1978/08/02 - 1978/08/04
994位(同エリア2515件中)
アンタライさん
- アンタライさんTOP
- 旅行記19冊
- クチコミ2件
- Q&A回答1件
- 94,618アクセス
- フォロワー2人
ヨーロッパ最北端地ノルウェーのノールカップから、一気に南下して、走るだけの6日間でストックホルムへ。
観光らしい事は、ストックホルムの市内観光と、コペンハーゲンでのビール工場見学と、子供だましのお粗末なチボリ公園に、ちょろっと寄る。
ストックホルムから4日目で、西ベルリンに行く為に、東ドイツをトランジット通過する起点の、西ドイツ国境の町 Lauenburg(ハンブルグから50km程西) に昼過ぎに着いた。
ノールカップの次の目標。 国境らしい国境見学と社会主義国の東欧の観光。
国境超えして、東ドイツを1日で通過し、西ベルリンに入るには、もう、時間も遅い。 早めにユースに泊まる事にした。
Lauenburgのユースホステルの4時から受付を、日本に手紙を書きながら待っていたが、結局、満室で泊まれずじまい。
これだから、ユースは嫌なんよね〜!!
ドイツのキャンプ代は高いからね〜!! ユース利用の方が安く済むし、テントを張るのもめんどくさくなっていた。
仕方ないので15km程ハンブルグ寄りに走り、Geeshacht と言う小さな町のユースに、どうにか泊まる事が出来た。
このユースには、ドイツの12〜3歳の子供、30人位が林間学校なのか、宿泊していて、バイクが珍しいのか、それとも、日本人が珍しいのか、すぐ集まって来て、ちょっとした人気者になった。
バイクの説明や旅行の話を紙に書いて説明したり、漢字、カタカナ、ひらがなで其々にノートやら、ジャンバーの背中に当て字でサインしたりで、大忙しであった。
子供と言っても、結構大人っぽく、中学生なのかな? 女の子も皆、可愛くて、色気もあるんよね!!
先生がいるのに女の子でもタバコをくれ! ってタバコを取られる。
バトミントンや卓球をしたり、卓球には少しは自信があったんだけど、上手い奴と対戦して3連敗もしちゃって、参っちゃったよ!!
ドイツの子供たちと、楽しく過ごしていた日は、ロンドンからカブでスタートした旅が、もう、37日目
1978年8月1日であった。
翌日、小雨の中を支度をして、昨日の子供たちに、またサインをしてあげ、一路、東ドイツ国境へと向かう。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自転車
-
戦勝記念塔?
西ドイツ国境の街Lauenburgの西側のゲートをあっさり通過し、監視塔が所々にあるだけの、草原地帯を走り、厳重な警戒の中、これこそ国境と言う厳しそうな雰囲気の東ドイツ側のイミグレーション・ゲートへ行く。
トランジット・ビサのスタンプを押して貰うまで、簡単な荷物検査される。
ドイツ語しか話さないので、何を言っているか、よく分らんし、「ヘルメットを取れ!!」 って命令調で怒鳴られちゃって、 びびっちゃったヨ!!
パスポートとグリーンカード(バイクの国際保険証)だけのチェックで、運転免許(国際免許はもう期限切れ)は調べられなかった。
また、バイクは特別なのか、他の車の検査の厳しさに比べたら、まだスンナリ早く通してくれた。
通行税5マルク(1マルク 約10円)を払って、1日(当日)で東ドイツを抜けなければならない。
Lauennburgの国境から西ベルリンまでは、250km位かな?
今の5号線じゃないかな!
?と言うのも途中でメーターのワイヤーが切れてしまい、正確な距離がよく分らなくなった。
それにバイクの調子はズート最悪!!
ストックホルムへ向かう途中で、停めたバイクをフットステップが曲がるくらい、思いっきり倒してしまい、何処かがズレたのか、ワレが入ったのか、エンジンの振動が大きくなってしまう。
現状でも悪い状態なのが、もっと酷くなっちゃったよ!!
オイルの喰いは早いし、相変わらず、マフラーから爆発音はするし、パワーも無くなっている。
もう、最悪の状態で旧東ドイツを走る。 -
西ベルリン側からの ブランデンブルグ門
当初、ポーランド行きを決める前までは、ドイツと言う国は、ベルリンで西と東に分断だされているもんだとばかり思っていた。
地図でなかなか、ベルリンが捜し出せず、まさか東ドイツのまん真ん中に、陸の孤島の様に残されていたとは、正直、知らなんだ。
東ドイツに入ると、昔からの地味なレンガ作りの古いままの家ばかりだし、スーパーらしき店は無く、小さなお店のパン屋、肉屋などに、長い人の列が出来ていた。
車は古いタイプの小型車だが、それほど多くは走ってはいない。
バイクも古臭いデザインで、モダンでも何でもないが意外と多い。
ガソリンスタンドも少なく、ここにも長い列が出来ていた。
その中で比較的、列の少ないスタンドで、給油する。
支払いはクーポンの様だったが、西ドイツマルクのコインで支払うと、最初は不思議そうな顔をしていたが、OK!で、喜んでいる様でもあった。
警察車両が頻繁に走っていて、脇道に外れて走る雰囲気じゃないが、少し5号を外れて走ってみる。
大型コンバインが刈り取りしてる麦畑ばかりで、細かい地図も、観光情報も無いけど、トランジット道路の近辺には、特に見るべき場所は無かった。
とにかく、天気も悪いけど、雰囲気が重く暗い気持ちにさせられる。
ソ連軍か東ドイツ軍か分らないが、古いソビエト風の、いかにも共産圏らしいの軍服を着た兵士の沢山いる駐屯地の出入口の真ん前で、バイクのクラッチが滑り出し、修理をする。
しかし、いじればいじるほど悪くなり、しょうがないないので、ギアをサードにぶち込んだまま、走り続け、どうにか夕方6時に西ベルリンに入る。
東側の国境では、西側に通過して行く車を、何をするではなく、只、見続けている沢山の暗い顔の人々、特にスカーフを被った女性が多くいた。
丁度国境でガス欠となったが、あまりの対称的なネオンがギンギラで、近代的なビル群の豊かさを、徹底的にアピールする西ベルリンへと入る。 -
ベルリンの壁
壁を挟んで、人のまるで住んでいない、昔のまま荒廃してるビルが続く。
西ベルリンのキャンプ場に、テントを張ったまま荷物を残し、バイクの修理に出かける。
バイク屋でどうにか上手く修理を出来、一応だが、ひと安心。
急いで、支度をして、ベルリンの壁の国境らしい、ブランデンブルグ門、チャーリー等を観光して写真を撮る。
大体観光も済んだので、さて〜、と、ポーランドに向けて走ろうと決める。
しかし、何処から国境を出ていいのか分らず、色んな人に、一般道からのポーランドへの国境出口を聞くが、これが捜して行って見ても違い、道にも迷い、やっぱり、チャーリーからだと言われ、また迷いながら、やっとチャーリーに行くと、ポーランド方面の車両は、アウトバーンからの出口1ヶ所しかないとの事、時間も遅くなってしまう。
西ドイツでは、アウトバーンって言ったら、スピード制限なしで、危なっかしくて速度の出ない50ccなんて勿論走れない。
結局は、アウトバーンと言う名ばかりで、高速道路じゃなく、一般道と同じだったが・・・。
それも道のあまり整備されていない。
ポーランド行きは翌日にして、西ベルリンに、もう1泊する事に決める。
ユースホステルで、東京の保険会社に勤めていて、長期休暇を取ってレンタカーで、東欧を廻っている人に会い、意気投合して、夜のベルリンを楽しんだ。 -
チェックポイントチャーリー
ユースで簡単な朝食を取り、作日の人に挨拶し、アウトバーンの入口に向かう。
ガソリンも満タンにし、スーパーで共産圏にないと言われていたガムやらチョコレートなどを買っておく。
道に迷いながら、やっとアウトバーンの国境出口に、12時着く。
国境通過はやはり、時間が掛かり、通行料5マルクの他に、西ベルリンに来た時には、取られなかった4マルクの Road Tax を何故か余分に取られた。
アウトバーンと言っても、舗装はされているが、道は極端に悪く、町らしい町はなく、軍用の車は多く走っていたが、ポーランド方面に走っている一般車は少なかった。
パーキングエリアにて、コーラとパンの昼食を取っていると、東ドイツの子供が居て、話しても全然通じなかったが、潰れていない西側のコーラの缶を集めている様であった。
バイクの調子を見ながら、ゆっくり、休み休み走り、西ベルリンから130km先のポーランド国境の町 Frannkfurt(西ドイツのフランクフルトと同じ名前)に4時半に着く。
さあ〜てと、物価が安いと言われてる、ポーランドを楽しもう!!
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
4