2008/05/16 - 2008/05/16
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佐伯 祐三(さえき ゆうぞう、1898−1928年)は大阪市・中津の光徳寺で住職一家の四男三女の次男として生まれ30歳で亡くなった早世の天才西洋画家だ。
祐三は明治から昭和初期まで長期間日本洋画壇の指導者であった藤島武二(ふじしまたけじ、1867−1943年)に東京美術学校(現在の東京芸大)西洋画科で師事した。1923年に25歳で卒業後、30歳で死去するまでの約5年間が彼の画家人生だった。5年の間に2度渡仏し1924年1月から1926年1月までの2年間と1927年8月から1928年8月までの1年間、約3年間を同じ画家で妻の米子、長女弥智子とともにパリで生活している。持病の結核と闘いながらパリに滞在し、モーリス・ド・ヴラマンク(1876−1958年)やモーリス・ユトリロ(1883−1955年)の影響を受けたといわれるパリの風景画、広告画など400点以上描いた。1回目の渡仏時、1924年の初夏にパリ郊外のフィンセント・ファン・ゴッホ(1853−1890年)の終焉地であるオーヴェール・シュル・オワーズに、美術学校の先輩で3年早く渡仏していた里見勝蔵(1895−1981年)が師事していたモーリス・ド・ヴラマンク(1876−1958年)を訪ねた。ルネサンス以来の写実主義を打破し芸術家の主観的な感覚で自由に描こうとする フォーヴィスムの画家だったヴラマンクに作品をを見せたが「このアカデミックめ!」と罵倒され衝撃を受けた話は有名だ.。祐三は自信を持って描いた絵だったのだろうが日本の西洋画の指導法は従来の写実主義の手法を守ったものだったのだろう。その後祐三はヴラマンクに師事し画風を変えながら多い日は1日に4点という驚異的なペースで絵を描き続けたといわれる。だが1928年に結核と神経衰弱が悪化してブーローニュの森で行き倒れるという失踪事件を起こしセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で死去、まるで晩年精神の病に苦しんだゴッホを連想させる最期だ。娘の弥智子も父の結核が感染して6歳で死去し妻米子は二人の遺骨を持って帰国するという哀しいパリ生活だった。
余談だが祐三のパリ生活は病との闘いだけでなく、不倫、妻との別居など波乱に富んだものだったようだ。また祐三夫妻は『巴里に死す』などを執筆し第5代日本ペンクラブ会長でもあった芹沢光治良(せりざわ こうじろう1897−1993年)とも芹沢がソルボンヌ大学留学中に交流している。芹沢は「パリで会った天才画家」「これも純粋ですか」「巴里便り」などのエッセイに祐三との交流の様子を多く描いている。幼少期から没落した漁師という厳しい生活環境の中で漁師にならなかったことを村人に非難されて村八分になりながら逆境に立ち向かって東大に進学し、苦学した芹沢にとっても天才画家佐伯祐三の波乱に満ちた生き様は共感するものが多々あったのだろう。
光徳寺には「佐伯祐三生誕の地」の碑と最近建て直したといわれる真新しい墓があった。短い生涯の中で一瞬輝いた画家だったが、佐伯 祐三は間違いなく大阪が生んだ日本を代表する偉大な芸術家の一人だ。
(写真は光徳寺の「佐伯祐三生誕の地」の碑)
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