が手を振っているので投げキッスをすると後ろからキャーキャーと声がしてリアビューミラーに笑い転げる沢山の笑顔が写った。 山羊は山に居て、庭鶏は庭にいる、水牛は水辺にいる。 かつて当たり前だった筈の情景が広がっている。
HUNG君の話によると、モン族の人はベトナム人に比べてもかなり小柄だという。 それは重い荷物を背負って長時間坂を上ったり降りたりするからだという。 そして女性は14歳ごろには結婚するという話だった。
少数民族には美人が多いという話をよく読むが、それはあながち嘘ではないと思う。 目がとても澄んでいる人々だった。 道路の途中に一人で霧に覆われた谷を見続けている女性を見かける。 その先には霧しか見えないと思うのだが、彼女達は何を見ているのだろうか? この人たちはモン語を話す。 モン語はベトナム語とは語族も文法も違う。 モン語には文字が無いので、基本的には文盲なのだが、少数民族とはいえ、ベトナム政府の同化政策で小学校ではベトナム語を教えるという。 しかし、殆どの家には電気がないのでテレビやラジオの放送に触れる機会も少なく、話さない「外国語」はやがて忘れられるという。 HUNG君も彼らが”外国語”として話してくるベトナム語は殆ど理解ができないという。 文字が無い言語というのは辞書も作りにくいだろうし、ノートも取りにくいだろう。 文字を持たない代わりに、ここの人たちはきっと文字が無い以上、人の話をとても良く聞き、そして覚えているのだろうと思う。 そうでなければこんな文化は存在しないだろう。 そんな思いを馳せながらバイクを走らせ続けた。
Ha Giangに入った頃から気づいたのだが、ここまでは「観光客」は来ない。 したがって、観光客相手の土産物屋も無ければ、私達に物や食べ物を売りつけようとする人もいない。 いや、町を少し外れると商店そのものが存在していない。 ホーチミンやハノイがある国と同じ国とは信じがたい。 "Frontier Area"(開拓地)と呼ばれるこのエリアに入るのには許可が必要なのだが、その理由はベトナム語が通じず文字を持たないここの民族をベトナムの政府も統治しきれないからなのかも知れない。 後になってここの人たちが戦争に翻弄されてきた悲しい過去を知る事になる。
実はこの頃から私は下痢ぎみでお腹がヤバめだった。 IT業界で鉄の胃を持つP氏と私は他のみんなが当たった生牡蠣を食べても平然としているのだが、今回は負けた。 この下痢はあと2日ほど続くのだが、別に下痢しているからと行って元気が無いわけでもなんでもなく、ライディングスーツの腰に巻くプロテクターを外すとトイレのお世話になる程度だった。 原因は食べ物ではなく、腹が冷えた事だと思っている。 生ものは食べていないし、吐き気もしない。 トイレの無い山道なので、水分の補給を少なめにした。
写真
一つの峠を越えると、有名なQUAN BA PATHという景色の良いはずの所に出た。 しかし、ここを通過した時はあまりの霧で景色は見えなかった。 このクアンバパス(QUAN BA PATH)は私が勝手に名付けたポスター等でよく見るハザンの代表的な絶景の「PJ山」の見える場所だ。 ここは谷間だけれども川は見かけない。 昼過ぎになりTAM SONの町に出た。 コンクリートで出来た立派な建物もある小さな町だ。 ここの町には小さな川が流れている。 ここのコーヒーショップに入りコーヒーを飲んだ。
写真 写真
写真
店を営んでいる母親と小さな子供が居たが、子供にキャンディーを渡したところ、どうもミント味が気に入らなかったらしく戻してきたので他のキャンディーをあげた。 店にはお菓子も置いてあり、日本のカッパえびせんも置いてあったが、どうもタイから輸入されたらしく、TOMなんとかと書いてある。 "TOM"はトムヤムクンのトムで海老という意味のはずだし、生産している会社もカルビーなので間違いはないだろう。 HUNG君の話だと、ここの家族はホーチミンから移ってきたという。 チェキで子供の写真を撮り、お母さんにあげ、我々が日本から来たというと、果物を色々出してくれた。 美味しいマンゴーやドラゴンフルーツを出してくれたがトラックも殆ど見かけず市場らしいものもないこの山奥の村まで果物はどうやって仕入れるのだろう? なにしろ今はここは寒く、日も照らず、間違いなく熱帯ではなく、亜熱帯、いや、冬の温帯と言っても良いぐらだ。 植生も南国とは全く違うし、果物が成るような肥沃な土地ではない。 ここで初めて食べた果物で甘いミルクのような味がする果物があった。 食べ方は果物の実をカップに入れて、スプーンでぐるぐる混ぜると出来上がり、とても美味しい果物だったが何かは不明(写真参照)
やがて、その店のご主人も出てきた。 彼は役人でベトナム政府から少数民族の定住化の為の事業にここに2年前に赴任してきたそうだ。 コーヒーを一杯飲むだけだったのに、色々もてなされて少し長居をしてしまったが、今日の移動距離は昨日の移動距離の半分程度の160kmなので心配は無い。 目的地に着くことが目的ではなく、好きな時にわき道に逸れ、好きな所で休む、そして移動そのものを楽しむ、それがベトナムでのバイクの旅行の楽しみだ。 タムソンの町でガソリンを入れた。 しかし、この場所からあの有名なPJ山までは300m程しか離れていなかったと知ったのは帰国してからだった。
写真 写真
モン族の人たちは水があまり必要でない種類の稲作か、急斜面でのトウモロコシを栽培しているという。 この地帯の特徴だが、山に土が殆ど無い事だ。 降水量はあるとは思うのだが、土があまり無い。 その為か大きな木を見かけない。 岩の上にコケが生えた程度、この辺りの山の岩は黒っぽいのだが、割れている所はグレーだ。 そして、山は45度以上の鋭角で立っており、更にそこに小さな鋭い峰が70−90度ぐらいの角度で立ち上がっている。 このどんよりとした空の下、鮮やかな色が全く無い中で、相変わらず白モン族、青モン族の鮮やかな服装が輝いている。
タムソンを去り、東へ抜け、川沿いに次の山脈を登る。 人間は水がどうしても必要なので川沿いに走っているとその付近に住んでいる人々の生活を見ることができる。 冷たい川で洗濯している女性、なぜか川の中に石を置いて小さなダムを作っている人たち、水牛に水を飲ませている人たち、お正月のせいだろうか、道で見かける作業には適さない美しい格好をしている人たちに比べて仕事をしている人は極めて少ない。
路肩にバイクを停め一休みしていると、小学生ぐらいの女の子が二人手をつないで歩いて近づいてきた。 チェキで写真を撮り彼女らにあげ、自分達もちゃっかり一緒に写った。 デビューした頃の広末涼子みたいな可愛い女の子だった。 ホーチミンの子供ももちろん可愛いけれど、「南国の子供」という感じがするのだが、ここの少数民族の人たちは風習も容姿もより日本人に近い感じがする。 HUNG君に通訳してもらうと、彼女らは今から親戚の家に行くのだという。 道路沿いに家なんて無いが、モン族の家の多くは険しい崖の途中にある。 たぶん、彼女らもそういう家の一つに住み、やはり山の途中の家を訪問するのだろう。
写真
彼女らと別れ暫く走ると、不思議な集落に出会った。 家が何十軒か固まって比較的平らに削った所に建っている。 モン族は一般に固まって住まない。 彼らの家は例外もあるが、数百メートル互いに離れているのが普通だ。 そして、この集落には全く生活感ない。バイクと停めていると歩いている男が3人程寄ってきて私たちのバイクを見始めた。 200ccとは言え、ここでは大排気量のバイクなのだ。 そもそもモン族の人は山に住んでいるのでバイクは持たない。 彼らは最初はバイクを見ていたが、ハンドルについている私のGPSに興味を示した。 HUNG君がそれが何であるかを一生懸命彼らに説明していた。 しかし、1分程説明した後、彼らは「僕らにこれは要らない」と言ってその場を去った。 HUNG君の話だと、ベトナム北部に住む少数民族にベトナム政府は同化政策を行っているが、なかなか昔からの習慣と政府の思惑が一致せず同化政策は遅々として進んでいないという。 この集落は政府により同化政策の事業の一環として作られたのだろうという事だった。
写真
話は変わるが、この地域にとても興味があったのはHUNG君がお勧めだったからだけではない。 丁度この旅行の1年前にベトナム縦断をする為に作ったGPS用の100m単位で等高線を引いた地形図をインターネットのWEBサイトに載せた所、カナダのNGOの団体からベトナムの洪水を防止を目的としたフィールドワークに使わせて欲しいとの打診があった。 私は100m単位の地形図ではあまりにも粗いので、NASAから新たにデータを取り寄せ、より精密な20m単位のベトナム全域を網羅する地図を作りWEB SITEに載せると同時に自分のGPSにも入れたのだった。 しかし、ベトナム・中国の国境付近には"VOID DATA"と呼ばれる私がNASAから入手したスペースシャトルからの観測に失敗した地点が多くある。 おかげでこのエリアのデータには特別多く「穴」が多くある。
写真
NGOが実際にフィールドワークに使う前に自分の目で「どうしてデータが無いか」という事を知りたかった。 その謎は解けた。 山が余りにも険しいからだと思う。 スイスのマッターホルンのように「く」の字に湾曲した山さえある。 こんな所では、NASAの観測のように少しでも斜めに地表の様子をレーダーで観測してはデータは取れないだろう。 ここの山は日本で言うと群馬県の下仁田の山に似ているが、あの山を上下に引き伸ばし、それがずっと続いている感じの山々だ。
写真
Yen Minh(イェンミン)の町で昼食をとる時間になった。 HUNG君はどこから持ってきたのか、野菜を持って厨房に入った。 ベトナムのレストランは料理や飲み物の「持ち込み」や材料の持ち込みでさえ非常に寛容だ。 場合によっては持ち込んだ物の取り皿を店に出してもらったりする。 ここでHUNG 君は厨房に入り、何か話し始めた。 私はP氏とHUNG君を置いてタバコを吸いがてら店の外に出て大通りまでの20m程の間を歩いてみた。 そこで、制服を着た軍人数人に呼び止められた。 レストランから2件隣の家に連れ込まれた。
写真
PR
-
霧の中の崖に立つ少女
この娘の目には何が映っているのだろうか・・
この付近、何キロも彼女以外誰も見かけなかった。 -
MEOVACのカフェー オーナーは意外にもホーチミンから来た人で、テーブルもオシャレ
-
MEOVACの唯一の大きな建物であるホテル。
ここは素通りした。 -
山というより、岩、木が生えないのは土が無いからか?
-
山岳民族の平地への定住を政策とし、作られた村
誰も住んでいないようだ。 -
青モン族の民族衣装
-
ベトナムの人は知らないという遊びだが、モン族ではあちこちでこの遊びをしていた。 日本の羽子板そのものだった。 (ただし、羽根を落としても墨で顔に落書きはしない)
-
スペースシャトルで測量できなかった険しい地帯(黒い太い枠が測量不能)
-
青モン族の少女たち。 なんて綺麗な目の子供たちなんだろう。
-
何故か電気屋は「SATO」という看板をつけている。 チェーン店だろうか? この省のあちこちに存在していた。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
10