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2009/02/16 - 2009/02/27
36696位(同エリア48119件中)
てつさん
台湾12日の旅
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー
- 航空会社
- JAL
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今年の台湾への旅は、日本人に縁のある場所を訪ねました。
今年もJALの特典航空券を利用し、初日は、成田から高雄へ行き、昨年と同様に高雄の住友大飯店に5泊しました。
2日目は、高雄駅を8時30分発の台鉄(区間車)で竹田駅(写真)に行きました。
竹田駅は、大正8年に建築された懐かしい日本の駅といった感じの建築物です。 -
竹田駅の隣にある池上一郎博士文庫です。
大東亜戦争中に軍医として、この地に派遣された故池上一郎氏(東京都出身)が、戦後、蔵書を寄贈し続けた縁で設立されました。
現在も、日本各地の有志から書籍が寄贈されているそうです。 -
池上文庫で、劉耀祖理事長に会い色々と話しを聞かせてもらいました。理事長は、日本時代に教育を受けてるため、当然ながら日本語を流暢に話します。
当文庫を訪れる日本人には、「日の丸」に寄せ書きをしてもらうそうです、私も愚筆ながら寄せ書きをしました。 -
故池上氏及び日本の有志から寄贈された書籍です。
約5,000冊あり、日本語が理解できる地元の年配者や日本語を学ぶ学生達が利用してるそうです。 -
書籍以外にも、色紙などが日本から送られてます。
劉理事長は、私が日台議員懇談会の会長である平沼赳夫議員の後援会に入会している事を知ると、平沼議員に色紙の寄贈を頼んでほしいとお願いされました。
帰国後にメールで平沼議員に連絡したら、快く了解してくれました、本当に良かったです。
劉理事長が出前で頼んでくれた弁当を、ご馳走になり竹田駅から台鉄で2人で帰りました、劉理事長は屏東へ、私はその先の九曲堂へ向かいました。
切符も劉理事長が購入してくれて、大変お世話になりました、再度、台湾を訪問した際に再会することを約束し、私達は屏東駅で別れました。 -
竹田駅から台鉄で九曲堂駅へ移動し、駅を出て右側へ5分ほど歩くと、飯田豊二(静岡県出身)を紹介した案内板(写真)があります。この右側の奥(線路沿)に碑が建ってます。
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飯田氏は、高雄県と屏東県の間にある高屏渓に架かる鉄橋を設計するも、大正3年における完成の前年に台南で病死した日本人です。この鉄橋は当時、アジアで最長であった為、「東洋一の大鉄橋」と呼ばれたそうです。
その功績を称え、当時の台湾総統府鉄道部が、この記念碑を建立しました。
ちなみに、現在は老朽化のため新しい橋が建設されましたが、飯田氏が設計した橋は国家二級古跡として保存されてるそうです。 -
碑の隣にある建物に、このような表示が書かれてます。線路側に向かって書かれてる為、電車の中からも良く分かります。地元住民の配慮でしょうか?。
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碑から駅に戻る途中、右側に朽ち果てた洋式建物がありました。
案内板が立っていて確認すると、日本時代に建てられた、パイナップルの缶詰工場との事です。 -
このような立派な案内板が、3箇所に立っている割には、建物の保存状態が悪く、残念でした。
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3日目は、高雄駅8時36分発、台鉄の区間車で台南に行きました。
台南後駅からタクシーで、市内にある慶隆廟(白馬将軍廟)に向かいました。 -
慶隆廟には、吉原という日本の軍人が御神体として祀られてます。
管理人の方(男性)は、日本語が喋れず会話が不通でしたが、私が日本から来たと英語で伝えると、資料を見せたり、お茶を用意して親切に接待してくれました。言葉が通じないため、筆談で意思疎通を図ろうとしたが、なかなか通じませんでした。
しかし、お互いに好意が通じたと思います。
台南を再び訪問する際には、再度訪問したいと思います。 -
台南駅にバスで戻ってから、タクシーで市内の鎮安堂(飛虎将軍廟)に行きました。
ここには、大東亜戦争中、台南上空における米国との戦闘で撃墜され戦死した杉浦茂峰士官(茨城県出身)が祀られてます。
撃墜された杉浦士官は、部落への墜落を回避して住民への被害を避けたそうです。 -
供卓の両側には、日本と台湾の国旗が立ててあります。
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鎮安堂では、毎日、朝は「君が代」を夕方には「海ゆかば」が流れ、タバコ7本に火を点けて御神体に捧げるそうです。
私が訪れた時は、日本語の分かる廟守の方が不在で、管理人と意思疎通は出来ませんでしたが、好意は通じたと思います。
ここにも、再度台南を訪れた際には、再び来ようと思います。 -
鎮安堂に掲げてある零戦の絵が嬉しいです。
日本の反日左翼が見たら、どのような反応を示すのか興味深いです。 -
台南駅(写真)に戻りました。
この駅は、明治33年に建設されましたが、老朽化のため改築し、昭和11年に現在の駅舎が完成しました。
国家2級古跡に指定され、現在も大事に使用されてます。 -
台南駅の構内は、白塗りで天井が高く、暑い時も中は涼しいそうです。
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台南から区間車で1つ目の駅である保安駅(写真)で降りました。
この駅舎は、大正13年の建築です。
台南県の3級古跡に指定されてるそうです。 -
保安駅は、懐かしい日本の駅といった感じで、気分が和みます。
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台鉄の区間車で高雄に戻りました。
写真の建物は高雄駅東隣にある高雄願景館で、昭和16年に竣工した旧高雄駅です。
2002年に駅としての役目を終え、歴史的建築物として保存されてます。中は高雄の歴史や現在の都市計画などを模型で紹介してます。 -
4日目は、高雄駅からMRT紅線で20分程の橋頭糖廠駅で降り、近くの台湾糖業博物館に行きました。
駅を出ると左側に神社の跡がります。 -
日本時代に建築された、台湾初の機械式製糖工場です。1999年まで操業してたそうです。
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出荷に利用した貨物の引込線です。
このような歴史を感じさせる工場の保存は、貴重です、感動を覚えます。 -
従業員の倶楽部です、この他にも事務所や宿舎など歴史的な建物が保存されてます。
一度は見学するに値すると思います。 -
その後、MRTの美麗島駅で橘線に乗換え監程捕駅で降り、高雄市立歴史博物館(写真)を訪れました。
この博物館は、昭和14年に完成した旧高雄市役所で、薄緑色の色彩が鮮やかです。 -
博物館内は、時代毎に部屋が仕切られており、日本統治時代も肯定的に紹介しております。
日本の左翼が見たら驚くでしょう。
ちなみに館内は、写真撮影がOKです。 -
韓国や中国と違って、台湾では歴史の捏造はありません。
日本統治時代を、忠実に評価しています。
是非、多くの日本人に来てもらいたいです。 -
歴史博物館近く、愛河沿いの遊歩道を歩きました。
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フェリーで旗津海岸へ行きました。
ここは、私が高雄市内では一番好きな所で、高雄に来たら必ず寄ります。
屋台で買った「焼イカ」を食べながら、のんびり時間を過ごすのが最高です。 -
5日目は、高雄駅8:30発、台鉄の区間車で坊寮に行きました。特急にあたる自強号に乗れば1時間で到着しますが、ローカル列車で、のんびりと台湾南部における田舎の景色を楽しみたくて、区間車(各駅停車)にしました。1時間50分位の旅です。
坊寮駅では、東龍宮(写真)を訪れました、駅から徒歩で15分位です。 -
東龍宮には、日本の軍人である田中綱常氏が御神体として祀られております。
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田中氏の隣には、着物姿の女性も祀られてます。
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田中氏の位牌でしょうか。
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御神体の前にあるテーブルには、日本酒が奉納されてます。
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入口には、「日の丸」が飾られてました。
廟守が不在だったので、田中氏が祀られてる理由が分かりませんでしたが、廟内を見るだけでも日本人として感謝したくなります。
その後、坊寮からバスで高雄に戻りました。 -
6日目は、宿泊地を台中に移しました。高鉄左営駅で10:36分発の高鉄(新幹線)に乗り、1時間で高鉄台中駅に着きました。その後、台鉄で台中駅に移動しました。
大正6年完成の台中駅(写真)です。 -
駅舎の中も、歴史を感じさせてくれます。
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この駅舎の天井も、高くなっており、暑い時でも、ここは涼しい事と思います。
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駅前広場です、このようなゲートが3個あります、これも日本時代の建築だと思われます。
宿泊先のホテルは、ここから徒歩で15分程の名師大飯店です、2泊しました。 -
ホテルにチェックインした後、ホテル近くの中山公園(台中公園)に行きました。
台中公園は、明治36年に完成してます。
この赤い橋は、太鼓橋と呼ばれており、まさに日本風の橋です。 -
公園内には、大正元年に造営された台中神社がありましたが、戦後、国民党によって取り壊され、現在はその跡地が残ってます。
壊された鳥居(写真)が展示されてました。 -
参道の両側には、奉納された石柱が残ってます。
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石柱には、奉納した人の名前、更に明治や大正といった年号が刻まれたものもあります。
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神社の跡地です。
このまま永久に残してほしいものです。 -
7日目は、ホテルから徒歩で宝覚寺に行きました。
宝覚寺といえば、黄金の大仏が有名ですが、ここも日本と大いに縁のある場所です。
これは、「日本人遺骨安置所」です、戦前に台湾中部で亡くなった日本人14,000名の遺骨が、安置されてるそうです。
当初は、別の場所に安置されてたそうですが、戦後に台湾を占領した国民党が荒らしたために、心ある人が収集して、この場所に安置するようになったそうです。 -
新鮮で綺麗な花が捧げられていました。
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更に、大東亜戦争中に志願し、日本の軍人として亡くなった台湾人を慰霊する碑もあります。
国民党の独裁が終了した後、1990年に日本の戦友会など有志が協力して建立したそうです。
台湾の靖国神社とも呼ばれてます。 -
「霊安故郷」の文字は、李登輝前総統による筆です。
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日本人や台湾人の有志による碑も、建てられてます。
中国人や韓国人、更には日本の左翼が見れば驚くことでしょう。
まさに、日台友好の象徴的な場所といえます。
是非とも、多くの日本人に来てもらいたいと思います。 -
その後、台中市政府(写真)に行きました。
この市政府は、大正13年の建築です。
日本時代における正面の外壁は、レンガ色でしたが戦後に国民党が白く塗ってしまったそうです。
地元の年配者は、美しかった日本建築を、国民党が変な色に変えてしまったと嘆く人もいるそうです。 -
一階部分は見学できます。
エントランスは、レトロな感じです。 -
廊下は、レンガの色が綺麗です。
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中庭は、大変素晴らしいです。
これが、日本時代における本来の姿でしょう。
レンガの色が鮮やかです。 -
外側の側面もレンガの色が、美しいです。
正面も元の色に戻したほうが、歴史的価値があると共に美しいと思います。 -
8日目は、台北に宿泊地を移動しました。
台中駅から台鉄で高鉄台中駅に移動し、10:36分の高鉄(新幹線)で台北へ行きました(1時間の乗車)。
台北駅から南に徒歩で10分位のところにある華華大飯店にチェックイン、このホテルは昨年も宿泊しており、今回は4泊しました。
ホテルの近くにある台北郵局(写真)を訪れました。
昭和5年に竣工した、現役の郵便局です。 -
天井が高く、郵便局とは思えない開放感です。
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気品のある雰囲気です。
これからも、長く使っていただきたいですね。 -
その後、MRTに乗り芝山駅で降り、徒歩で芝山岩文化史跡公園に行きました。
ここは、小さな山となっており、「六氏先生の墓」があります。
台湾統治直後に、日本から派遣された教師6人が地元住民に殺害されたとの事です。
この墓は新しく、1995年に地元の有志達が建てたそうです。 -
日本時代に、建てられた石碑が3個あったようですが、現在は2個です。
この石碑の横に、打ち壊された碑が1個横倒しになってましたが、おそらく国民党が壊したのでしょう。 -
この石碑は、伊藤博文の筆との事です。
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地元有志が建てた新しい墓の近くに、このような打ち壊された墓石が3基ありました。
これも、国民党が壊したのでしょうが、新しい墓を建ててくれた台湾人に感謝したくなります。 -
その後、MRTで台北駅に戻り、歴史的建物を散策しました。
この建築物は台北賓館で、明治44年に改修されたそうです。
日本時代は、台湾総督官邸として、現在は迎賓館として利用されてるそうです。
ちなみに青い旗は、親日国であるパラオの国旗です。
パラオから国賓が訪台していたようで、周辺にはパラオと台湾の国旗が溢れてました。 -
正面の門です、大変凝った芸術的な造りとなってます。
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守衛の脇にある門です、気品があります。
普段は中に入れませんが、年に数回、一般公開されるそうです。
次回は、一般公開される時に、来てみたいと思います。 -
次に訪れたのは、台湾大学付属医院です。
台北帝国大学付属医院として大正13年に竣工され、当時の最先端設備を備えた病院だったそうです。
訪れた時は、外壁の改修工事中でした。 -
病院内は、気品のある美しい造りとなっています。
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レトロな雰囲気が、良いですね。
末永く使っていただきたいです。 -
9日目は、台北駅8:00発の自強号で宜蘭に行き、北回線に乗換え武塔駅で降りました。
この付近は、タイヤル族の村で、駅から10分位歩くと、サヨン記念公園があります。
昭和13年、当地に教師兼警官として派遣されていた田北という日本人に、出征命令が届き、山を降りる際に地元の青年達が荷物運びを買って出たそうです。
その青年達の中に17歳の少女サヨンがいて、悪天候の中、川の激流に飲み込まれ行方不明になったそうです。 -
この悲劇を知った長谷川清総統から、サヨンの村に鐘が送られたそうです。しかし、その鐘は、戦後、国民党によって接取され行方不明となったそうです。
この公園は、当時の悲劇を伝承するために造られたのだと思います。 -
公園は、日本風にする事を希望した地元住民の意向で、鳥居も建てられました。
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公園から15分位歩くと、川の近くに「愛国乙女サヨン遭難之碑」があります。
この碑は、戦後、国民党によって碑銘を削り取られ、川の岸辺に捨てられましたが、地元住民が引き上げて建て直したとの事です。 -
この遭難之碑は、村を一望するように建っております。
又、地元の学校では子供達に、この悲劇をしっかりと教えてるそうです。
感慨深くなります。 -
武塔駅から北回線で宜蘭駅に戻りました。
この宜蘭駅は、大正8年に開業し、1996年に建て直されました。 -
駅からタクシーで員山公園に行きました。
公園内には、明治34年に鎮座した宜蘭神社の跡地があります。
この橋は、まさに日本風です。 -
戦後に打ち壊された鳥居などが、展示されてます。
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石柱やこま猫も無残に壊されてます。
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石の階段は、そのまま保存されており、神社があった面影を残しております。
せめてもの救いです。 -
タクシーで宜蘭市内に戻り、中山公園を訪問しました。
この公園は、明治42年に建設され、当時は宜蘭公園と呼ばれてたそうです。 -
公園内にある、忠霊塔です。
戦後、国民党によって壊されたそうですが、残骸を地元住民が掘り起こし、コンクリートの土台で固め再建したそうです。
塔の下には、松尾大佐他13人の日本人将校の遺骨が埋葬されてるそうです。 -
この絵のように、日本時代には鳥居があり、立派なものでした。
昭和11年の建築だそうです。 -
更に公園内には、日本海軍の通信所跡地があります。
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この通信所跡地も、丁寧に分かりやすい案内板があり、地元住民が客観的に歴史を認識してくれている証拠だと思います
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中山公園から10分位歩くと、宜蘭設治紀念館があります。
この設治紀念館は、明治39年に建設された長官の官舎です。 -
館内は、日本時代を紹介する展示になっております。
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浴室も当時のままです。
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設治紀念館の裏にある建物です。
明治39年建築の宜蘭農林学校における校長の官舎と案内板には書いてありました。
これで、私は宜蘭を後にしましたが、この街と周辺には、他にも沢山の日本と縁のある場所があるようです。
次回は、時間を充分作ってこの街を訪問しようと思います。 -
10日目の朝、ホテル近くの228和平公園を散策しました。
写真の建築物は、国立台湾博物館です。 -
この国立台湾博物館は、大正2年に建設された児玉総督後藤民生長官記念館が前身で、戦後、改修工事を2回行ってるそうです。
今回は、中に入りませんでした。 -
これは228紀念館で、日本時代はラジオ局(NHKの台北支局)でした。
戦後に発生した国民党による大虐殺事件である、228事件の象徴的な存在です。 -
民主化後の1990年代に建てられた228紀念碑です。
この228和平公園は、明治32年に造られ、日本時代は台北公園と呼ばれたそうです。 -
その後、台北駅南側の青島西路からバスに乗り、烏來へ行きました。
トロッコ台車に乗り、「烏來酋長文化村」という店で主人の女性が現れ地元のパンフレットを渡されました。
高砂義勇兵の慰霊碑について、教えてもらいました。
写真は、この店に張られてあったものです。 -
店の脇にある階段を登り、更に山道を登ったところに慰霊碑がありました。
大東亜戦争中に志願して日本軍と一緒に戦い、死亡した高砂族兵士を慰霊したものです。 -
地元住民と国民党の台北県長や高金素梅女史との間に色々と揉め事があったが、何とか解決したようです。
李登輝前総統による揮毫を忌々しい竹が覆っていて、残念ですね。
又、地元としては、日本の有志から送られた、石碑や石柱も設置したいのに、国民党の反対で出来ないという事に、改めて憤りを感じます。
昔も今も国民党は、日本人の敵です。 -
烏來からバスで台北に戻り、ホテルの近くを散策しました。
西門町駅近くにある中山堂です。
昭和11年完成の台北公会堂が前進です。 -
戦後、修復を繰り返しながら、総統就任式など国の重要な行事に利用されてます。
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総統府交通局通信部として大正13年に建設された建物です。
現在も、総統府交通部が使用しているそうです。 -
観光の定番となっている、台湾総統府です。
大正8年完成で、大東亜戦争中に空襲で一部損壊したそうですが、修復してます。 -
昭和13年建築の台湾銀行です。
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重厚感ある建物です。
これも、現役で使用されてます。 -
11日目は、台北駅から台鉄に乗り瑞芳駅で降り、バスに乗換えて金瓜石に行きました。
金瓜石は、かつて金鉱で栄え、1930年代が全盛だったそうです。
近年、そこに黄金博物園区を造り歴史を紹介し、更に日本式家屋なども保存されております。 -
この石段は、日本そのものです。
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大正12年、裕仁天皇が皇太子の時に訪れた際、建てられた邸宅です。
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懐かしさを感じる建築物が、保存されてあり、多くの日本人に来てもらいたいです。
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トロッコの線路跡も復元されてます。
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この博物園区の中にある山の中腹に、日本時代に建てられた黄金神社の跡があります。
神社の跡地に向かう山道には、壊された石柱や奉納者の名前を削り取った石燈籠などが、放置されてました。 -
霧の中に鳥居が現れ、幻想的です。
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石燈籠が無ければ、パルテノン宮殿のようです。
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本殿の跡です、改めて国民党に怒りを感じると共に、このまま末永く保存し、日本人の足跡を後世に残してほしいものです。
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金瓜石を後にして、バスで台北に戻りました。
MRT中山駅から南京東路を歩き、林森公園に行きました。
この公園には、第7代台湾総統である明石元二郎氏の墓地跡にプレートがあります。 -
明石氏は、総統在任中、公職で日本へ戻った際、福岡で病死したそうです。
遺言によって台湾に葬ったが、戦後、台湾へ来た国民党の兵士や難民が、墓地の上に住込みスラム化してしまったそうです。
これを見かねた台北市長の陳水扁氏(民進党)が、1994年に立退き料を払って、公園にしたそうです。
その後、明石氏の墓は、台北県北部の三芝郷に移転したそうです。 -
MRT西門町駅近くの西門紅楼に行きました。
明治41年に建築され、当時は八角堂と呼ばれたそうです。 -
レトロな雰囲気が、良いですね。
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1階には、古き良き時代を紹介する、展示スペースがあります。
これは、新聞記事でしょうか。 -
戦前の企業における商品案内です。
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戦前の貴重な品が多く展示されてます。
繁華街の西門町を訪れる人は多いと思いますが、是非ここにも足を運ばれて、古き良き時代を感じてみるのも良いのではないでしょうか。 -
12日目は帰国の日です。
写真は、台北駅ですが、台北に滞在中はこの駅を何度も利用しました。
今回の旅は、台湾における古き日本を感じる充実したものになりました。
これからも、まだ知らない日本の遺構を調べて、台湾を訪れたいと思います。
この日は、桃園国際空港を13:20発のJAL646便で成田へ帰国しました。
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