2007/10/27 - 2007/10/27
42366位(同エリア46727件中)
ひま人さん
今回は摂丹街道(国道423号線)を経て、亀岡で山陰道に入り園部までの道筋をたどった。
見所としては、摂丹街道の亀岡への坂道の途中にある「明智の戻り岩」、亀岡の名刹「穴太寺」、「小幡神社」、円山応挙ゆかりの「金剛寺」、鯉明神と言われる「大井神社」、鳥羽宿で町歩きをし、「西光寺」と進んだ。最後に、園部宿に入り、「園部城祉」を見学後、菅原道真ゆかりの「生身天満宮」へと参り帰途に着いた。
旧宿場の町筋は「鳥羽宿の石碑」が建っているが、昔の面影は殆どない。旧山陰道が舗装され、生活道路として市民が利用している。
写真は「明智の戻り岩」、「南無妙法蓮華経」と刻まれている。この史跡は<知る人ぞ知る>史跡で、天正10年(1582年)6月1日、秀吉の援軍で中国攻めに向かった明智光秀が、この大岩のところで引き返し本能寺へ向かったと言われている。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス
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穴太寺本堂、西国33箇所観音霊場第21番札所の天台宗の寺。慶運2年(705年)大伴古麻呂が薬師如来を安置し、創建したと伝えられている。
「今昔物語」や「扶桑略記」に記された観音様は秘仏で33年に一度開帳される。又、本堂の右に布団を着た涅槃釈迦像があり、病気がよくなると言いよく撫でられるので、肌がつやつやとしておられる。
庭は池泉回遊式の名園である。 -
小幡神社本殿、犬飼川の東側のほとりに鎮座し、丹波地域を治めた丹波道主命が、皇祖開化天皇を祀ったことに始まると言われている。
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福寿山金剛寺、臨済宗天龍寺派、夢窓国師の師匠に当たる仏国国師を開山とし、正応2年(1289年)に開かれ、玉堂和尚が元文3年(1738年)中興再建した。又、江戸時代の画家、円山応挙と所縁が深く「応挙寺」とも呼ばれている。
山門の額は「金剛窟」と刻まれ、240年前の朝鮮通信使のメンバーだった「朴徳源」の書で朝鮮書家の大家である。 -
金剛寺、円山応挙が残した襖絵「群仙図」の一部。「玉堂和尚肖像画」、「群仙図」8襖あり、他の「波濤図」「山水図」の襖絵は東京国立博物館に預けられ、本寺にはレプリカが見られる。
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大井神社、大宝2年(702年)月読命と一杵島姫命が亀の背に乗って大堰川を遡って来られた。八畳岩の辺りで水の勢いが強くなったので、鯉に乗り換え無事河原に着いた。それで和銅3年(710年)元明天皇の勅命により、上記の2命を祭神とし創祀された。そして、鯉を神のお使いとして崇めているので、氏子やこの辺の人は端午の節句の鯉のぼりは立てず、鯉を決して食用にしない風習がある。
写真は鯉の石碑。 -
鳥羽宿あたりの山陰道、鳥羽宿は保津川が桂川と園部川に分岐する地点にあり、川湊が設けられ水陸の中継点であった。現在は道路は舗装され市民の生活道路になっており、宿場の面影は殆どない。
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西光寺山門、鐘楼、平安末期に創建された。毎年8月22日の宵大師法会の夜と、23日の地蔵盆の夜に「六斎念仏」が行われている。
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園部城巽櫓、元和5年(1619年)但馬出石から園部に転封となった小出吉親は、荒木氏綱が居城としていた小麦山の山麓を開き、2年がかりで園部城を築いた。
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園部城本丸の城門(櫓門)、現在、本丸跡は園部高校となり、高校の登校門になっており、当時の威容が感じられる立派な門である。
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生身(いきみ)天満宮本殿、延喜元年(901年)菅原道真が大宰府に左遷された時、家臣の武部源蔵は公の八男・慶能を匿って養育し、ひそかに小麦山に小祠を建てて公の木像を刻んで生祠とした。これが当神社の創祀とされ、大宰府の公が亡くなられて霊廟に改め、天暦9年(956年)神社にとして祭事を務めるようになった。
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