2007/08/25 - 2007/08/25
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ひま人さん
「山陰道」は日本の七道(古代の官道/山陽道・北陸道・南海道・西海道・東海道・東山道・山陰道)の一つ。歴史は意外に浅く、奈良時代後半から平安時代にかけて整備された。平安京が開かれてからは、京都北部の暮らしを支えた街道であり、都を起点とした主要幹線道路であった。他の七道と同じく時代により、変遷しており中世以降は亀岡、八木、園部を経て福知山、そして鳥取、松江から小郡までつながっていた。又、「山陰道」は京街道、丹波街道、丹波路、また篠山街道とも呼ばれていた。
山陰道の中世以降の道筋は国道9号線に沿っており、参勤交代や商品流通の主要道として賑わった。
京都の起点は「丹波口」、現在の七条千本辺りですが、現在、都の起点として三条大橋(東海道、北陸道などの起点)に「やじ・きた像」が建っており、ここを起点とした。三条通りから蛸薬師通りに入り、南蛮寺跡、本能寺跡、丸太通りから南、蚕ノ社、桂大橋を渡って最初の宿場、「樫原(かたぎはら)宿」に着いた。そして沓掛から桓武天皇の皇后の高野新笠の御陵のある大枝で、1回目は終了。
写真は三条大橋のたもとに建つ「やじ・きた」像。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス
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瑞泉寺、豊臣秀次(秀吉の姉の子)は秀吉の養子となり、関白を継ぐが、淀殿との間に秀頼が生まれると次第に疎まれ、文禄4年(1595)7月、高野山で自害させられた。さらに、8月に秀次の幼児、妻、側室全員が三条河原で処刑され、その場で埋葬、塚に石塔が建つのみであった。その後鴨川の氾濫により荒廃、埋没していた。京の豪商、角倉了以が高瀬川開作中、三条河原で発掘、掘り起こして僧桂叔を開募とし、秀吉の法号・瑞泉寺殿をとって瑞泉寺が建立された。
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南蛮寺跡、石碑。織田信長の保護のもとに、切支丹は永禄2年(1559)から本格化し、ウルカンに永禄4年、方4町の土地を与え「南蛮堂」が建てられた。狩野元秀画「洛中洛外名所扇画屏風」によれば金閣のような三間四面の3階建てに描かれている。
当時は「ヤソ会」と呼ばれ、その教会や修道院、祈祷所などはすべて「南蛮寺」と言われていた。 -
元本能寺、本能寺跡、石碑。あまりにも有名な織田信長が明智光秀の謀反により、火を放って自害した寺。
織田信長は上洛中の宿所として使っていた寺。
本能寺は再建されるが、度々火災にあい、現在の本能寺の場所は、秀吉により移転させらた。その後も火災にあい、昭和3年に再建された。 -
木嶋神社本殿・蚕の社(このしまじんじゃ・かいこのやしろ)。大宝元年(701)の創建。
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木嶋神社・三つ鳥居、三方正面の石鳥居で、三ツ組鳥居、三面鳥居よもいい、明神鳥居を三つ組み合わせて平面三角形としたものです。
鳥居に囲われた真ん中から清泉が湧き出ている。 -
樫原宿(かたぎはらしゅく)の山陰道。
国道9号線の迂回路か、やたらに車が多い。 -
樫原宿本陣、玉村家住宅。現在も居住されているので、中は見れない。
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山陰道沓掛付近
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大枝陵(おおえりょう)、光仁天皇夫人、高野新笠の御陵。高野新笠は百済からの渡来人の子孫の父と、土師氏出身の母との間に生まれました。その長子・山部王、弟の早良王は子供の頃、この辺りで育ったと伝えられ、山部王は45歳で桓武天皇として皇位についた。
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