2009/04/09 - 2009/04/09
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新潟県上越市は親鸞(しんらん1173−1262年)ゆかりの地でもある。
1201年、親鸞は法然(ほうねん1133−1212年)の弟子になり専修念仏(せんしゅうねんぶつ)に帰依したが延暦寺、興福寺らの激しい弾圧を受けた。興福寺を支持する後鳥羽上皇(ごとばじょうこう1180−1239年)らによって専修念仏が禁じられ、死罪4人、流罪8人の刑を受け(承元の法難)親鸞は1207年に越後国の国府(五智)に遠流になった。
親鸞は、3月28日に越後・居多の浜(五智)に上陸し、五智国分寺境内の竹之内草庵に入ったとされている。念仏解禁後、現浄土真宗本願寺派本願寺国府別院の竹ヶ前(たけがはな)草庵に移り住み布教を行ったといわれている。
親鸞の流人期間は1211年まで約5年で、越後には約7年住み恵信尼(えしんに)と結婚し、信蓮房(しんれんぼう)らの子供を授かっている。親鸞にとって越後での流人生活は厳しいものだったのだろうが、信念を曲げることなく念仏を広め、1224年頃『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著わし、浄土真宗を開く基礎を作った大切な時代だったことは疑いない。
(写真は 親鸞上陸の地・居多の浜の光景)
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親鸞上陸の地・居多の浜(五智)周辺の光景。
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親鸞上陸の地碑。
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親鸞上陸の地碑。
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親鸞上陸の地・居多の浜(五智)周辺の光景。
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親鸞上陸の地の説明。『親鸞聖人御一代記』によると、居多ヶ浜には、親鸞が1207年3月28日に木浦から舟で上陸した浜と伝えられており親鸞とお供の二人を描いた「親鸞聖人居多ヶ浜御上陸の図」のレリーフがある。
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見真堂の光景。親鸞聖人上陸の地を記念して、1967年に記念堂、1971年に法隆寺夢殿にならって八角堂の「見真堂」が建立された。
八角堂内には、親鸞の座像が安置され記念堂には、親鸞と恵信尼の御影が並べて掛けられている。 -
見真堂の光景。
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見真堂の光景。
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見真堂の光景。
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見真堂の光景。
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見真堂の光景。
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見真堂の内部。
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国府別院の光景。
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国府別院の光景。
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国府別院の光景。
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国府別院の光景。
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国府別院の光景。
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国府別院の光景。
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国府別院の説明。本願寺国府別院は、親鸞聖人が35歳の時に承元の法難で流罪になったとき、最初に現国分寺境内の竹之内草庵に入り、念仏解禁により竹ヶ前(たけがはな)草庵に移ったとされるが竹ヶ前草庵の地が国府別院になったといわれている。妻の恵信尼公とともに、越後の人々に念仏の教えを広めた。本堂は1805年に建立されたもの。
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国府別院の親鸞上人像。
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国府別院周辺の光景。
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国府別院周辺の光景。
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国府別院周辺の光景。
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国府御影堂跡。
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国府御影堂跡。
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国府御影堂跡。
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光源寺の光景。
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光源寺の本堂。1207年、親鸞の越後国府上陸時、木曽義仲家臣、堀徳兵衛光政が帰依し覚円坊最信の名で覚円坊を建立。 1575年、覚円坊を光源寺と改めた。
本堂は、中央に「御真影」を安置する御影堂、右に宮殿があり、御影堂と本堂とを併設した全国的にも珍しい形態をとっており国府影堂、国府御坊と呼ばれてきた。 -
光源寺の光景。
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