2008/09/03 - 2008/09/04
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しんちゃんさん
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静岡県田方郡(たがたぐん)函南町(かんなみちょう)を見学してきました。田方郡(たがたぐん)には、この函南町(かんなみちょう)のみです。他の町は町村合併にて新しい市になってしまいました。人口3万8千人。豊かな財源は工場?観光?住宅地?箱根の山に包まれた町の中心地を歩いて見学してきました。牧場と別荘地が有名らしいですが、町の中心には歴史を物語る観光地がありました。写真は柏谷公園のシンボル、通称「ブナおじさん」だそうです。からくり時計だそうです。探索に忙しく聞く時間がなかった。
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函南町内で一番広い公園「柏谷公園」と隣接して「柏谷横穴群」があります。横穴群(おうけつぐん)ってなんだろう?
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公園の入り口
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平日の午後、市民憩いの広場。お母さんに連れられて公園で遊ぶ子供。木陰もあって良いですね。セミの声がうるさいほどでした。
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公園の奥を探索しに入ると案内板があります。
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まずは、このあたりに高床式、竪穴式住居があったと「埴輪のモニュメント」もお出迎え。
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竪穴式住居は住民は出掛けていて不在。鍵が掛かっていた!
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記念碑「柏谷横穴群」読んで字の如く、柏谷の地区に横穴がた〜くさんあります。なんで??
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古墳時代に作られたお墓だそうです。「柏谷の百穴」とも呼ばれますが、百なんてもんじゃない、200〜300あるそうです。六世紀から八世紀頃に作られたそうです。ネットの中では300〜500との記事も・・・
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ほら穴は二〜三室に分かれていて遺骸を納める玄室(げんしつ)とその前面に慰霊祭を行った墓前域(ぼぜんいき)があります。部屋が一つしかないところもありました。
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昭和22年(1947年)第一次調査時の地図が掲示板に載っていました。当時は役場の南東に「柏谷」集落と「向原」があっただけで、後は田畑のみだったんですね。現在は住宅地になって家が密集しています。
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崖の途中から公園の南東側を見ました。
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横穴墓(よこあなぼ)と読むそうです。掘ったときのノミの跡がほら穴の壁に残っているとの説明でしたので探してみました。
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説明版では96号と118号の内部にノミの跡との事ですが、穴に番号はありません。この位置かなと、穴に入って観測開始!たぶんこれだ!
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ただの傷には見えない!ノミの跡に違いない。
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横穴墓内部から外を眺める。
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形まちまち。
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内部には神棚のような堀が。
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10〜19・93号横穴群と説明版
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B地区、柏谷公園北東の角に現在は埋められている、1号〜6号横穴墓
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現在は土手の中です。
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柏谷公園一番北側、小道を挟んで一部分にありました。
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東側は住宅地、崩れないようにモルタルで固められあります。
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説明版からです【略…伊豆地方で最古のこの二基が造られたのは、古墳時代後期の六世紀末頃で、聖徳太子が中心になって政治を行い始めた時代であることがわかりました。…略】
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伊豆地方最古の二基の内の一基、第125号。
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古い横穴の隣に、新しい横穴がたくさん。
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小学生が帰宅途中でしたが、何の気なしに通り過ぎて行きました。日常生活に溶け込んでいるのでしょう。左側住宅地でした。
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「柏谷公園」入り口の西側に説明版発見!なにかあるな?
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説明版からです【聖人塚(天皇峯)(前方後円墳)
一、(“ひとつ”と読むんですよ)木戸山(城戸山)芹沢(かしや)所有山である。ふくべ型の頭部山頂に向原の山の神を祈りあり。
一、貴人の墓として大正時代の古老(江戸末期の青年)の話では通常木戸山と言い改め口調のとき須藤(さかや)文書により聖人塚又は天皇峯と語っていた又ふくべ型のためふくべ塚とも言った
一、大正末期までは山裾を途(みち)が廻っていた。】 -
頂上の祠(ほこら)続きです
【一、役場の明治十八年地誌調記によれば百穴の西方に聖人塚(天皇峯)
一、芹沢氏個人の山だが奈良京都以外では見られない貴重な塚山だから区民一同大切に守り次世代に贈る心がけが肝要である。平成七年三月吉日 柏谷長老会】 -
木がなければ「前方後円墳」かもしれません。
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昔の物を大切にしていますね。でも、こんなものがなくなるのも時間の問題かも!
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神社仏閣の中に遺跡があると聞きましたので、探しに行きました。「神社は私の家の隣にあります」聞いたお嬢さんがここを案内してくれました。「向原鎮守天降神社」
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文久二年の灯篭。文久は1861年から3年しかなかったようです。1862年製作!!
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「向原鎮守天降神社」説明版のペンキがはがれて見えなかった!九州各地にも天降神社の名前が検索されるので西から伝わった神社のようです。
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向原鎮守天降神社の杜。「となりのととろ」は、こんな杜に住んでいます。
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他の神社を探していたら、このお寺の屋根が見えました。函南町東中学校の東側に「王城山六萬部寺」宗派−日蓮宗、秘蔵−仏像−稲妻大明神尊像、と書かれたお寺がありました。奥を見ると小高い“塚”が見えました。
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真ん丸い“塚”がお寺のど真ん中に鎮座していました。
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真ん丸い“塚”源頼朝の経が六万部埋められて名前がついたのだろうか?
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本殿、「王城山六萬部寺」
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ひと昔、塚には木が生い茂り、石の垣根が根の力で傾いてしまったそうです。
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境内を占める塚
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函南の名産は柿?柿畑がありました。遠くに函南町東中学校の体育館が見えます。
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静岡県田方郡函南町からの富士山
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来光川「仁田橋」たもとの掲示板。【「仁田館遺跡」
仁田館遺跡は源頼朝の家来のひとりであった仁田忠常で有名な仁田氏代々の屋敷とされています。発掘調査の結果(礎石)をもった建物跡(江戸時代)や、井戸(室町時代〜江戸時代)、屋敷の周囲からは幅約四メートル、深さ約二メートルの堀(安土桃山時代〜江戸時代)が発見されました。堀の底には土を掘り残した仕切りが確認されました。畝堀(うぬぼり)と呼ばれるもので、似たものは三島市山中城跡など後北条氏に関係した城でも発見されています。現在の仁田邸の北側には、堀の内側に土塁と呼ばれる土を盛った土手が今も残っています。・・・・ -
・・・・発掘調査では、確認されませんでしたが、本来は、調査で発見された堀の内側にも土塁が築かれていたと考えられます。屋敷の北東の隅からは昔の川の跡が発見されました。川の跡からは多くの土器や陶器とともに、こけら経が出土しました。こけら経は、薄い木の板にお経を書いたもので、亡くなった人を供養する時などに書かれました。仁田屋敷跡のこけら経は、室町時代の終わり頃のものと考えられ、八百五十枚以上出土しています。法華経が写経してあり、残り具合も非常に良く、当時の写経を知る上で全国的に見ても貴重な資料です。仁田館遺跡をはじめとする、来光川周辺の遺跡は歴史的に見ても非常に貴重なものであると言えるでしょう。】
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発掘調査図
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仁田家玄関脇にお墓がありました。声を掛けようと思いましたが、しおり戸が開いていたので、無断で失礼して見学しました。
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説明版からです【「仁田四郎忠常兄弟の墓」所在 函南町仁田、素封家仁田家邸内にあり、仁田四郎の富士の巻狩の猪退治は有名である。治承四年(1180)の山木判官平兼隆邸夜襲を初陣として、平家追放奥州藤原攻め等において数多くの手柄をあげ、頼朝の没後、建仁三年(1203)北条時政のために弟と共に殺された。墓は右から「六郎忠時・四朗忠常・五郎忠正」】
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墓は右から「六郎忠時・四朗忠常・五郎忠正」
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邸宅北側の土塁。仁田家では「末裔の仁田大八郎は私財を投げ打ち田方郡立田方農林学校、現在の静岡県立田方農業高等学校を設立する」とウィキペディア(Wikipedia)に載っています。地元に貢献していますね。
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屋敷の北側「空堀」です。北側は仁田家の菩提寺である慶音寺の墓地です。太陽が沈みはじめ、暗くなってきました。2時間以上散歩しました。夜は温泉に浸かり刺身で一杯。極楽極楽!さあ次は何処に行きましょうか?
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