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 羽鳥湖を左手に見ながら暫く西行すると大川と交差する。大川を渡って更に北西へ進むと旧西会津街道に行き当たる。この旧会津西街道沿いの山間の平坦な地域にある集落が大内宿である。<br /><br /> 会津若松から南に約20キロメートルほどに位置しており、標高650メートルの山間の街 道の両側に建ち並ぶ家並みは昔ながらの宿場情緒を色濃く残している。ここは、会津藩が本道五筋として整備した街道で、別名、会津西街道、下野街道などとも呼ばれていた。<br /><br />大内宿へのアクセスは次のURL<br />http://www.aizu-zensyu.com/aizuzensyu/2002-3/02aki-map.html<br /><br /> この街道が主に利用されていたのは江戸時代前半までのことで、会津藩主の参勤交代、会津藩の江戸への廻米などの道として使われていた。<br /><br /> この南山通りを利用した会津藩主の参勤交代は、正保元年(1644)から延宝8年(1680)までの間に21回に及び、大内宿は藩主の 昼食・休憩所として利用されていた。<br /><br /> ところが、幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになった延宝8年(1680)以降は、参勤交代の通行は白河街道へと移ってい き、南山通りは、馬に生活物資を載せた「中付駑者」の通う道として存続した。<br /><br /> 維新後は明治17年、福島県令三島通庸により大内宿の東方、阿賀川に沿って新しい道が開削されると、大内宿を通行する旅人はほとんどいなくなってしまった。やがて宿場は、周囲の山や、集落の西側に開墾された水田などで暮らしを営む農山村に変わっていった。<br /><br />  この大内宿が注目されたのは、相沢韶男氏(武蔵野美術大学教授)が紹介したのがきっかけであった。彼は昭和42年9月、初めて大内宿に足を踏み入れた。<br /><br /><br /> 次のURLに大内宿が観光地として蘇るまでの相沢韶男氏の努力の足跡が詳しくレポートされている。<br />http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1603.htm<br /><br /><br /> 大内宿の入り口に駐車場がありここに草葺の小屋が建っている。観光案内所である。前方に萱葺屋根の民家やとたん葺きの民家が建ち並んでいる。茅葺屋根の民家ばかりだろうとイメージしていたので最初はがっかりしたが集落へ入るとその思いは修正された。<br /><br /> 集落の奥の方には茅葺屋根ばかりの民家が建ち並んでおり、目障りな電線も見当たらない。江戸時代にタイムスリップしたかの如き気分になれる。宿内の民家には何れも屋号がつけられていてどの家も民芸品や農産物等の土産物を並べている。手打ち蕎麦を食べさせる店も多い。<br /><br /> 以前この大内宿を訪問した人が土産としては「打ち豆」がいいと聞いていたので、農産物を店先に並べている店で「打ち豆」が欲しいというと皆怪訝な顔をして首を傾げている。アルバイトの学生や若い人達が店番をしていて商品知識が乏しいようである。<br /><br /> 名主と書いた看板の出ている脇本陣の置かれた店で聞いてみるとここでは「打ち豆」が通じた。季節外れのため今は販売していないのだという。腐りやすいので寒い時にしか店頭には置かれないということであった。その説明を聞いて納得した。<br /><br /> 或る店で茅葺屋根の屋根を葺きかえると費用はどれ位かかり、耐用年数はどれ位かと尋ねたところ、一軒の葺き替えでおおよそ800万円〜1000万円位、耐用年数は15年〜20年程度ということであった。昔の街並みを保存していくには大変な努力と費用がかかるものである。<br />    <br /><br /> 与えられた1時間半の散策時間はまたたく間に過ぎていた。         

大内宿探訪その3  大内宿

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2008/08/20 - 2008/08/20

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早島 潮

早島 潮さん

 羽鳥湖を左手に見ながら暫く西行すると大川と交差する。大川を渡って更に北西へ進むと旧西会津街道に行き当たる。この旧会津西街道沿いの山間の平坦な地域にある集落が大内宿である。

 会津若松から南に約20キロメートルほどに位置しており、標高650メートルの山間の街 道の両側に建ち並ぶ家並みは昔ながらの宿場情緒を色濃く残している。ここは、会津藩が本道五筋として整備した街道で、別名、会津西街道、下野街道などとも呼ばれていた。

大内宿へのアクセスは次のURL
http://www.aizu-zensyu.com/aizuzensyu/2002-3/02aki-map.html

 この街道が主に利用されていたのは江戸時代前半までのことで、会津藩主の参勤交代、会津藩の江戸への廻米などの道として使われていた。

 この南山通りを利用した会津藩主の参勤交代は、正保元年(1644)から延宝8年(1680)までの間に21回に及び、大内宿は藩主の 昼食・休憩所として利用されていた。

 ところが、幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになった延宝8年(1680)以降は、参勤交代の通行は白河街道へと移ってい き、南山通りは、馬に生活物資を載せた「中付駑者」の通う道として存続した。

 維新後は明治17年、福島県令三島通庸により大内宿の東方、阿賀川に沿って新しい道が開削されると、大内宿を通行する旅人はほとんどいなくなってしまった。やがて宿場は、周囲の山や、集落の西側に開墾された水田などで暮らしを営む農山村に変わっていった。

この大内宿が注目されたのは、相沢韶男氏(武蔵野美術大学教授)が紹介したのがきっかけであった。彼は昭和42年9月、初めて大内宿に足を踏み入れた。


 次のURLに大内宿が観光地として蘇るまでの相沢韶男氏の努力の足跡が詳しくレポートされている。
http://www2.aasa.ac.jp/people/kanare/1603.htm


 大内宿の入り口に駐車場がありここに草葺の小屋が建っている。観光案内所である。前方に萱葺屋根の民家やとたん葺きの民家が建ち並んでいる。茅葺屋根の民家ばかりだろうとイメージしていたので最初はがっかりしたが集落へ入るとその思いは修正された。

 集落の奥の方には茅葺屋根ばかりの民家が建ち並んでおり、目障りな電線も見当たらない。江戸時代にタイムスリップしたかの如き気分になれる。宿内の民家には何れも屋号がつけられていてどの家も民芸品や農産物等の土産物を並べている。手打ち蕎麦を食べさせる店も多い。

 以前この大内宿を訪問した人が土産としては「打ち豆」がいいと聞いていたので、農産物を店先に並べている店で「打ち豆」が欲しいというと皆怪訝な顔をして首を傾げている。アルバイトの学生や若い人達が店番をしていて商品知識が乏しいようである。

 名主と書いた看板の出ている脇本陣の置かれた店で聞いてみるとここでは「打ち豆」が通じた。季節外れのため今は販売していないのだという。腐りやすいので寒い時にしか店頭には置かれないということであった。その説明を聞いて納得した。

 或る店で茅葺屋根の屋根を葺きかえると費用はどれ位かかり、耐用年数はどれ位かと尋ねたところ、一軒の葺き替えでおおよそ800万円〜1000万円位、耐用年数は15年〜20年程度ということであった。昔の街並みを保存していくには大変な努力と費用がかかるものである。
    

 与えられた1時間半の散策時間はまたたく間に過ぎていた。         

同行者
その他
交通手段
高速・路線バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • 大内宿の明細地図

    大内宿の明細地図

  • 名物の葱蕎麦。葱を箸代わりに蕎麦を食べる。薬味として齧るから短くなっていく。

    名物の葱蕎麦。葱を箸代わりに蕎麦を食べる。薬味として齧るから短くなっていく。

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