2008/11/22 - 2008/11/23
79位(同エリア88件中)
ひま人さん
新幹線広島経由で、島根も石見国に入り、江津から浜田を旅した。目の前に日本海を臨む島根県立石見海浜公園内にあるアクアス海洋館で昼食。赤穂藩士寺坂吉衛門の墓に参り、郷田宿甍街道
から土床坂(つっとこさか)を散策後ホテル入り。夜は有福温泉にある石見神楽を見学した。
2日目、個人の小川家雪舟庭園を見て、石見国に滞在していた柿本人麻呂を祀る都野津柿本神社から恋人と云われる依羅娘子(よさみのおとめ)生誕地を訪ねた。そして石見国分寺跡にある金蔵寺、石見国庁跡にある伊甘神社に寄った。そこから旧山陰道の才ケ峠で石畳を歩いた。そして江戸初期から明治維新にかけて大きな変遷があった浜田城祉に寄ったが、今は石垣のみ残る城跡である。最後に由緒ある多陀寺を参拝し、広島経由で帰路に着いた。島根もあと益田、津和野を残すのみとなったが、冬は積雪が予想されるので春まで待つことにした。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 JRローカル 徒歩
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赤穂浪士、寺坂吉衛門の墓。唯一足軽の身分で討ち入りに参加し、泉岳寺へ向かう途中、大石内蔵助から密命により結盟を抜け、遺族たちへの使者に立つように命じられた人でした。
吉衛門は、切腹した浪士たちの遺族を巡り、事の顛末を報告して、母の出身地であった石見国へやってきたそうです。 -
山陰道第30宿目の郷田宿は、現在の江津市本町辺りの町並みに名残を伝えている。その東外れに土床坂(つっとこさか)という楽しげな名の峠が残っている。整った状態の石畳の急坂で、ここを歩いたが少々疲れた。
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石見神楽、約1時間程で3演目上演。地元の保存会の人たちで、毎週土曜日のみ開演。写真はヤマトノオロチの演目。この日は、菅原道真公の太宰府流浪とエビス様が演じられた。見ごたえがある神楽だった。
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小川家雪舟庭園、画僧雪舟が築いた池泉観賞式の雄大な庭園。1460年に招かれた雪舟が築いたといわれ、中国の仙人が住むという深山幽谷をそのまま庭にうつしたという構想の大きさと、見るたびに異なった表情を見せる石組など興味の尽きない庭園である。
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都野津(つのづ)柿本神社。万葉集に長歌16首、短歌66首が掲載されている大歌人で歌聖と仰がれている柿本人麻呂が石見国の役人として赴任。そこで依羅娘子(よさみのおとめ)と恋に落ちた。その二人を祀る。
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柿本人麻呂歌碑。意訳『石見の国の高角山の木の際から、わたしの振る袖を妻は見てくれたであろうか』
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柿本人麻呂の石見国での妻、依羅娘子(よさみのおとめ)の生誕地の石碑。
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石見国分寺跡・金蔵寺本堂、天平13年(741年)、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔によって建てられた石見国分寺跡。金蔵寺(浄土宗)境内にあり、塔跡と礎石が一部残っているのみ。
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石見国庁跡・伊甘神社。伊甘神社の創建は貞観3年(861年)、伊甘郷の開拓者、猪甘首一族が祖先で天足彦国押人命を祀るため建立した。
境内右手に「国府跡」の石碑がある。 -
浜田城址、石垣。元和5年(1619年)、秀吉の家臣として伊勢松坂を本拠とした古田氏の三男重治が、大坂の陣の功績により、浜田5万4千石を与えられ入封し、江戸初期に完成。その後第2代藩主の時に、お家騒動があり、改易され、幕末の頃、天保7年(1836年)長州征伐の際、藩主松平総が戦わず逃走、敗残の兵たちが城と町に火をつけたため、城も灰塵に帰し、現在に至っている。
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多陀寺本堂、真言宗、中国三十三箇所霊場第22番。空海の相弟子である流世上人(りゅうせしょうにん)が開祖。
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多陀寺、流れ仏。近くの川で大量の仏像が流れているのを住民が拾い集めて、寺に安置したのがはじまり。
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