2009/03/27 - 2009/03/27
157位(同エリア306件中)
ムッシュさん
佐久市から和田峠方向を目指しています。
千曲川を越えれば望月宿に到着です。
岩村田宿 第二十二宿(日本橋より164.5km)
中山道と佐久甲州街道、善光寺道、上州下仁田道の分岐点にあたり、佐久平の交通の要衝であった。内藤氏1万6千石の城下町であった。
塩名田宿 第二十三宿(日本橋より169.5km)
千曲川の渡しで栄えた宿場。問屋を兼ねていた本陣は200坪近くもあり、諸大名に利用されたいた。今でも「舟つなぎ石」など渡し場の名残を感じることができる。
八幡宿 第二十四宿(日本橋より172.5km)
高良社を旧本陣とする八幡神社があり、宿名となった。信州を代表する五郎兵衛米の産地。本陣と脇本陣、問屋に門や宮殿が残る。幕末に皇女和宮が十四代将軍徳川家茂へ降嫁の折に宿泊した。
望月宿 第二十五宿(日本橋より186km)
望月宿は文化元年(1804年)には、本陣、脇本陣が一軒づつ置かれ、旅籠29軒が軒を連ねて賑わった。今も卯建や格子戸の残る宿場情緒溢れる町並みが存在しており、重文の真山(さなやま)家は公開されている。
8月の満月の日、朝廷へ名馬を納めたことから望月の名が付いたといわれる。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
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【岩村田宿の龍雲寺】
武田信玄ゆかりの寺。武田信玄墓所で遺骨は信玄のものと鑑定された。
信玄は出兵の際、この寺に詣で、戦勝祈願をしたという。
曹洞宗大田山龍雲寺があります、正和元年(1312年)この地で覇を唱えた大井氏の創建です。
大井氏の滅亡後も武田信玄の帰依が篤く、寺領を寄進し、越後雲洞院から崇敬する北高(ほっこう)禅師を招いて住職としました。
天正元年(1573年)武田信玄が信州駒場で病死した際、遺命で喪を秘し、北高禅師が遺骨を龍雲寺に持ち帰り、密かに埋葬したと伝わっています。
龍雲寺は、当初は正和元年(1312年)に大井氏が開いた曹洞宗の寺であるかつての大井庄で、その中心がここ岩村田であった
現在のものは、戦国期後期、武田信玄が佐久に進軍し大井氏を破った後に再建されたものである (長野県佐久市岩村田)
当寺院は鎌倉時代の初め、地頭天井氏(甲斐源氏)の菩提寺(臨済宗)として創建されたが。その後戦火のため荒れ果て、位置も現在地に移った。
時あたかも甲斐国主・武田信玄が、信州の経略が一段落した永禄三年(1560)中興開基となり、北高全祝禅師を迎えて興隆をはかった。
一、 信玄公の遺骸が霊廟に安置されている。(昭和六年五月二十九日境内にて遺骨発見)
一、 武田家三代(信虎・信玄・勝頼公)が厚く帰依した名僧北高禅師の墓碑がある。(長野県史跡)
一、 正親町(おおきまち)天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
一、 信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多勢の僧が道場に籠もって行われる宗教上的大行事)を元亀三年四月から七月にかけて執行した。
一、 武田文書を中心に、三十八通の佐久市指定文化財の古文書、その他が保存されている。
正和元年(1312)大井美作守入道玄慶の開創。大井氏の滅亡後も武田信玄の帰依が厚く、寺領を寄進し堂宇を再興、更に越後雲洞院から北高禅師を招いて住職とした。天正元年(157 3)4月12日信玄が駒場で病死した際、遺命で喪を秘し、北高禅師が遺骨を龍雲寺に持ち帰り密かに埋葬したという。昭和6年骨壺が発見され、中から骨と島田助宋作の短刀、「大壇越信玄千時天正元年酉年四月十二日於駒場卒戦時為舎利納慈、北高和南頂百拝」と記された袈裟環が発見され、言い伝えが確認された。 -
境内の奥に信玄公の遺骨出土の地に大きな五輪塔があります、昭和6年(1931年)発掘調査が行われ武田信玄の遺骨が発見されました、信玄公霊廟には遺骨が安置されています。
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寒い朝を迎えました。宿泊ホテルからの眺めです。
一夜明けると、なな、なんと外白銀の世界です。
一面の雪どすへ! -
さあ、いざ出発です。
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【相生の松】
雌雄二株が結びついためでたいということで皇女和宮は、ここで野点をした。
小海線の踏切を渡り、右手岩村田高校を過ぎ、左手浅間総合病院に沿って左へカーブすると突き当たりに「相生の松」がある。
記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、休憩されたと言われている。「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。
初代の松は、樹齢二百年以上。男松女松が一緒に植樹され、地上1mで双幹になり、高さは13mにもなった。しかし、昭和40年に枯れ、現在では高さ約1.3mで残されている。昭和42年には二代目を植樹するが、2年で枯れた。
三代目は、昭和58年に相生町公民館の盆栽教室のメンバーを中心に植樹。以来、年に2回の草刈りと手入れをしてきた。三代目も初代にふさわしい成長ぶりで、高さは約15mで、胴回りもしっかりとしている。 (小諸新聞より) -
【相生の松】
男松女松の株が結びついためでたい松(三代目)です、ここで皇女和宮は野点を行いました。
傍らに歌碑「其むかし 業平あそむの尋ねけん おとこ女の 松の千とせを」と中北道標「追分11.0km 塩名田4.3km」があります、江戸方面からは右折し、京方面からは左折します。 -
本日は、一面の雪景色
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塩名田宿の街道風景
塩名田宿は加宿御馬寄村と千曲川往還を確保し、継立を支障なく行う為、慶長7年(1602年)に新設された宿場です、川止めに備え本陣は二軒ありましたが、川止め以外はひなびた宿でした。
天保14年(1843年)の頃、塩名田宿の宿内家数は116軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠7軒、宿内人口は574人で、宿並は下宿、中宿、川原宿の三宿と加宿御馬寄村で構成されました。 -
宿並の家屋には往時の屋号札
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丸山本陣跡
塩名田宿は本陣1、脇本陣1、旅籠7軒の宿場であった塩名田で標高625m。
本陣と問屋を兼ねた丸山家の建物が現存している -
旧屋号丸山煙草屋
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塩名田宿本陣
「塩名田宿」
千曲川河畔にあり、中宿、下宿、河原宿の三つに分かれてる。
千曲川が増水し川留めで滞在が延長されるため、本陣が二軒設置されていた。
丸山新左衛門本陣跡があります、宝暦6年(1756年)の再建です、本棟造切り妻で鬼瓦には丸山の文字があしらわれています、建坪129坪で問屋を兼ねました。
次の八幡宿との距離は中山道最短。 -
塩名田宿本陣。
鬼瓦に「丸山」の文字が刻まれた妻入切妻造りの九本陣・問屋丸山家が保存されてる。 -
問屋・本陣跡説明版(拡大してください)
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三階建て住居
結構急な坂道沿いに、何軒かの三階建て住居群になっている。 -
塩名田宿
江戸から43里13丁,23番目の宿。
岩村田と望月の中間に位置し難所のひとつである千曲川を前に一宿が必要とされ慶長7年(1602)北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を40軒ほど移住させて形成された。
東から「下宿」・「中宿」・「河原宿」に分かれていた。今でも千曲川の清澄な風景が広がり、河原宿に往時の面影がよく残されている。
人口:574人,家数:116軒,旅籠:7軒,本陣:2,脇本陣:1 -
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【舟つぎ石】 千曲川説明版(拡大すると読めます)
「塩名田と御馬寄の間を千曲川が流れている。いまは頑丈な中津橋が架けられているから、これを渡るのはなんの支障もないが、江戸時代には、これを渡るのはたいへんなことだった。橋を架けても、洪水でじきに流されてしまったからである。しかもここは、江戸時代の主要な街道の一つである中山道だったため、橋が流されたからといって、いつまでも放置しておくわけにはいかなかった。
このため地元塩名田宿・御馬寄村をはじめとして、この地方の人々は、渡川を確保するためにたいへんな苦労をしなければならなかった。
木内寛先生の「中山道千曲川往還橋」という論文によれば、その橋には次のような変遷があった。
~享保五年(1721)御馬寄側が投渡した橋・塩名田側が平橋(両側から中州へ架橋)
享保六年(1722)~寛保二年(1743)御馬寄側が刎(はね)橋・塩名田側が平橋
寛保三年(1744)~寛延二年(1750)舟渡し
寛延三年(1751)~享和二年(1803)御馬寄側が刎橋・塩名田側が平橋
享和三年(1804)~明治五年(1873)長さ70間余の平橋
このように江戸時代をつうじて、たびたび架橋方式が変わったのは、千曲川が「近郷無類の荒川」二、三年に一回以上の割合で橋が流されたからである。
幕府が崩壊し、明治時代になると、それまで130村による「中山道塩名田宿・御馬寄村の間千曲川橋組合」での維持・管理方式を続けることができなくなってしまった。
そこでつくられたのが船橋会社で、この会社によって明治六年(1873)に船橋(九艘の舟をつないで、そのうえに板をかけわたして橋としたもの)が架けられ、渡川が確保されたのである。舟つなぎ石は、その船橋をつなぎとめたもので、だから上部に穴があけられているのである。その後、明治二十五年に県によって木橋が架けられ、船橋の役割は終わった。
こうした歴史を、今に伝えているのが舟つなぎ石なのである。 -
千曲川の舟つなぎ石近くにある烏帽子岩
岩の左上に小さな穴があります。ここに舟を縄で繋いで止めた。 -
千曲川に架かる中津橋
中津橋歩道橋で千曲川を渡ります。
千曲川は甲武信ケ岳に源を発し佐久平、上田平を北流し、善光寺平の川中島で犀川を吸収し、越後に入って信濃川と名を変え、日本海に注いでいます。
この橋を渡ると、八幡宿、望月宿へと続いてます。 -
芭蕉句碑
「涼しさや直ぐに野松の枝の形(芭蕉)」 -
【御馬寄(みまよせ)の大日如来像】
江戸時代初期に造られた大きな石仏。
千曲川を渡った西岸の集落「御馬寄(みまよせ)」に昔と変わらぬ姿で静かに佇む。
御馬寄(みまよせ)の名は、昔この辺りが望月の御牧があった所で、馬寄場からついた。御馬寄は、字のごとく馬を寄せ集めた所からきている古代の官牧(かんぼく、勅旨牧とも)の望月牧の貢馬(こうば)をここで寄せ集めたとのこと
(長野県浅科村御馬寄) -
【八幡神社】
貞観八年(859年)御牧の管理をしていた滋野(しげの)貞秀によって勧請された古社です、この地を支配した望月城の城主望月氏の鬼門除けとして崇敬され、武士の信仰が篤かったといいます。
天保14年(1843年)建立の随神門(楼門)、そして瑞垣門(みずがきもん)をくぐると境内に、右手の八幡神社本殿は天明3年(1783年)の建立です。
正面の旧本殿高良社(国重要文化財)は延徳3年(1491年)望月城主滋野遠江守光重により建立。
〔八幡神社随神門〕
構造 三間一戸楼門 組物三手先越三手先 中備蟇股(なかぞなえかえるまた) 間斗束(けんとづか) 軒繁垂木 屋根入母屋造 妻虹梁(つまこうりょう)大瓶束(たいへいづか) 本瓦葺
楼門とは楼造りの門のことで、二階建ての門を言う。一階と二階の境は親柱に擬宝珠をつけた高欄の縁側を巡らしている。頭貫木鼻(かいらすききばな)の唐獅子、各所に施されている彫刻等、江戸時代の特色を示す。門の両側の間には衣冠束帯に剣と弓矢を持った武官神像の随神をおく。
建立、天保十四年(1843)六月、小諸藩主牧遠江守康哉が大願主となり数百本の材木を、また欅材は川西地方村々の寄進により造営された。
楼門高く懸かっている額は明治時代奉納されたもので、戈(ほこ)を止めて武を為すと横書きに記されている。 -
「随身門」(右)は,天保14年(1843)の建立。
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楼門高く懸かっている額は,明治時代に奉納されたもので「止戈為武」(武の本義は人と人の争いを止め平和と文化に貢献することにある)と横書きされている。
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【八幡神社境内にある高良社】
流造(ながれづくり)、こけら葺の構造で500年前の姿を今に伝える。 -
【八幡宿本陣跡】
和宮の大行列の本陣となった。和宮御泊の関札や錦の小物など記念品を所蔵。
八幡宿は八幡、蓬田(よもぎだ)、桑山の三村を中山道沿いに移転して、新設れた新宿です。
八幡(やわた)の地名は宿内の八幡(はちまん)神社に由来します、千曲川対岸の塩名田宿からの宿間は二十七町と中山道の中で最も短いです、これは千曲川の川止めに備えたもので脇本陣は四軒ありました。
天保14年(1843年)の頃、八幡宿の宿内家数は143軒、うち本陣1、脇本陣四、旅籠3軒、宿内人口は719人で、宿並は七町二十五間(約809m)でした。
八幡宿の江戸口には八幡神社が鎮座しています。
八幡宿本陣跡、文化元年(1804年)建築の本陣門を残しています、代々小松家が勤めました、規模は建坪120坪、門構え玄関付でした、幕末皇女和宮が宿泊(16日日目)し、下賜された品や貴重な資料等が残されています -
千曲川対岸の塩名田宿からの八幡宿間は二十七町と中山道の中で最も短いです、これは千曲川の川止めに備えたもので脇本陣は四軒ありました。
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中北道標「←茂田井宿5.5km笠取峠11.2km 塩名田4.1km→」、この道標上に案内標識「←中山道」が取り付けられています。
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八幡を過ぎれば、望月宿に向かいます。
望月駒のレリーフ -
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【山道一里塚跡碑】があります、瓜生坂の一里塚です。
慶長九年(1614)徳川家康は、大久保長安を総奉行として五街道の大改修をし、江戸日本橋を起点として一里毎に道の両側に方五間の一里塚を築き、その上に榎を植えさせた。ここは南方の一里塚跡で北方の塚は、道路で半分削られているが、斜面上方に位置している、瓜生坂の一里塚の手前は、塩名田宿のはずれにあり先方は、芦田宿の手前の茂田井間の宿に位置している。 -
ここが瓜生坂の頂上です。
古代の東山道にあたり、峠の東で祭祀遺跡が発見される。 -
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【長坂道祖神、長坂馬頭観音】
段上には大聖不動、普寛霊神、御嶽山蔵王大権現碑等があり、擁壁下に道祖神、馬頭観音等があります。
中山道長坂石仏群は長坂にあった修験道の大応院のものです、明治5年(1872年)廃寺。 -
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【望月宿本陣】
本陣跡に門が再建され、本陣の敷地の大半が歴史民族資料館となった。
奈良平安時代、千曲川、鹿曲川、布瀬川で囲まれたこの地は御牧ケ原(望月牧)と呼ばれる朝廷の御牧(御料牧場)でした。
旧暦の八月十五日の満月の日に駒ひきの儀が行われ、この地で産出する望月駒が朝廷に献上されました、望月駒は優秀で評判であったといいます。
望月の地名は満月の日を意味する望月に由来しています。
太田南畝の壬戌紀行によると「今宵の宿の家は土もてぬれる壁なり。木曽路のごとき板家にあらず」と評判が良い宿でした。
望月宿江戸口
天保14年(1843年)の頃、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠9軒、宿内人口は360人で、宿並は六町余(約655m余)でした。 -
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山城屋
江戸時代末期創業の旅籠山城屋喜左衛門です、現在も営業を行っています。 -
こちらは、一晩お世話になった旅籠”山城屋”さん。
古い構えです。 -
望月氏は,清和源氏の流れを汲む滋野氏あるいは渡来人と言われる大伴氏の分派が牧場の管理のため信濃に派遣されたその末裔とも言われている,古代よりこの地に勢力を張った豪族である。
木曾義仲に組し頼朝政権下では苦渋を味わうがいつのまにか北条氏に取り入るなどその後の足利時代,武田,北条と巧みに戦乱の時代を生き延びてきたが,天正10年徳川家康軍に滅ぼされ18代600年にわたる歴史を閉じた。
日本各地の「望月姓」はすべてここが発祥だといわれている。 -
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