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逆井城址公園は、茨城県は猿島郡猿島町にあります。逆井城と飯沼城の遺構がある場所です。<br /><br />逆井城は逆井氏が構えていたお城です。逆井氏は下野国(栃木県小山市)の祗園城主であった小山義政の五男・常宗が逆井の地を治め、逆井氏を称したことによります。築城は宝徳二年(1450)頃と伝えられ、常宗から子の貫利・三代目(孫)の常繁まで古河公方へ仕えていました。<br /><br />天文五年(1536)、逆井城は北条氏康によって侵攻されます。その時の軍勢は大道寺駿河守盛昌が率います。<br /><br />北条の大軍を前に常繁は討死することになり、その奥方(娘?)の智姫は先祖代々から伝わるという釣鐘を頭からかぶって城敷地内の池に飛び込み自殺をしたそうです。<br />この池は後に智姫伝説となって、幾人もの人々がこの鐘を探して池を掘ったそうです。この池は今も空堀の所にあり、鐘堀池と呼ばれています。また、公園内のお蕎麦屋さんはこの「智姫」の名を取ったお店です。

逆井城址公園。

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2008/10/09 - 2008/10/09

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フロッガー

フロッガーさん

逆井城址公園は、茨城県は猿島郡猿島町にあります。逆井城と飯沼城の遺構がある場所です。

逆井城は逆井氏が構えていたお城です。逆井氏は下野国(栃木県小山市)の祗園城主であった小山義政の五男・常宗が逆井の地を治め、逆井氏を称したことによります。築城は宝徳二年(1450)頃と伝えられ、常宗から子の貫利・三代目(孫)の常繁まで古河公方へ仕えていました。

天文五年(1536)、逆井城は北条氏康によって侵攻されます。その時の軍勢は大道寺駿河守盛昌が率います。

北条の大軍を前に常繁は討死することになり、その奥方(娘?)の智姫は先祖代々から伝わるという釣鐘を頭からかぶって城敷地内の池に飛び込み自殺をしたそうです。
この池は後に智姫伝説となって、幾人もの人々がこの鐘を探して池を掘ったそうです。この池は今も空堀の所にあり、鐘堀池と呼ばれています。また、公園内のお蕎麦屋さんはこの「智姫」の名を取ったお店です。

  • 駐車場側、大手口方面からの二層櫓です。この櫓は、戦国時代末期の資料から復元されたものだそうです。<br /><br />この櫓は二階建てで、武器や食料の貯蔵と防御能力を持たせたものでした。

    駐車場側、大手口方面からの二層櫓です。この櫓は、戦国時代末期の資料から復元されたものだそうです。

    この櫓は二階建てで、武器や食料の貯蔵と防御能力を持たせたものでした。

  • 内部はこのような感じです。二階へ。

    内部はこのような感じです。二階へ。

  • 二階から。矢倉、主殿方向です。

    二階から。矢倉、主殿方向です。

  • まずは、本丸の遺構を見に行きます。この場所が大堀。奥に土塁が広がります。

    まずは、本丸の遺構を見に行きます。この場所が大堀。奥に土塁が広がります。

  • 本丸方面(一曲輪)に向かうと右手に池があります。これが鐘堀池。<br />

    本丸方面(一曲輪)に向かうと右手に池があります。これが鐘堀池。

  • 一旦戻って、三の丸へ。今は空堀が残ります。

    一旦戻って、三の丸へ。今は空堀が残ります。

  • 横矢橋。三の丸と二の丸をつなぎます。

    横矢橋。三の丸と二の丸をつなぎます。

  • そして二の丸の石碑。

    そして二の丸の石碑。

  • 二の丸から本丸へつなぐ、櫓門と橋です。<br /><br />この櫓門も、逆井城の発掘調査を元にして復元されました。元々の橋の遺構は、礎石と支柱の穴などが見つかっています。<br /><br />間口は3m、高さは6m弱です。

    二の丸から本丸へつなぐ、櫓門と橋です。

    この櫓門も、逆井城の発掘調査を元にして復元されました。元々の橋の遺構は、礎石と支柱の穴などが見つかっています。

    間口は3m、高さは6m弱です。

  • そして本丸から先ほどの鐘堀池を通って、先ほどの大堀へ戻ってきます。ここは土塁の所。<br /><br />北条氏得意の比高二重土塁です。またここが逆井城居館の本丸であったと言われています。

    そして本丸から先ほどの鐘堀池を通って、先ほどの大堀へ戻ってきます。ここは土塁の所。

    北条氏得意の比高二重土塁です。またここが逆井城居館の本丸であったと言われています。

  • 次は主殿へ。<br /><br />この門は関宿城門です。前のブログでだした関宿城、そこの城門です。薬医門と呼ばれ、明治六年の廃城後に町内の鶴見氏宅へ払い下げられましたが、その後ここへ移築されました。

    次は主殿へ。

    この門は関宿城門です。前のブログでだした関宿城、そこの城門です。薬医門と呼ばれ、明治六年の廃城後に町内の鶴見氏宅へ払い下げられましたが、その後ここへ移築されました。

  • 主殿です。<br /><br />これは茨城県牛堀町にある大台城遺跡から出土した主殿遺構を元に復元されたものです。<br /><br />逆井城が存在していた同時期の建物だそうです。

    主殿です。

    これは茨城県牛堀町にある大台城遺跡から出土した主殿遺構を元に復元されたものです。

    逆井城が存在していた同時期の建物だそうです。

  • 庭は枯山水?縁側はくつろげます(笑)。

    庭は枯山水?縁側はくつろげます(笑)。

  • 庭から。この場所は西二曲輪の場所にあたります。

    庭から。この場所は西二曲輪の場所にあたります。

  • 縁側から薬医門方向。

    縁側から薬医門方向。

  • そして観音堂へ。<br /><br />この観音堂は岩井市の大安寺にあったものをここへ移築したものです。天正一六年(1588)に建立され、当時の棟札と修復再興された弘化二年(1845)の棟札があり、幕末に改修されたものということがわかっています。<br />

    そして観音堂へ。

    この観音堂は岩井市の大安寺にあったものをここへ移築したものです。天正一六年(1588)に建立され、当時の棟札と修復再興された弘化二年(1845)の棟札があり、幕末に改修されたものということがわかっています。

  • 公園中央にお蕎麦屋さんがあります。評判のお店で、お蕎麦もしゃきっと天ぷらもカラッと。ボリュームもあっておいしかったです(#^.^#)。<br /><br />ここでお昼休憩。

    公園中央にお蕎麦屋さんがあります。評判のお店で、お蕎麦もしゃきっと天ぷらもカラッと。ボリュームもあっておいしかったです(#^.^#)。

    ここでお昼休憩。

  • そして井楼矢倉(せいろうやぐら)です。<br /><br />井楼のせいろうは蒸籠とかのセイロのような組み方をしているためこう呼ばれたそうです。<br /><br />この矢倉は敵の監視と味方の把握のために使われる、軍事目的での櫓でした。これがのちの天守閣の基になったといわれています。<br /><br />高さは12m弱。<br /><br />

    そして井楼矢倉(せいろうやぐら)です。

    井楼のせいろうは蒸籠とかのセイロのような組み方をしているためこう呼ばれたそうです。

    この矢倉は敵の監視と味方の把握のために使われる、軍事目的での櫓でした。これがのちの天守閣の基になったといわれています。

    高さは12m弱。

  • とりあえず登れるので、グルングルン螺旋状の階段を登ります。<br /><br />最上部から。二層櫓方向。

    とりあえず登れるので、グルングルン螺旋状の階段を登ります。

    最上部から。二層櫓方向。

  • 主殿方向。西の外堀に続きます。

    主殿方向。西の外堀に続きます。

  • その後、逆井城は北条氏の物になりました。逆井城が実際に落城したのは北条氏の古河公方追討の頃とも言われていますが、当時は飯沼城というものを北条氏は構えていたといわれ、その場所は長らくわからなかったのですが逆井城の発掘調査の結果、逆井城を改修していたことがわかりました。<br /><br />天正五年(1577)の頃になると、近辺の佐竹氏・結城氏・宇都宮氏・多賀谷氏といった北条氏に反抗する勢力が活発化してきます。北条氏は逆井城を北関東制圧のため、また侵攻のための最前線の基点として逆井城の大改修を行いました。当時は湖のようであったと言われる飯沼を利用した、自然の要害の強固な城であったと言われています。<br /><br />改修を担当したのは北条氏繁ですが、後に城主として玉縄城からこの城に入城しています。このころから飯沼城と言われるようになったと考えられています。<br /><br />そして氏繁から氏舜(うじとし)・氏勝の代に続き、天正十八年(1590)の小田原攻めにて落城、廃城となりました。<br /><br /><br />現在の逆井城址公園にある堀や土塁などの遺構は 400年以上前からそのままに残されています。特に北条氏の城造りや防御に関しての考え方がわかる貴重な城跡になっています。そして、西曲輪(二の丸)には歴史建造物が移築され集められた遺跡広場にもなっています。櫓等、復元とは言いますがほかの復元ものとはちょっと異質でしっかりと歴史を反映させている場所でした。ちょっと凄い所です。(^◇^)

    その後、逆井城は北条氏の物になりました。逆井城が実際に落城したのは北条氏の古河公方追討の頃とも言われていますが、当時は飯沼城というものを北条氏は構えていたといわれ、その場所は長らくわからなかったのですが逆井城の発掘調査の結果、逆井城を改修していたことがわかりました。

    天正五年(1577)の頃になると、近辺の佐竹氏・結城氏・宇都宮氏・多賀谷氏といった北条氏に反抗する勢力が活発化してきます。北条氏は逆井城を北関東制圧のため、また侵攻のための最前線の基点として逆井城の大改修を行いました。当時は湖のようであったと言われる飯沼を利用した、自然の要害の強固な城であったと言われています。

    改修を担当したのは北条氏繁ですが、後に城主として玉縄城からこの城に入城しています。このころから飯沼城と言われるようになったと考えられています。

    そして氏繁から氏舜(うじとし)・氏勝の代に続き、天正十八年(1590)の小田原攻めにて落城、廃城となりました。


    現在の逆井城址公園にある堀や土塁などの遺構は 400年以上前からそのままに残されています。特に北条氏の城造りや防御に関しての考え方がわかる貴重な城跡になっています。そして、西曲輪(二の丸)には歴史建造物が移築され集められた遺跡広場にもなっています。櫓等、復元とは言いますがほかの復元ものとはちょっと異質でしっかりと歴史を反映させている場所でした。ちょっと凄い所です。(^◇^)

  • 平櫓です。こちらも貯蔵庫が主な役割です。

    平櫓です。こちらも貯蔵庫が主な役割です。

  • 井楼矢倉から外堀方向へ。主殿の左側のこの場所は梅園になっています。<br /><br />ポツポツ見える敷石は、古河城の書院の礎石を復元したものだそうです。

    井楼矢倉から外堀方向へ。主殿の左側のこの場所は梅園になっています。

    ポツポツ見える敷石は、古河城の書院の礎石を復元したものだそうです。

  • おまけは、大手門手前からの二層櫓と。

    おまけは、大手門手前からの二層櫓と。

  • 蓮沼からの遠景です。

    蓮沼からの遠景です。

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