2009/03/26 - 2009/03/26
370位(同エリア1061件中)
ムッシュさん
軽井沢から佐久市方面に向ってる所です。
小田井宿 第二十一宿(日本橋より159.5km)
女性客に親しまれた姫の宿。追分の隣にあったので大名などの宿泊は少なかったが、女性が安心して利用できたので”姫の宿”と呼ばれた。本陣、問屋、旅籠が現存し、宿場用水や出桁造り縦格子の家も残る風情ある町並み。
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浅間山です
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【追分宿 分去れわかされ】
中山道と北国街道の分岐点である。
「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿」
とうたわれているように、ここを右すれば北国街道の名所の更科や越後路に、左すれば桜の名所吉野や関西方面に分かれたところである。ここに幾多の旅人がさまざまな感慨をこめて左右に袂を分かったことであろう
安置された石仏、石碑、石燈籠等に昔がしのばれる。
【分去れの道標(わかされのみちしるべ)】
「右、従是北国街道 左、従是中仙道」
中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、今も賑わったありし日の面影をとどめている。
右は北国街道姥捨山の「田毎の月」で知られる更科へ、左は中山道で京都へ、そこから桜の名所奈良吉野山へ向かうという意味である。 -
次の21番目の宿場小田井までは
浅間山を背に、蓼科山を前にした緩やかな下り坂の続く快適な道となっている
京都方面から来た旅人が、この長いだらだら坂を上ってきて目の前に追分宿の灯火を見て思わず笑みを浮かべたところから笑坂と言われるようになったとか -
【御代田一里塚】
桜の木です。満開になれば美しい枝垂桜です。一里塚で桜は珍しいですよ
県指定史跡御代田の一里塚入口標柱があります、民家の間を抜けると畑の中に御代田(みよた)の一里塚の両塚を残しています、江戸日本橋より数えて41里目です。
寛永十二年(1635)街道の付け替えが行われ、これにより取り残されました。
西塚は径十三m、周囲四十m、高さ五m
大山神社 一里塚入口 御代田の一里塚 東塚
で塚木は枝垂れ桜です、但し、この桜木は明治の頃戦勝祝いに植樹されたものです。
中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井宿へと至り、さらに佐久市鵜縄沢(うなわざわ)の一里塚、岩村田宿へと向かう。
中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長七年(1602)に整備され、寛永十二年(1635)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5mを測る。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4.5mを測る。
これらは現中山道より7m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
ちなみに、国十八号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が二基保存されており、町指定の史跡となっている。 -
御代田一里塚
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御代田駅
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振り返れば、北の方に浅間山が雄大に見えます。
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R18号線沿いにある、”ひょうたん寿司”でランチ。
なかなか美味でした。以前は御代田駅前あたりに有ったが、こちらに移転したとのこと。 -
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追分に5.0km、塩名田まで10.3kmの標識
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小田井宿跡の入口。
追分5.3km、塩名田10.0kmの標識。
【小田井宿】 日本橋から40里31町(160.5Km)、京へ95里3町 (373.4Km)
天保14年(1843)で人口319名、総家数107軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋5軒。
小田井宿は天正年間(1573~92)に誕生し、慶長(1596~1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。
昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東・西の入り口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁盛期であった文化・文政期には、文政五年(1822)で一九九戸・人口五二四人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場であったようです。町並みは寛延元年(1746)で七町二十三間(805m)ありました。和宮より拝領の人形が残され、それにちなんで八月十六日には小田井宿祭りが行われます。 -
【小田井宿の説明板】
小田井宿には飯盛が無く、婦女子の宿泊が多い所から姫の宿とも呼ばれましたが、文化2年(1805年)刊行の木曽路名所図会には「駅内弐町ばかり、多く農家にして、旅舎少なし、宿悪し」と著され、ひなびた宿でした。
天保14年(1843年)の頃、小田井宿の宿内家数は107軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠5軒、宿内人口は319人で、宿並は八町四十間(約945m)でした。
小田井宿東の崖上に、この地を治めた尾台六郎福親が大永年間(1521~28)に築城した小田井城がありました。
天文13年(1544年)時の城主尾台又六郎は武田信玄に攻撃され、奮戦空しく弟の二郎左衛門ほか全将兵が討ち死にして落城し、廃城となりました。 -
【小田井宿本陣跡】
安川本陣跡(御代田町指定史跡)、客室部は切妻造りで、式台、広間、三の間、二の間、上段の間、入側(いりがわ)などは原型をよく留めており、安川家文書には宝暦6年(1756年)に大規模改築が行われたと記されています。
湯殿と厠(かわや)は、幕末の文久元年(1861年)の皇女和宮降嫁の際に修築されたもので、厠は、大用所、小用所ともに二畳の畳敷となっています。
皇女和宮は小田井宿安川本陣にて昼食を摂りました、その際、本陣は小さな御所人形を拝領しました、これにちなんで毎年八月十六日には授かった拝領人形を籠に乗せた古装束の一行が宿内を練り歩く小田井宿祭りが行われます。 -
【小田井宿本陣跡】
安川庄右衛門が勤め,建坪195坪,屋根は元来茅葺置き。宝暦6年(1756)に大規模な改修が行われている。客室は切妻造りで式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入側などが原形を留めているという。現在,非公開で見学はできない。文久2年(1862)、和宮がここで休憩している。 -
【小田井宿、上の問屋跡】
隣接して上の問屋跡(安川家住宅)があります、江戸後期の建築で天保2年(1831年)道中奉行に差出した図面とほぼ変わりなく荷置場、帳場、客室部、廐、土間等が保存されています。
佐久型出梁造りと連子格子の幾何学模様が美しい。小田井宿の本陣跡(安川家住宅)である。本陣の客室は当時のままという
皇女和宮や宮家、公家等の姫君や商家の娘が泊まることが多かったため姫の宿(姫宿、ひめじゅく)ともいわれていたそうだ。
小田井宿。かつて大名は追分宿に、姫君は小田井宿に泊まったことから「姫の宿」といわれています。現存する千本格子の旅籠を眺めて、当時を偲ぶことができます -
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中山道 小田井宿跡
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小田井宿下の問屋跡(安川家)
下の問屋跡、(尾台家住宅)明和9年(1772年)の大火以降の建築。
切妻造り、屋根は元板葺石置、三室続きの客室を備えた建物です、荷置場と問屋場は門の左右の建物を使用しました、問屋業務は上の問屋と半月交代で勤めました。
母屋は小田井宿で唯一の妻入り本棟造り。定飛脚の木札を保有。 -
行く道の後方を振り返れば、高く聳える浅間山。
まだまだ、何処から見ても大きいワイ!! -
【皎月原(こうげつはら)】
名残り松の奥に名勝で知られる皎月原(こうげつはら)があります。
伝説によれば、用明天皇の官女”皎月(こうげつ)”が咎めを受けて、佐久郡の平尾へ流されました。
いつも白馬を愛でていた官女はある時、小田井の原へ馬を引き出して乗りまわしていました、ところが天の竜馬だった白馬は空へ駆け上がり、平尾山の頂上に立ちどまった。
そこで皎月は「吾は唯人ではない、白山大権現だ」といいました、その後皎月は時々小田井の原へ来て馬の輪乗りをし、其跡には草が生えなかったところから皎月の輪と呼ぶようになりました。
奥に皎月歌碑「むかしより かわらぬ影を うつしてや 月毛乃駒の 跡のみちしは」があります、小諸藩の馬術師範押兼国衛門長常の古歌です。
次へ 中山道NO.15 小田井宿→岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10330289/
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