2008/02/20 - 2008/02/20
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めるくんさん
早朝5時に東京を出発、東名道をひたすら西へ進み、8時頃浜松市に到着しました。浜松城と三方ヶ原古戦場を見学した後、国道257号線を北上し愛知県新城市に到着、目的地は予てより訪れてみたかった長篠・設楽原古戦場です。
長篠の戦い(長篠・設楽原の戦い)とは1575年5月21日(現在の暦では7月9日)、奥三河(愛知県北東部)に築かれた長篠城という小さな城をめぐり、甲斐から攻め寄せた武田軍と織田・徳川連合軍との間で、設楽原を舞台に行われた大規模な合戦です。
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長篠城跡入り口にある看板です。歴史好きの人はこの看板の絵の意味が分かると思います。(詳しくは後ほど・・・)
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長篠城本丸址です。武田軍と徳川軍が激しく支配権を奪い合った小さな城です。長篠・設楽原の戦いの時には徳川方の奥平貞昌が城主でした。
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1575年5月8日長篠城を囲んだ武田軍(総大将武田勝頼公)15,000は、籠城軍(城主奥平貞昌)500に対して総攻撃を開始しました。長篠城は画像の縄張図のとおり宇連川(左)と豊川(右)が合流する断崖に築かれた険阻な城郭でした。
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左が豊川、右が宇連川です。谷の深さは20メートル以上です。長篠城が堅城であったことが良く分かります。
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長篠城本丸から見た宇連川の先にある山々です。これらの山々に武田軍は五つの砦を築き、日夜長篠城に対して鉄砲で砲撃したそうです。
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五つの砦のうち最も規模が大きかったと思われる鳶ヶ巣山砦です。守将は武田信実(武田信玄公の異母弟)でした。この五つの砦は設楽原決戦の日の早朝、織田・徳川軍の背後からの奇襲により陥落してしまいます。
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水・食料が底をつき落城寸前となった長篠城主奥平貞昌は、一刻も早い援軍を要求するため、鳥居強右衛門を使者とし夜陰に乗じて城を脱出させました。強右衛門はその夜のうちに岡崎に到着、織田信長公・徳川家康公から援軍を送る旨を聞き、吉報を仲間に知らせる為即刻帰路につきました。
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ところが、長篠に戻った強右衛門は城に潜入することができず、逆に武田軍に捕らわれます。織田・徳川の援軍が間もなく到着することを知った武田軍は、籠城軍の士気を下げるため、強生右衛門に豊川の対岸から城に向かって、援軍は来ないと叫ぶように命じます。既に死を覚悟していた強生右衛門は承諾したとみせかけ、城に向かい大声で間もなく援軍は来ると叫びます。強生右衛門はその場で磔にされましたが、この決死の覚悟が籠城兵の士気を上げ落城を防ぐ結果となったのです。画像は強生右衛門磔の地です。
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武田軍による長篠城包囲から10日後の5月18日、岡崎を出陣した織田・徳川38,000の連合軍は、長篠城から4キロ程手前の設楽原に着陣しました。この時点で不利を悟った武田軍重臣馬場信春・内藤昌豊・山県昌景は総大将武田勝頼公に撤退を訴えますが却下されます。そして遂に武田軍は僅かな長篠城包囲隊を残し、全軍を設楽原に進めることとなります。
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画像は設楽原古戦場の中央を流れる連吾川です。連吾川の左に織田・徳川軍、右に武田軍が対陣し、遂に1575年5月21日、夜明けと共に戦国三大合戦(関が原・川中島・長篠)の一つである長篠・設楽原の戦いの火ぶたはきられました。画像中央左に馬防柵(再現)が見えます。画像左の弾正山が家康公の本陣となります。
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弾正山山頂にある家康公本陣址です。信長公と家康公は表向き同盟関係にありましたが、実態は家康公が信長公に服従の関係だったようです。
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画像は茶臼山信長公本陣址です。家康公の本陣は設楽原決戦場の最前線弾正山ですが、茶臼山は弾正山の後方になります。当時の力関係が分かります。
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一方、武田勝頼公は連吾川の東に位置する才の神という山の上に本陣を置きます。画像の通り現在は樹木が生い茂り視界が悪いですが、当時は合戦場一帯を見下ろせたと思われます。
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勝頼公本陣より前線に位置する天王山頂上です。天王山には武田家重臣内藤昌豊の陣がありました。勝頼公は本陣の才ノ神から前線の天王山に移り、戦いの指揮をとったそうです。画像の中央に馬防柵が見えます。
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天王山にある勝頼公指揮の地の碑です。既にこの時点で、長篠城包囲隊の中心である鳶ヶ巣砦が、連合軍による奇襲で陥落したことは勝頼公にも伝わっていたと思います。長篠城は武田軍の後方にあたるので、武田軍は退路を断たれることとなったのです。
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合戦場の最北端に位置する丸山の頂上からの眺めです。中央に連吾川、左が武田軍、右が織田・徳川軍の配置となります。右側の山の麓に馬防柵が見えます。
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丸山の麓にある大宮前激戦地です。武田軍の馬場信春隊・真田信綱隊・真田昌輝隊と織田・徳川軍の佐久間信盛隊・滝川一益隊が激突しました。
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柳田前激戦地です。武田軍の武田信廉隊(信玄公の同母弟)・内藤昌豊隊・土屋昌次隊が織田・徳川連合軍鉄砲隊が待ち構える馬防柵に突撃しました。
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合戦場の最南端に位置する勝楽寺前激戦地です。この付近は馬防柵が築かれていなかったので、武田軍の山県昌景隊がここから回り込んで、横から家康公本陣を攻撃しようとしましたが、連合軍の大久保忠世・忠佐兄弟の隊に阻止され、家康公本陣正面の竹広激戦地へ転戦することとなります。
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竹広激戦地です。家康公本陣に最も近い場所なので、山県昌景隊をはじめ武田軍が集中的に攻撃し、最大の激戦地となったようです。
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再現された馬防柵です。三重の柵で連吾川沿い南北2キロの長さがあったそうです。織田・徳川軍の鉄砲三段撃ちと、武田騎馬隊の突撃は大変有名です。
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織田・徳川軍の鉄砲三段打ちと、武田騎馬隊の衝突については肯定否定と様々な見解があるようですが、馬防柵の手前で多くの重臣・兵士たちが討死してしまったことは事実です。画像は馬防柵手前で銃弾に倒れた土屋昌次戦死の地です。
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主戦場から少し離れた場所に土屋昌次の慰霊碑があります。土屋昌次は信玄公・勝頼公二代にわたり武田家重臣として活躍した人物で、川中島の戦いや三方ヶ原の戦いなどで活躍しました。
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大宮前激戦地で戦死した真田信綱・昌輝兄弟の墓所です。信綱・昌輝兄弟は真田三代の祖である初代真田幸隆の長男・次男となります。この戦いの後、真田家の家督は三男の昌幸(真田幸村の父)が引き継ぐことになります。
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竹広激戦地で戦死した武田家重臣原昌胤の碑です。武田家の陣場奉行を勤めたといわれる武将です。
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勝楽寺激戦地近くにある山本信供の墓所です。川中島の戦いで戦死した軍師山本勘助の子です。(実子・養子かは不明)墓所とは別に設楽原決戦場から離れたところに山本信供戦死の地という碑もあります。20歳の若さで討ち死にとなりました。
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勝楽寺激戦地近くにある武田四天王高坂弾正の子高坂昌澄の碑です。家康本陣を目指し敵方に斬り込みましたがこの付近で戦死したそうです。享年25歳です。
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柳田前激戦地で戦死した甘利信康の墓所です。武田軍総崩れの中、立ったままで自決したそうです。父は上田原の合戦で討ち死にした武田家重臣甘利虎泰です。
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設楽原決戦場を見下ろせる山の中腹に、武田四天王の一人山県昌景の墓所があります。織田・徳川連合軍鉄砲隊に対して奮戦しましたが銃弾に倒れ戦死しました。その最期は両腕の自由が利かなくなっても、口に采配をくわえて指揮を執ったそうです。三方ヶ原の戦いで家康公をあと一歩というところまで追いつめた闘将で、家康公が武田軍諸将の中で最も恐れた武将でした。
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天王山にある武田四天王の一人内藤昌豊の墓所です。内藤隊は柳田激戦地で何度も馬防柵に突撃し、武田軍で唯一三段構えの馬防柵を突破した記録があるそうです。しかし、味方の犠牲も多くやがては連合軍に押し戻されてしまいます。
その後、各激戦地において武田軍の被害は大きくなる一方で、戦いが始まってから8時間後の午後2時頃、勝頼公は全軍に撤退を命じます。
内藤昌豊は撤退する勝頼公を見送った後、僅かな残兵と供に敵軍に突撃し壮絶な最期を迎えます。 -
武田軍は総崩れとなり、設楽原決戦場を離脱した武田勝頼公は織田・徳川連合軍に追われることとなります。画像は設楽原から北東に2キロ程離れた橋詰殿戦場です。勝頼公を無事に帰還させるため、武田四天王の一人馬場信春はこの地で殿(しんがり〜味方を無事に撤退させるため、少数の部隊で追撃する敵軍をくいとめること)をつとめます。勝頼公が落延びていく姿を確認した後、この地で殿戦に臨み戦死となりました。
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橋詰殿戦場の先に橋詰さんばし跡という史跡があります。この付近で落延びる勝頼公の馬が、疲労の為歩けなくなったそうです。そこで武田家家臣の笠井満秀は自分の馬を勝頼公に譲りこの地で敵方と戦い戦死となりました。この時勝頼公に供する家臣は4〜5名程度だったそうです。
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こうして戦国三大合戦の一つ長篠・設楽原の戦いは、武田勝頼公の甲斐撤退をもって終結となりました。武田軍の死者は1万人以上との説もあり、この大敗北が8年後の武田家滅亡へのきっかけとなったのです。
画像は設楽原にある信玄塚です。この付近に兵士たちの亡骸を地元の人たちが手厚く葬ったそうです。長篠・設楽原の戦いがあった1575年は、既に信玄公が亡くなって2年も経っていますが、それにもかかわらず信玄塚といわれているのは、死してもその存在は偉大だったからでしょうか。
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この旅行記へのコメント (2)
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- もにかさん 2008/02/29 01:39:54
- 内藤氏
- これに出て来る内藤氏は、あの新宿御苑の内藤町の内藤さんの家と
随分上のほうで繋がってるみたいですね。
内藤氏の先祖は藤原鎌足(別名:大化の改新の中臣 鎌足)なんだって〜。
内藤氏の歴史も調べると面白いようですよ。
- めるくんさん からの返信 2008/03/02 21:36:42
- RE: 内藤氏
- ようやく念願であった長篠・設楽原古戦場に行くことができました。
両軍合わせて五万以上の兵が入り乱れ死闘を繰り広げた戦場は、意外にも丘陵地帯の狭い窪地でした。(連吾川沿いに南北には広がっているが、東西の丘陵は連吾川を挟み間近な距離にある)
馬場信春・内藤昌豊・山県昌景他多くの武将たちは無謀な戦いと知りながら、亡き信玄公を想い最期まで死力を尽くしたんですね(泣)
(某社長・某本部長には微塵も尽くせませんが・・・)
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