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2008年3月14日、カナダについて金が必要だった。北米一治安が悪いとされている街の、北米一安い宿を拠点に決めた。街を牛耳るのはヘルズエンジェルス、世界最大のマフィア。街ではそこら中でドラッグが売買、カフェのテーブルで普通にドラッグが使われていた。そんなあまりにもひどい環境にある、環境の悪い宿を拠点とした。ついて即お金を作らなければならなかった。連絡先に書く電話を持っていなかったため、宿の電話をレジュメに書いた。人情ない北米の、人情ある宿だった。そしてそのレジュメを印刷できる所を探した。数枚印刷し、そこら中にばらまいた。翌日宿の電話が鳴り、面接に行き、翌日から働き始めた。3月16日、着いて2日目だった。とにかく働いた。疲労でトイレで嘔吐した。2回立てなくなり、床にへばりついたりしていた。でも働かせてもらえた事に感謝していた。(後日分かったが、日本人経営者のEさんブログを読んでいたら、Eさんなどは床で寝るほど働きまくっていた。)働いていたところはカフェだった。出入りする皆と仲良くなっていった。とあるカナディアンが仕事を2回、オファーしてくれた。NYモデル、トロントでTVホスト、バンクーバーでクラブの経営、と流れてきていたJといい、1歳下BC生まれだった。はじめに雇ってもらった所に悪いと感じ、辞退していた。するとまた違う人が声掛けてくれた。M、印刷ショップ経営者だった。時間的にどこにも迷惑掛ける状況ではなかったため、Mの仕事のオファーを引受けた。いや、書き方が悪い…正しくはMの忙しい仕事を協力し、手伝ってあげた。もともとR社にて広告の仕事経験があった。月から金9時から5時、印刷から製本などをこなした。BC州政府などにも行った。因みだが、一緒に働くNという仲間はイランイラク戦争で前線に行ってたと聞けた。聞けなかったが、頭にスチールで縫い目があった。平和について考えた。同僚のAは、母親の親類の娘に当たる方が、イランナショナルサッカーで世界で有名なアリダエイの奥さんだと聞けた。そんなAも、兵士として戦争にいったと聞いた。Aの戦争時の仲間は精神汚染で未だ病院だといった。「戦争ってどういうことなのか、よく分からない」と聞くと「戦争とはそこら中に爆弾が落ちることだ」と言ってくれた。聞けはしたが想像はできなく、でもそれ以上聞くことなどできなかった。因みにイランナショナルサッカーチーム総監督のアリダエイは、今テヘランのいい所のマンションに住んでいると聞けた。親類とはいえAは関係は遠いが、でも数回ダエイと会ったことがあると言っていた。クラブ経営者のJが名刺印刷に来ていた。また仕事オファーをしてくれた。3度目のオファー、どこにも迷惑にならない状況だったため、引き受けた。言い方が悪い…Jの忙しい仕事を協力し、手伝ってあげた。ナイトクラブトンネル。地下のスタッフルームと社長室の内装工事、内装屋のNや元トロントナイト・現バンクーバー俳優のK達と一緒に作った。ダンスフロアでも働いた。水金土6時過ぎから2時頃まで。働きまくった。週末の休みには日雇い現場仕事探し稼いだ。仕事にありつけない時は、2×4住宅の見学に一人歩いた。建築現場見つけると無断で入り込んで行っていた。持っていたデジカメで撮影し歩いた。職人見つけた時は事情を話し、社長の家聞き直接訪ねて行った事もあった。また家の外観を撮影していたら家主に2度、怒られた。1度は子供を持つ若い女性だった、でも迷惑かけたいわけじゃなく自分の考えている正しいことをしたいと力説し、どうにか理解もらえた。ありがとうございました。そしてもう1度は、注意されたが同じく説明した。すると、その家主の知人のハウスデザイナーを紹介してくれた。自分中心はよくない。感謝しなくてはならない、ありがとうございました。だけども北米生活は常に攻めなければならない。だがカナディアンは皆、嘘など言わず正直、皆優しく猜疑心がない人ばかりだった。文化がそうさせているに違いない。感謝されていた日本の昔のお客さんの工務店へ、本場2×4住宅要素を取り入れた名刺を勝手に作ろうとしていた。宿で知り合った、Tというワーホリストが広告デザイナーと聞けた、毎日夜中まで働いた後、お金を払い、カフェでデザインのやり方を教わっていた。撮りためていた写真を使いまた勉強のためとも思い、感謝されていた工務店の名刺を勝手に作りデザインしてみた。作ったデータを働いていた印刷ショップに持ち込み、仕事の最後無理言って数枚印刷してもらった。社長のMに何度かバレて怒られた。この際、勿論紙質なども選び、何度も色の出を見て勉強していた。納得いくものが作れた段階で勝手に日本に送りつけ、反応を見ていた。そんな中、ある時停電があり街自体が活動ストップした時があった。だけども皆焦らず、マイペースだった。パニックなどという状態は全然なかった。素晴らしいと思った。親の知り合いの同郷の方が移民していた。連絡を取り、会ってもらった。世界に向けた木材の貿易をしている会社の社長夫人だった。清掃登山を始めた野口健さん、外交官であるお父さんとNYで触れ合ったことなどがありその際野口健さんはまだ小さかった、と話してもらえた。とてもノビノビし、生き生きされてらっしゃる方だった。島を個人資産で持っている方だった。天皇がカナダ訪問した際式典に並んだとも言っていた。実力主義で完全に成功をつかんだ、すごい方だった。同室だった、コリアンのRのスタッフパーティーにも行ったりした。カナディアンやヨーロピアン、多くの人種がそこにいた。また同室のBJというインド系カナディアンと2人で飲んだりしていた。異文化に溶け込めてはいないようだった。知り合った日本の人たちと、グラウンドでサッカーしたりした。とにかく自分に休暇を与えないよう動いた。ゆったりじゃなく、常に動いているのが好きなんです。アラスカからウシュアイアまでチャリで向っていたA、生命保険解約してワーホリビザで来てたK、常に笑顔のワーホリストS、1か月68万稼ぎ半年で360万貯蓄しベガスで使い切りメキシコで就労したが強制退去になり、ヒッチでアメリカ北上したがドライバーが〇〇〇〇〇所時していたらしく御用となり、その場で英語が話せず結果100年入国禁止を食らい、その後グリズリーのいるユーコンへ北上し初めてのカヌーで北極圏からベーリング海まで3200キロ下りきる放浪をし、南下する際ヒッチした車がたまたまソーラーカーであり、同乗し世界記録樹立し、なぜかまたメキシコで就労し、南米をバイクで駆け廻ってるであろう世界旅行者調布出身の高校中退且つ読書家Rちゃん、植村直己さんの足跡を辿り世界の山々を登ってきていた中学の教員Y。強烈な人ばかりで、共通することは皆心があった。Yから、世界の冒険家植村直己さんをよく知る人物がエヴェレストのクムジュンというところにまだご健在だと聞けた。「ペンパ・テンジン」さん。植村直己さんがゴジュンバ・カンにアタックされたときリードされたシェルパの方で、頂上に立つ最後の一足だけ続いてくる直己さんに譲られたという方だった。そんな植村直己さん、エヴェレストに初めて登頂された日本人であり、登頂の最初の一足を松浦さんという年上の方に譲られていた方です。松浦さんは今でも忘れられない、という。その後直己さんはあまりにも有名な話、アマゾン川を単独で筏下りしたり、北極点を犬ぞりで到達されたり、世界5大陸5サミットを登頂達成されていたりしながらも、ここが一番大切なのだが…常に「謙虚」かつ「豪快」な方だった。僕は中学生のころ、植村直己さんの自筆本を親が買ってくれそこで初めて出会い、強烈の印象を受けていた。話をもどそう。カナダに4か月滞在し40万貯められた。水と米だけの生活、とにかく「金を貯める」ということだけに専念した。世界の冒険家植村直己さんに最後の一足を譲られた方ペンパテンジンさんがエヴェレストにいる。それを聞いた途端、チケットおさえた。カナダから飛び、アムステルダム経由しデリーに入った。デリー・アーグラー・バラナシと抜け、何度もいかさまに遭いながら向かった。インドは体力を要する国で、彼らもビジネスで、日本的にいうと騙しに来るようだった。日本の常識なんかは通用しない、ものすごい国だ。デリーでは旅行会社で軟禁をくらい、アーグラーでは言っていたことと違うことを言うドライバーと口論をしたりしていた。バラナシでは現地で有名なアガスティア・ムンナさんという人らに、やられた。やられた数時間後に、ソナという日本人の方と一緒になったインド人と話し、即やられたと気がついた。バラナシからスノウリというインドネパール国境の町までバスで行き、カトマンドゥ目指してたがストライキにより行けず、予定を変更し一人ポカラに向かった。満員も満員になり乗客定員オーバー。途中で女性に席を譲ると、案内された席がバスの天井になった。ネパール現地の人やインドの人皆とバス天井屋外特等シートにてワイワイ仲良く話し、ポカラにつけた。EIWA GUESTHOUSEというところに宿泊を決めた。一晩100ネパールルピーという値、SUKUさんというネパーリの方がオーナーだった。下に兄弟がいたため、若くして家を出て皿洗いなどをしてお金を稼ぎ、実家に送金していた…などの、EIWA GUESTHOUSE経営に至るまでの苦労話などをしてくれた。宿隣にポカラでも有名なジャパレス、アニールモモがあった。おいしい定食があり、よく行き食べた。スノウリ近辺から、足に痛みを感じていた。インドネパールの蚊は強いなぁ…程度に思っていた。EIWA GUESTHOUSE隣アニーモモジャパニーズレストランの店主と話した時、それは蚊ではなくバクテリアだと知った。確かに、そこら中、腐ってきていた。痛かったのはそのせいだったようだ。アニーモモのおじさん曰く、「ここ数年地元民でもそれになった人みてない」とのことだった。教えてもらった薬やに行き飲み薬と塗り薬を処方してもらった。バクテリアルインフェクトという病気だった。薬局のおじさんと話すと、おじさんも忙しく旅に出る時間がないって言われてた。セブンイレブンの通りに位置する薬局だった。ネパールに入る3か月程前に王制がなくなり国が揺れていた。そんな経緯もあり、バスはストライキをおこしたりしていた。EIWA GUESTHOUSE滞在中、バス会社の社員が学生に殺されるという事件が起こっていた。旅人にはあまり影響はなかった。が、滞在中一人殺されていた。食事中の人はこの先読まないでいただきたい。あまりきれいな話ではありません。カトマンドゥに移動する途中、トイレで初の不浄の左手を使わざるおえない状況に陥った。仕方なかった。でも、意外と意外、だった。というか、言い過ぎだろうか…むしろ逆に清潔感を感じた。そんな新鮮さを覚えた。カトマンドゥにつき、旅人の地で有名なタメル地区OM TARA GUESTHOUSEという宿に泊まった。カトマンドゥはインドと比べると断然きれいであり、インド人と違いネパーリは信頼できる人達だった。チベタンフードやネパール餃子のモモを食べたりしていた。暖かい水…ホットシャワーも少し出た。夕方に停電が多かった。そんなときは蝋燭の火を使っていた。やわらかさがあった。この頃にはカトマンドゥの物にあふれる…日本と近い感じを少し思い、モノの圧倒的にないが心が凄くあるカナダを懐かしく思っていた。目的地へ向かおうと、エヴェレストトレッキングを開始しようと考えた。OM TARA GHでトレッキング斡旋業者を紹介されたが、節約したかったのと、すべて自分で手配し勉強したかったのがあり、エヴェレスト登山斡旋業者を断り、一人で手配試みた。エヴェレストからカトマンドゥに戻った時すぐインドへ抜けられるよう、インドコルカタへ行くチケットも調べておいた。サガルマータ国立公園入山パーミットを役所で取るやり方、エヴェレスト登山に必要な寝袋などの手配などは、知り合った洋服店店主のMALAKARさんに手伝ってもらいながら覚えながら一人で準備し、カトマンドゥ空港からルクラ空港まで一人セスナに乗り込み飛んだ。大抵はお願いするポーターだが、付けず3790mのクムジュン目指そうとしていた。が、ルクラでルクパというシェルパにポーターをお願いし、エヴェレスト入山口ルクラから2人で登山を始めた。途中パクティンで1泊した。ホットシャワー使えなく冷たい水シャワーだった、そして雨も降り、若干寒かった。ヒマラヤ山中に住む人達の、逞しさも感じた。とはいえ、日本にいた時自分で買ったことはない電化製品電子レンジが、電気もあまりないヒマラヤの山中の宿に置いてあった事には驚いた。自分の生活を考えるべき…なのかもしれない…。。キッチンは薪を使う窯、好きになった。天空の村と言われるナムチェバザールにつく途中、道中はストゥーパなどの仏塔が多くあった。エヴェレスト登山を安全に過ごせるよう作られているもだと思う。中国のチベットから僅か400キロ地点に位置するナムチェバザール、そこにはインターネットが使える環境があった。山中で飲んだエヴェレストの湧水はとても美味しかった。ネパール共産党毛沢東主義のマウイストが山中に潜んでいる可能性がある、などと出会ったネパーリが話してくれた、あまり気にしていなかった。

2008.03.14-2008.07.21‐2008。09.04

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2008/03/14 - 2008/09/04

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Vincent

Vincentさん

2008年3月14日、カナダについて金が必要だった。北米一治安が悪いとされている街の、北米一安い宿を拠点に決めた。街を牛耳るのはヘルズエンジェルス、世界最大のマフィア。街ではそこら中でドラッグが売買、カフェのテーブルで普通にドラッグが使われていた。そんなあまりにもひどい環境にある、環境の悪い宿を拠点とした。ついて即お金を作らなければならなかった。連絡先に書く電話を持っていなかったため、宿の電話をレジュメに書いた。人情ない北米の、人情ある宿だった。そしてそのレジュメを印刷できる所を探した。数枚印刷し、そこら中にばらまいた。翌日宿の電話が鳴り、面接に行き、翌日から働き始めた。3月16日、着いて2日目だった。とにかく働いた。疲労でトイレで嘔吐した。2回立てなくなり、床にへばりついたりしていた。でも働かせてもらえた事に感謝していた。(後日分かったが、日本人経営者のEさんブログを読んでいたら、Eさんなどは床で寝るほど働きまくっていた。)働いていたところはカフェだった。出入りする皆と仲良くなっていった。とあるカナディアンが仕事を2回、オファーしてくれた。NYモデル、トロントでTVホスト、バンクーバーでクラブの経営、と流れてきていたJといい、1歳下BC生まれだった。はじめに雇ってもらった所に悪いと感じ、辞退していた。するとまた違う人が声掛けてくれた。M、印刷ショップ経営者だった。時間的にどこにも迷惑掛ける状況ではなかったため、Mの仕事のオファーを引受けた。いや、書き方が悪い…正しくはMの忙しい仕事を協力し、手伝ってあげた。もともとR社にて広告の仕事経験があった。月から金9時から5時、印刷から製本などをこなした。BC州政府などにも行った。因みだが、一緒に働くNという仲間はイランイラク戦争で前線に行ってたと聞けた。聞けなかったが、頭にスチールで縫い目があった。平和について考えた。同僚のAは、母親の親類の娘に当たる方が、イランナショナルサッカーで世界で有名なアリダエイの奥さんだと聞けた。そんなAも、兵士として戦争にいったと聞いた。Aの戦争時の仲間は精神汚染で未だ病院だといった。「戦争ってどういうことなのか、よく分からない」と聞くと「戦争とはそこら中に爆弾が落ちることだ」と言ってくれた。聞けはしたが想像はできなく、でもそれ以上聞くことなどできなかった。因みにイランナショナルサッカーチーム総監督のアリダエイは、今テヘランのいい所のマンションに住んでいると聞けた。親類とはいえAは関係は遠いが、でも数回ダエイと会ったことがあると言っていた。クラブ経営者のJが名刺印刷に来ていた。また仕事オファーをしてくれた。3度目のオファー、どこにも迷惑にならない状況だったため、引き受けた。言い方が悪い…Jの忙しい仕事を協力し、手伝ってあげた。ナイトクラブトンネル。地下のスタッフルームと社長室の内装工事、内装屋のNや元トロントナイト・現バンクーバー俳優のK達と一緒に作った。ダンスフロアでも働いた。水金土6時過ぎから2時頃まで。働きまくった。週末の休みには日雇い現場仕事探し稼いだ。仕事にありつけない時は、2×4住宅の見学に一人歩いた。建築現場見つけると無断で入り込んで行っていた。持っていたデジカメで撮影し歩いた。職人見つけた時は事情を話し、社長の家聞き直接訪ねて行った事もあった。また家の外観を撮影していたら家主に2度、怒られた。1度は子供を持つ若い女性だった、でも迷惑かけたいわけじゃなく自分の考えている正しいことをしたいと力説し、どうにか理解もらえた。ありがとうございました。そしてもう1度は、注意されたが同じく説明した。すると、その家主の知人のハウスデザイナーを紹介してくれた。自分中心はよくない。感謝しなくてはならない、ありがとうございました。だけども北米生活は常に攻めなければならない。だがカナディアンは皆、嘘など言わず正直、皆優しく猜疑心がない人ばかりだった。文化がそうさせているに違いない。感謝されていた日本の昔のお客さんの工務店へ、本場2×4住宅要素を取り入れた名刺を勝手に作ろうとしていた。宿で知り合った、Tというワーホリストが広告デザイナーと聞けた、毎日夜中まで働いた後、お金を払い、カフェでデザインのやり方を教わっていた。撮りためていた写真を使いまた勉強のためとも思い、感謝されていた工務店の名刺を勝手に作りデザインしてみた。作ったデータを働いていた印刷ショップに持ち込み、仕事の最後無理言って数枚印刷してもらった。社長のMに何度かバレて怒られた。この際、勿論紙質なども選び、何度も色の出を見て勉強していた。納得いくものが作れた段階で勝手に日本に送りつけ、反応を見ていた。そんな中、ある時停電があり街自体が活動ストップした時があった。だけども皆焦らず、マイペースだった。パニックなどという状態は全然なかった。素晴らしいと思った。親の知り合いの同郷の方が移民していた。連絡を取り、会ってもらった。世界に向けた木材の貿易をしている会社の社長夫人だった。清掃登山を始めた野口健さん、外交官であるお父さんとNYで触れ合ったことなどがありその際野口健さんはまだ小さかった、と話してもらえた。とてもノビノビし、生き生きされてらっしゃる方だった。島を個人資産で持っている方だった。天皇がカナダ訪問した際式典に並んだとも言っていた。実力主義で完全に成功をつかんだ、すごい方だった。同室だった、コリアンのRのスタッフパーティーにも行ったりした。カナディアンやヨーロピアン、多くの人種がそこにいた。また同室のBJというインド系カナディアンと2人で飲んだりしていた。異文化に溶け込めてはいないようだった。知り合った日本の人たちと、グラウンドでサッカーしたりした。とにかく自分に休暇を与えないよう動いた。ゆったりじゃなく、常に動いているのが好きなんです。アラスカからウシュアイアまでチャリで向っていたA、生命保険解約してワーホリビザで来てたK、常に笑顔のワーホリストS、1か月68万稼ぎ半年で360万貯蓄しベガスで使い切りメキシコで就労したが強制退去になり、ヒッチでアメリカ北上したがドライバーが〇〇〇〇〇所時していたらしく御用となり、その場で英語が話せず結果100年入国禁止を食らい、その後グリズリーのいるユーコンへ北上し初めてのカヌーで北極圏からベーリング海まで3200キロ下りきる放浪をし、南下する際ヒッチした車がたまたまソーラーカーであり、同乗し世界記録樹立し、なぜかまたメキシコで就労し、南米をバイクで駆け廻ってるであろう世界旅行者調布出身の高校中退且つ読書家Rちゃん、植村直己さんの足跡を辿り世界の山々を登ってきていた中学の教員Y。強烈な人ばかりで、共通することは皆心があった。Yから、世界の冒険家植村直己さんをよく知る人物がエヴェレストのクムジュンというところにまだご健在だと聞けた。「ペンパ・テンジン」さん。植村直己さんがゴジュンバ・カンにアタックされたときリードされたシェルパの方で、頂上に立つ最後の一足だけ続いてくる直己さんに譲られたという方だった。そんな植村直己さん、エヴェレストに初めて登頂された日本人であり、登頂の最初の一足を松浦さんという年上の方に譲られていた方です。松浦さんは今でも忘れられない、という。その後直己さんはあまりにも有名な話、アマゾン川を単独で筏下りしたり、北極点を犬ぞりで到達されたり、世界5大陸5サミットを登頂達成されていたりしながらも、ここが一番大切なのだが…常に「謙虚」かつ「豪快」な方だった。僕は中学生のころ、植村直己さんの自筆本を親が買ってくれそこで初めて出会い、強烈の印象を受けていた。話をもどそう。カナダに4か月滞在し40万貯められた。水と米だけの生活、とにかく「金を貯める」ということだけに専念した。世界の冒険家植村直己さんに最後の一足を譲られた方ペンパテンジンさんがエヴェレストにいる。それを聞いた途端、チケットおさえた。カナダから飛び、アムステルダム経由しデリーに入った。デリー・アーグラー・バラナシと抜け、何度もいかさまに遭いながら向かった。インドは体力を要する国で、彼らもビジネスで、日本的にいうと騙しに来るようだった。日本の常識なんかは通用しない、ものすごい国だ。デリーでは旅行会社で軟禁をくらい、アーグラーでは言っていたことと違うことを言うドライバーと口論をしたりしていた。バラナシでは現地で有名なアガスティア・ムンナさんという人らに、やられた。やられた数時間後に、ソナという日本人の方と一緒になったインド人と話し、即やられたと気がついた。バラナシからスノウリというインドネパール国境の町までバスで行き、カトマンドゥ目指してたがストライキにより行けず、予定を変更し一人ポカラに向かった。満員も満員になり乗客定員オーバー。途中で女性に席を譲ると、案内された席がバスの天井になった。ネパール現地の人やインドの人皆とバス天井屋外特等シートにてワイワイ仲良く話し、ポカラにつけた。EIWA GUESTHOUSEというところに宿泊を決めた。一晩100ネパールルピーという値、SUKUさんというネパーリの方がオーナーだった。下に兄弟がいたため、若くして家を出て皿洗いなどをしてお金を稼ぎ、実家に送金していた…などの、EIWA GUESTHOUSE経営に至るまでの苦労話などをしてくれた。宿隣にポカラでも有名なジャパレス、アニールモモがあった。おいしい定食があり、よく行き食べた。スノウリ近辺から、足に痛みを感じていた。インドネパールの蚊は強いなぁ…程度に思っていた。EIWA GUESTHOUSE隣アニーモモジャパニーズレストランの店主と話した時、それは蚊ではなくバクテリアだと知った。確かに、そこら中、腐ってきていた。痛かったのはそのせいだったようだ。アニーモモのおじさん曰く、「ここ数年地元民でもそれになった人みてない」とのことだった。教えてもらった薬やに行き飲み薬と塗り薬を処方してもらった。バクテリアルインフェクトという病気だった。薬局のおじさんと話すと、おじさんも忙しく旅に出る時間がないって言われてた。セブンイレブンの通りに位置する薬局だった。ネパールに入る3か月程前に王制がなくなり国が揺れていた。そんな経緯もあり、バスはストライキをおこしたりしていた。EIWA GUESTHOUSE滞在中、バス会社の社員が学生に殺されるという事件が起こっていた。旅人にはあまり影響はなかった。が、滞在中一人殺されていた。食事中の人はこの先読まないでいただきたい。あまりきれいな話ではありません。カトマンドゥに移動する途中、トイレで初の不浄の左手を使わざるおえない状況に陥った。仕方なかった。でも、意外と意外、だった。というか、言い過ぎだろうか…むしろ逆に清潔感を感じた。そんな新鮮さを覚えた。カトマンドゥにつき、旅人の地で有名なタメル地区OM TARA GUESTHOUSEという宿に泊まった。カトマンドゥはインドと比べると断然きれいであり、インド人と違いネパーリは信頼できる人達だった。チベタンフードやネパール餃子のモモを食べたりしていた。暖かい水…ホットシャワーも少し出た。夕方に停電が多かった。そんなときは蝋燭の火を使っていた。やわらかさがあった。この頃にはカトマンドゥの物にあふれる…日本と近い感じを少し思い、モノの圧倒的にないが心が凄くあるカナダを懐かしく思っていた。目的地へ向かおうと、エヴェレストトレッキングを開始しようと考えた。OM TARA GHでトレッキング斡旋業者を紹介されたが、節約したかったのと、すべて自分で手配し勉強したかったのがあり、エヴェレスト登山斡旋業者を断り、一人で手配試みた。エヴェレストからカトマンドゥに戻った時すぐインドへ抜けられるよう、インドコルカタへ行くチケットも調べておいた。サガルマータ国立公園入山パーミットを役所で取るやり方、エヴェレスト登山に必要な寝袋などの手配などは、知り合った洋服店店主のMALAKARさんに手伝ってもらいながら覚えながら一人で準備し、カトマンドゥ空港からルクラ空港まで一人セスナに乗り込み飛んだ。大抵はお願いするポーターだが、付けず3790mのクムジュン目指そうとしていた。が、ルクラでルクパというシェルパにポーターをお願いし、エヴェレスト入山口ルクラから2人で登山を始めた。途中パクティンで1泊した。ホットシャワー使えなく冷たい水シャワーだった、そして雨も降り、若干寒かった。ヒマラヤ山中に住む人達の、逞しさも感じた。とはいえ、日本にいた時自分で買ったことはない電化製品電子レンジが、電気もあまりないヒマラヤの山中の宿に置いてあった事には驚いた。自分の生活を考えるべき…なのかもしれない…。。キッチンは薪を使う窯、好きになった。天空の村と言われるナムチェバザールにつく途中、道中はストゥーパなどの仏塔が多くあった。エヴェレスト登山を安全に過ごせるよう作られているもだと思う。中国のチベットから僅か400キロ地点に位置するナムチェバザール、そこにはインターネットが使える環境があった。山中で飲んだエヴェレストの湧水はとても美味しかった。ネパール共産党毛沢東主義のマウイストが山中に潜んでいる可能性がある、などと出会ったネパーリが話してくれた、あまり気にしていなかった。

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