2007/08/19 - 2007/08/19
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神田明神氏子その五さん
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というわけで、8月19日は鼠小僧次郎吉こと中村次良吉が召し取られ、
鈴が森で獄門さらし首にされた日。それに因んで、彼の墓のある、両国の諸宗山回向院に行って参りました。以下は今は狭い境内に押し込められた現代の回向院ですが、久しぶりに江戸の昔を偲んで、お参りに行ってきました。
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鼠小僧次郎吉は天保三年(1832)の今日獄門さらし首になりました。伝説では、大名屋敷ばかり狙って入り、奪った金は都合一万と二千両。それを暮らしに困った貧しい人達に恵んでやった義賊中の義賊だというので、歴史上の大泥棒の末席を汚しているようです。
今日が鼠小僧次郎吉
こと中村次良吉の命日にあたりますので、次郎吉の墓のある両国の回向院に寄ってきました。
回向院はもともと明暦の大火(1657)で焼死した数万人に及ぶ人々を供養する為幕府が臨時に建立した寺院(当時一ヶ寺でこれだけの人数を弔える寺がなかった)で、僧侶も幕府の菩提寺であった芝の増上寺から遣わされた坊さんであったようです。その後、度々江戸の大火、地震等で不慮の事故死を遂げた人々や、鈴が森、小塚原の刑場で処刑された無宿人達を葬る寺として歴史にしばしば名前をとどめる名刹になっていったようです。鼠小僧も鈴が森で処刑された後この回向院に葬られ、伊勢屋四郎兵衛という商人が施主となって墓を建立し、今に到っています。 -
その墓石は「盗人の墓を削り取ったものを持っていれば博打に強くなる」という俗説のため大量に削り取られてきたという歴史があり、その為いつの頃からか墓石の前に削り取り専用?の石が置かれる様になり、現在ではご丁寧な事に、「削るならこの石を削って」という立札さえあります。
現在は、この画像のように墓の上には立派な屋根が差し架けてあり、削り取り専用の石も大分この上の画像と比較すると削り取られて、磨り減っています。 -
これが、鼠小僧の墓石本体。戒名の「教覚速善居士」、
俗名「中村字良吉」没年の天保三年の寺が読み取れます。 -
あまり広くない境内には、この他可成りの数の江戸の有名人、文化人の墓も多くあります。
どんな人たちかというと、竹本義太夫(義太夫節の創始者)、猿若勘三郎(江戸歌舞伎の創始者)、
加藤千蔭(国学者)、山東京伝・京山兄弟(江戸の戯作者)等の文化・芸能人中心でしょうか。
この辺りの一角は義太夫節の創始者であった、竹本義太夫
の墓のほか、竹本を名乗った数多くの義太夫節の太夫の墓が寄り集まっています。 -
あまり広くない境内には、この他可成りの数の江戸の有名人、文化人の墓も多くあります。
加藤千蔭(国学者)、山東京伝・京山兄弟(江戸の戯作者)等の文化・芸能人中心でしょうか。この四つ並んだ
説明板の左端は、そもそもこの寺が出来た所縁の1657年
の明暦の大火の焼死者の碑の説明板です。 -
モダンな山門を入ると、すぐの左手に「力塚」と雄渾な筆跡で彫られた大きな記念碑があります。
これは回向院が天保4年(1833)から明治42年(1910)に旧両国国技館 *1が出来るまで、
(*1旧両国国技館は蔵前橋の袂にあった「蔵前の国技館」(両国駅北側の現国技館の前身)の前に、現在の回向院の隣にあったガスタンク型の国技館の事で、戦後もしばらくは進駐軍のメモリアルホールとして、その後は日大講堂として使われていた時代があった)
相撲の勧進元として、春秋2回の相撲興行を取り仕切ってきたという長い歴史を公にする為、昭和11年(1936)歴代の相撲年寄慰霊のため建立された碑で、回向院と相撲の絆を示すもの。
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