2008/05/31 - 2008/05/31
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しんちゃんさん
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奥州街道は宇都宮市から白河市まで10ヶ所の宿場町がありました。間宿という宿場町を入れると14ヶ所になります。喜連川宿は宇都宮から三番目の宿場町です。江戸時代から大規模な区画整理と道路拡張が行われなかったためか、貴重な江戸時代の道標が残っています。写真はその一つです。町の南側の荒川のかたわらに「右江戸道・左下妻道」と現在でもはっきりと読める文字が刻み込まれています。江戸時代の人々がこの標識を見て、宿場町を行き来、したかと思うと感無量です下妻とは約60Kmの筑波山近くの町と思いますが江戸時代は主要な町だったのでしょうか?茨城県にあります。
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話は喜連川(きつれがわ)探索の?に戻ります。田んぼの中の“道標”に「野仏」「一里塚」の標識でこのさくら市探訪が始まりましたが、「智賀津神社」を探し当てられず、心残りがありました。一週間後の休日、又も雨のため、ログハウス建設を断念、再び訪れて見ました。「智賀都神社」の由来とは、東国開拓の神・道案内の神・護衛の神、あるいは「柳田國男集」では「門神の一種で、境の神だらう」との事です。「神話の森HP」「http://nire.main.jp/rouman/ubu/tikata.htm」に詳しい事が書いてありました。
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「智賀津神社(ちかつじんじゃ)」説明版からです。【狭間田から奥州街道、弥五郎坂のあたり一帯の原野が開発されて狭間田新田村ができたのは、寛永16年(1639)のことです。開発者は板戸村(現 宇都宮市)から移住した人たちなのでふる里の智賀津神社を喜連川丘陵の中腹にお祀(まつ)りしたといわれています。智賀津の神は日光山大明神との関係が深い神とされていますが、明治になると祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)とされ村社に指定されました。参道には松並木があり、社叢(神社の森)には老杉と美しい緑で囲まれ、氏家町天然記念物に指定されましたが、松並木は枯れてしまいました。境内には、彫刻が見事な風格のある石造狛犬があります】
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「彫刻が見事な風格のある石造狛犬」とは、私の事です。「えっへん!」
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私もそうだ!
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雨が「しとしと、しとぴっちゃん」って歌があったな〜参道は、足元はぬかるんで、運動靴はびっしょり!
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さくら市探訪?の「早乙女坂古戦」西側、数十メートルのところに石塔がありました。
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「二十三夜」“二十三夜講は女の寄合講”とか“月が出るのを待ちながらお勤めや飲食をする”とか“二十三夜さまは子どもの神さまで、子どものできない人が信心すれば子どもに恵まれる”等々検索結果が出ます。いずれの場合も、子孫繁栄と出会いの場、親交を高める講だったのか、村を作った方々の祈りが伝わってきます。
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左側の石塔に「寛政五癸丑・・・」は1794年。右側は「寛*ニ月」*が読めない!
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こちらは江戸時代の道標が今も街道筋に残っています。
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説明版は【道標 「右江戸道 左下妻道」このみちしるべは、町の南端ここ葛城に残っており、近世五大街道の一つで、江戸と奥羽をつなぐ主要道だった奥州街道の名残りを偲ばせています】との事です。
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旧道が荒川を渡る場所の交差点に道標が佇んでいます。建物の角の下にあります。葛城(かつらぎ)とはこの辺から南側の地名です。
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喜連川神社のちょうど東側に「慈光寺」があり、自噴する井戸「突抜き井戸」がありました。
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「慈光寺」
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「慈光寺」内、「突抜き井戸」あるいは「掘抜き井戸」自噴しています。お寺の前の豆腐屋さんのおばあさんに詳しく聞こうと思いましたら、忙しくお寺の人に聞いてくれといわれました。
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朽ち果てた門、立派なお屋敷!
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大正時代か昭和の初めの建物?誰のかな?図書館で聞いたら「某呉服商の別荘です」と言われました。
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アメリカザリガニが池にいました。池は湧き水のようでした。池には屋根があります。
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池の屋根
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説明版からです。【街の駅「本陣」について 喜連川宿は奥州街道十宿の内?白沢宿?氏家宿に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏(格式十万石実高壱万石)の城下町も兼ね殷賑(いんしん)を極めた。・・・続・・・
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・・・続きです・・・本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が定宿(じょうやど)とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月から六月にかけて投宿している。当宿の本陣は、江戸中期には郡司(ぐんじ)十左衛門、斉藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当たった。明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設去れた。当「街の駅」舎は大正十五年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である】
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街の駅「本陣」の自噴水ですが、インパクトが少ない!なぜだろう?
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さくら市役所喜連川庁舎の近くに野仏の彫刻ですが、最近の製作物でした。何十年も経てば貴重品かも・・・
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セピア色の写真は・・・野口雨情の奥様はここ喜連川からの出身です。名前は「ヒロ」といいます。(明治時代の女性はカタカナが多いです)一番右側が彼女です。花嫁は喜連川から馬に乗り、2日間かかって北茨城まで嫁いだそうです。雨が降り、その様子を「雨降りお月さん 」の歌詞にしたそうです。
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高塩ヒロの生家。林業、醤油、薬屋等営んだそうですが、薬の看板はあるものの閉店でした。薬屋さんは廃業したらしいですが、詳細は不明です。声を掛けて色々聞くには、情報不足のため断念しました。またの機会にしよう!
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野口雨情の奥様の生家。奥州街道に面していて、立派な門が庭に続いていました。
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高塩家の前はバス停留所です。
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道標その2。喜連川町の北側、二又に別れる道路の正面、江戸時代にあった場所とは違い、道路拡張にて移動したと思います。公民館の敷地に移動されて目立つ場所にありました。ま・興味が無いと目に入りませんが・・・
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説明版からです。【道標 江戸時代参勤交代で賑わった奥州街道には、要所に道標を見かけます。お地蔵さんも道標として役に立ったそうです。旅をする人達にとっては貴重な道案内だったことでしょう。『右奥州街道 左在郷道』】左、在郷道とは田舎のことと思いますが、いかがでしょうか?在郷という地名はありませんし、一説には明治維新後に出来た町という事ですが、江戸時代の標識であるし、当時は喜連川より田舎という意味で使用されたとおもいます。専門家の助言をお願いします。
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上江川交差点近くの巨大野仏。三人の篤志家が共同で寄贈したようで、1988年に建立した物です。
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巨大野仏、その2です。これも近代物でした。上河戸の二人の方が寄贈していました。
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「おやっ?」近代野仏の近くに、石に掘られた文字は・・・南無阿弥陀仏?
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しかも寛政十一・・・本物?「うっそ〜!」捨てられている!
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路傍の道標?江戸時代のものでしょうか?近代の物?拾って行こうかな?右下の石です。
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ご時世です。日曜日にもかかわらず、街は閑散と閑古鳥が鳴いています。閑古鳥の泣き声は「ヒマ〜ヒマ〜」でしょうか?喜連川探索記終了です。近くにあって中々探索出来ずにいました。三週連続の“雨”のお陰でした。
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