2006/05 - 2006/05
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seidouさん
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バルト三国の首都を中心とした写真紀行を第1集〜第3集としてアップロードします。
まずはじめに旅行の趣旨とテーマについて述べておきます。
バルト三国の存在を意識したのはつい最近のこと、と思うほどこれらの小国は20世紀中の陰が薄かった。永年にわたり周辺大国のロシア、北欧、ドイツなどの支配影響力が及び隷属的な地位に甘んぜざるを得なかったが、1991年ソ連体制崩壊後やっと実質的な独立を果たし、以来15年を経て少しずつ観光情報がもたらされて来た。「中世以来この国々の主要都市がハンザ同盟に加わり、ヨーロッパとロシアをつなぐ中継貿易で発展した独自の文化遺産を今に受け継いでいる」とか「EU加盟が成って、戦後復旧が進み、観光資産が息を吹き返し、新たなヨーロッパの一員として自国のアイデンティティを模索中である」などで観光振興への力が入ってきたようである。日本との関係は少なかったが、これらの国々の日本観は古くは「強国ロシアを破った東洋の小国」「ユダヤ難民救済に努力した日本領事逸話」などなどから「敗戦から復活した現代の経済大国としての尊敬」など日本好きの人々も多いと聞いている。
そこで、そのような国々を周る今回の旅行のテーマを大きく捉えて「歴史のハザマで小国民が必死に守った自国の文化はどのような形で残っているか、特に自然と歴史的遺産を維持保全した努力のあとを真摯に見届ける」こととして出発しました。
この写真集は約4000枚に上る撮影カットから当サイトの大分類の一つ、歴史・文化・芸術関連のものを抜粋して、まとめたもので今後当地を旅行される方の参考になればと思います。
特にこの3国では、それぞれの首都の今に残る中世〜近世の町並みを見学することが主体であったため、その時代の文化芸術のエッセンスを見るには、それが凝縮している教会やその他建築物をたずねることが多くなります。その意味で建造物の写真を多く掲載することになりました。
したがって、コメントも西洋建築史的な観点から見聞きした感想と見解を述べています。
もう一つの視点は、3国が長年にわたり周辺の大国からの支配を受けてきて、それらのもたらす文化的、政治的、宗教的影響力がどのような形で残っているかを比較文明論的に考えてみようと臨みました。
というものの、まとまった時間がないので、写真のアップロードもボチボチやっていきます。観察、分析、認識したことへの見解はこれも解説的な形であとから順次アップいたしますので、時々覗いてみて下さい。
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トムベア展望台から旧市街俯瞰眺望
世界遺産に登録されたタリン旧市街の概要を見るにはかっての支配者たちの拠点トムペアの丘から市街地図片手に俯瞰眺望するのが手っ取り早い。
約2.5kmの城壁が赤いトンガリ帽子のような城壁櫓を繋いでぐるりと旧市街(下町)を囲んでいる。この中に教会などの尖塔が立ち、狭い道が曲がりくねりながら縦横に走っているのが見える。初夏新緑の樹木が多く赤い甍の屋根の色に映え、遥か先方には濃紺のバルト海が見える絵画のような風景が広がっている。
ところで、市街の重厚な街並みは、全て石造りの建物しかも中世時代(15世紀ごろから)の建築物によるところが多いが、これらの石材供給はタリンの町の下に豊富に堆積されている石灰岩(街外れの道路の崖に石灰岩の露頭が見られる)によるものであり、それがあったらばこそ、城壁、道路をはじめ膨大な量の建造物を造営できたのであろう。
これから市内観光の傍ら、各建築物の石積み状況を観察して、世界遺産として首都タリン存続の一つの要因を探ってみたい。 -
かっての支配者の丘トムベアー全容(オレフの塔から)
トムペアーは石灰岩塊の大きな丘で下町に対して25mの高所にあり、城構築に適していたから13世紀の帯剣騎士団がここに支配拠点を作り易かったことは容易に想像がつく。トームペア城としての建物は、後世北方戦争後、ロシア支配となり、18世紀、エカテリナ?世からの命令でバロック様式の知事官邸として建てられたのが現国会議事堂や政府官舎になっていて、いわば宮殿である。城砦としては、騎士団当時の城構築のドイツ方式がのっぽのヘルマン塔(14世紀)などに残されている。いずれも地元から産出する石灰岩は層状に割れ目が出来て、石積みがやりやすいことが13世紀に出来た城・城壁としては後世並の頑強なものが出来上がったのであろう。市街の城壁のなかにもう一つ岩塊上の城が完成し、そこに政治宗教の中心的構築物を固めたこともタリン首都機能を維持できた由縁であろう。 -
道路脇に石灰岩層の露頭が見られる
タリンは巨大な石灰岩層の上に建てられた街である。
豊富に産出する石灰岩(良質なものは建築材大理石という)の石材を使って古来からの建物、城壁、道路、橋等が造られ今に残る街が形成されてきた。タリンはそういう町つくりに有利な環境条件を揃えていたと思う。 -
砲塔城砦「ふとっちょのマルガリータ」と北門グレートコーストゲイト
市内の名所の一つで、海から市街に入る北門の防備の要塞として建てられた。16世紀に補強され砲塔となり、18世紀にはさらに壁の厚さが4.4m〜6.5mまで強化され、ふとっちょのあだ名がついたという。
厚い石壁は豊富に産出する石灰岩を細かく積み上げ、頑強な砲台塔としたものである。写真を拡大して壁面をよく見てください。
現在は内部にエストニア海運博物館が入っており、博物館の屋根に旧市街景観を楽しむ展望台がある。 -
補強された城壁
石灰岩塊の丘に立つ頑強な城壁も、現代の交通手段である自動車が走り回るようになって、傷みが早くなっているようだ。それは重量車両の影響のみならず、排気ガスがもたらす酸性(SO2)雨の影響で、石灰岩の成分の炭酸カルシューム(CaCO2)が硫化カルシューム(CaSO4)に変化する即ち石膏化してもろくなり、崩れていく現象が発生しているわけだ。特に石積みの接着部のモルタルが弱くなるらしい。それは街中の石灰岩積みの家でも起こってくる。現にフランスの都市部にある教会の外部大理石像に石膏化現象が発生し、彫像が崩れかけているのが見られる。したがって、石灰岩で出来ているこの街もいつかはそうなるかもしれない。エコ運動を要請されることになろう。 -
トムベア城のっぽのヘルマン塔
丁度修理工事中であったが、壁面を見るとやはり板状層理をもった石灰岩の石積みであった。
街中が石灰岩で出来ていると思って見て周ると街の建設の条件がよく理解されるのではないか。 -
トムベアのアレクサンドルネフスキー聖堂
最初から石の話ばかりしてしまったが、このロシア正教寺院は堂々たる素晴らしい建築で石灰岩の肌を見せず赤レンガと石灰スタッコの装飾で壁面を飾っている。ロシア時代の権力の象徴のように扱われ現代となってはいささか場違いなものがあるようだが、葱坊主のクーポラが5つもあってトーンベアの周囲のゴシック尖塔に対して異彩を放ち、市民感情を別とすれば、観光客には見栄えがしてよい。中もきれいに整備されていて、イコノスタシスなどは金ぴかである。 -
トムベア城内国会議事堂、政府庁舎
国家権力の中枢機関としては、なんだか軽快なカラーコーディネイトの建物。カテリーナ2世時代に建てられたバロック様式で、もと知事の官邸だったというから当時はもっと重厚な威厳に満ちた宮殿風であったろうが、おそらく独立後の明るさを求めた要望があってこんな色に塗装替えされたのだろうか。中の見学は出来ないから外面だけ撮影した感想である。 -
トムベア地区の小路を歩く
台地に建てられた町並みは、政治、宗教関係の建物に混じって展望台に向かう道筋の家々はパステルカラーに塗られ、狭い小路もカラフルで明るい雰囲気が溢れている。 -
トムベアの大聖堂
大聖堂というほどには大きくない教会だが、エストニア本土では最古の教会ということでタリンでの中心的地位にある。何度か改修後、18世紀再建されて現在の姿になったそうでバロック様式の尖塔が立っている。 -
トムベアのスーベニール(琥珀)店
カラフルな家は、大概観光客目当てのスーベニール店が多い。バルト海特産の琥珀や、民芸品を並べている。 -
トムベア展望台への坂道
それほど急な坂道ではないが日差しをうけて登ると汗ばんでくる。坂道の石畳に写る古い家の影や木陰を踏みながら汗を冷まし、中世時代にこの坂を上り下りした城の武者達や僧侶たちのありさまを思い浮かべるにはいい道筋である。 -
トムベア展望台へ
もう一つの展望台へ出る。展望台といってもやぐらのようなものでなく、城壁の一部から街を俯瞰できるちょっとしたスクウェアーといったところ。1mほどの石壁にもたれて見晴らすと、この写真集冒頭の写真の景観が眺望できる。展望台は、この場所のほかもう一箇所あって、南西側が見渡せる -
デンマーク王の中庭タリ塔
トーンベアから下の街に下りる道が二つあり、そのひとつアレクサンドルネフスキー寺院から東の坂道を下り城壁を潜り、デンマーク王の中庭と称する空地に出てそこから下方は崖下となるので、ルヒケヤルグ通りという急坂の階段を下りる。中庭から後ろのそそり立つ城壁を仰ぎ見ると「馬小屋」と名づけたタリ塔が立っていて、両側をウールのような防衛回廊で繋ぎ、その左方にはメゲデ塔、キーク・イン・デ・キョク塔が並ぶ。この辺りがトームベアの防御前線の塔群だったことがわかる。 -
デンマーク王の中庭から聖ニコラス教会鐘楼尖塔
中庭から下方は崖になって下町に接する地域に聖ニコラス教会がありその高い鐘楼が中庭から手が届くような位置に堂々とそびえている。 -
リュヒケ・ヤルク通り(短い坂道)を下る
下町へ降りるもう一本の道は城壁沿いの北回りの緩やかで長い道(ピックヤルク通り)で、貴族、僧侶たちが馬車で通う道であった。写真のリュヒケヤルク道は長い道よりもあとから出来た短いほうの道で、デンマーク王の庭から下町へ下りる急坂の市民が通った道だそうである。ゲイトがあり時間で閉められた。急坂なので石畳の階段になっているが、これがつるつるになっていて滑りやすい。高台へ御用物資の運搬で上り下りした市民の気持ちを思いながら坂を下りきると、その先が旧聖ニコラス教会となる。 -
聖ニコラス教会
構えが堂々たるゴシック様式の教会である。13世紀に騎士団から当地に招聘され移住した200人のドイツ人商人たちがトーンペア城の麓に住まい、彼らの守護聖人である聖ニコラスに奉納した教会として創建したもの。
このうち鐘楼は教会の改修ごとにだんだん高くなって、最終的には17世紀に新しくバロック様式にかわって建てられた。
第2次大戦中にソ連軍の爆撃で破壊されたが、内部の貴重な芸術品は疎開していて難を逃れて、40年後復元され、現在は美術館とコンサート会場となっている。最も重要な中世美術品が聖アントニー礼拝堂の「死の舞踏」である。教会周囲はまだ戦火からの復旧が出来ずに緑地や空き地となっているところが多いが、Niguliste通りは商店街になっており、ラエコヤ広場に曲がる角にインフォーメションセンターが入っている。 -
市庁舎とラエコヤ広場
山の手のトームベアから下町へ下りて真っ先に気がつくのは、市民の広場であるラエコヤ広場の広さである。この小国の首都で約2000?に近い面積をもつのは市民階級特に貿易商人たちの力が強かったのだろうか。ドイツの影響が強かった都市つくりであろうが、古くから交易都市で知られるドイツライプツィヒのマルクト広場も、文芸都市のワイマール・マルクと広場でさえ、この半分もない広さである。また広場から7本の道が分岐しているのも多いほうで、市内から自然に人も物も流入集散したであろうし、旧市庁舎を含め、広場を囲む15世紀からの個性的なファサードを持つ家々はかっては、そのような流通の役割を果たしたのではなかろうか。家の高さが低いので、圧迫感がなく広場が明るく見えるし、一つ一つの家を眺めても諸所に面白い発見がある。テントで出張ったテラスカフェやレストランも広場と一体化して観光客とともに風景を造っている。まさに小さいながらもアミニティ街の形態を構成しているのだ。 -
ラエコヤ広場に並ぶテララス・レストラン
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ラエコヤ広場から繁華街ヴィル通りを行く
ヴィル通りは旧市街の目抜き通りの商店街である。ヴィル門まで歩いて見ればこの街のナウィさレベルが評価できる。他の通りと違って中世の家が少ない。19世紀の後半から20世紀に盛んに建築工事が行われたことから、当時の建築様式に変化していったものである。1階〜2階が商店でその上は住居というスタイルで、最近はデパートも仲間入りした。 -
ヴィル通りヴァナ・ヴィルホテル周辺
この辺りもテラスレストラン、カフェが多いが、パリのようにレストランの軒から歩道にはみ出す形でテーブルを並べるのではなく、道の中にしっかりした木の枠組みで公道を占拠し陣取っているのが面白い。
百貨店ドラガルディデパートは2000年にオープンしたばかりでこの周辺がさらに近代化しつつある。と言うことは観光客にとっては興味が薄れる道筋となる。 -
ヴィル通りから城郭正門のヴィル門へ
観光客の旧市街観光の入り口の一つが、2つの塔の立つこのヴィル門で、いわば街の表玄関。ここからメインロードのヴィル通りが始まる。この写真は旧市街側ヴィル通りから撮ったもので、門を出ると右手にキスの丘がありその下の道に沿ってお土産やが並んでいる。 -
ヴィル門そば城壁の手編みセーター売り場
ヴィル門から旧市街に入って右手の城壁に沿って賑やかな、手編みのウール製品のマーケットがある。伝統的な柄もののセータや、脱脂してない毛糸で編んだ、少しゴワつくセーターが売れ筋とか。 -
ヴィル通りラエコヤ広場付近のアンティークショップ
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旧市議会薬局
15世紀からある薬局で現在も営業しているヨーロッパでも最古の薬局の一つである。建物は何度も修復されて原型は定かでないが、入り口壁面に取り付けられた商標の形が、カップに蛇が巻き付いているのも面白い。内部も展示されて見学できる。
古い例では、クロアチアの旧市街聖フランシスコ修道院内の薬局も古く、14世紀初頭の創業であるが、現在は記念館となっていて営業は別個の店舗でやっている。
薬局の左端のアーチトンネル「サイア街廊」を出ると聖霊教会と大ギルドの前に出る。 -
聖霊教会身廊と聖歌隊席
狭い身廊に添ってバロック式シャンデリアと中2階の聖歌隊席、その下の信者席が並び、中央部にルネッサンス様式の説教壇がある。
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聖霊教会内陣祭壇(15世紀)
祭壇は中央開きの3面に、市民の教会らしく素朴感溢れる木彫で聖書の一場面「聖霊の降誕」が再現されている。ベルント・ノウケ作(1483年)とのこと。 -
聖霊教会2階バルコニーの板壁に描かれた聖書物語絵巻
下層庶民の教会として文盲の人の教化に使われ「貧者の聖書」といわれたもの。よく観察すると新旧聖書物語が比較的リアルに描かれており、すなおに人心に受け入れられたであろうと思えるのが面白い。 -
グレートギルドの会館
もとこの町の商工同業組合の集会所(日本でいうなら商工会議所)が今はエストニア歴史博物館となって残っている。建物はそんなに大きくなく、ラトビアのような仰々しさはない。この国には13世紀以降のドイツの商工業者の入植が進みその流れでタリンはハンザ同盟都市となり、ロシアとの貿易中継点として活況を呈し、商工業が栄えたから14〜15世紀に亘り商工業者の業種別同業組合も発達してギルドが形作られた。それらを統括する頂上のギルドがグレートギルドで、市長、市議会議員はすべてここから選出されたという。建物のファサード壁面に赤地に白十字のグレートギルド紋章が付けられているが、これはタリンの紋章でもある。ドアの叩き金のライオンの頭もタリンのシンボル。内部のホールは3本の柱で支えられた尖頭アーチで天井を張ってあり風格がある。 -
ブラックヘッドのギルド
日本で言えば、青年商工会議所的なものか、グレートギルドに入る前の準備機関として、外国人や未婚の若い商人が参加した集会所だったそうだ。入口のタンパンにブラックヘッドの紋章があり、その中の肖像は守護聖人の聖人マリティウスという。黒い顔をしているがその出生はエチオピア人らしい。北国になぜ南の聖人を守護として戴いているのか不思議だが。職業や団体に関係ある聖人を戴く風習は、キリスト教徒に多く見られるから、その一人だと思うが、ブラックの名は黒い顔からきているという説も聞いた。切り妻などファサードは見るからに16世紀オランダルネッサンス様式で、いくつかの彫像で飾られていて、グレート・ギルドの建物より見栄えがする。また内部は、ホールから2階への階段の最初のステップ6段が優雅なスロープを描き、フィレンチェのラウレンツィアーナ図書館にあるミケランジェロ設計の階段に似ている。建築年代はグレートギルド会館とさほど差はないが、改装の年代差が現れている。16世紀に改装されたといってもオランダの流行をいち早く取り入れているのは、若い世代の集団の感覚であったのであろうか。などと考えていると面白くなった。現在は多目的集会所のようである。 -
下町の城壁と要塞、城壁西入口サウナ塔と防衛回廊を載せた門、
タリンを囲む要塞城壁が建て始められたのが13世紀と記録があるが、14世紀までに町が徐々に広げられそれにしたがって城壁が追加され、高さ6m、厚さが1.3m、となり、さらに16世紀には高さ16m、厚さ3.1mで長さが2.35kmと大きくなっていった。
城壁には門が8つ、前門の塔屋が11軒、城壁塔が27塔あったという。
写真はスールクローストォーリ通りからの出入り口門脇に立つサウナ塔、門上には防衛回廊が復元されている。 -
塔の広場
下町をめぐる城壁は城壁間に建てられた塔を結ぶ防衛回廊と堀と外の保塁に取り囲まれていっそうの防備を固めていた。
下町北東部にある「塔の広場」にはこれら城壁の防御構成がよくわかるよい状態に整備されている。 -
旧聖ミカエル修道院
タリンには多くの教会が建てられていたが、戦後復旧したものは数少なく、多くが廃寺か転用されている。このいい雰囲気にある修道院を尋ねあてたものの、すでに閉鎖された門から中を覗くと工事中で、工業博物館や学校に使われている様子であった。 -
城壁塔と聖オレフ教会尖塔
下町ラボラトーリウミ通りの外側の城壁と塔群は等間隔で4塔並び城壁らしい景観を呈しており、その奥に聳えるオラフ教会の鐘楼尖塔の従者的役割を果たしている。
手前の塔は、クイスマエ塔、左方にロワエンシェデ塔、ヌンナデタグネ塔と続く。 -
ラボラトォーリウミ通りの城壁と塔
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ライ通りの家「三人兄弟」
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聖オレフ教会尖塔
旧市街で最高の塔で124mの高さ。タリン旧市街中の最高の高さで、ランドマークである。建設の伝説に「オレフ」という名の石工巨人の面白い話が、どのガイドブックにも載っている。しかし、この教会の名は石工の名ではなく、ノールウェー王オラフ2世の名であったというのが実話らしい。
1500年代塔の高さが159mで世界一といわれたが、1625年の火災で破壊し、再建した塔は低くなってしまった。
現代の教会内部は1830年改修のネオゴシック様式である。 -
オレフの塔内部の梁組
塔の展望台へは入口で入場料を払って、エッチラオッチラと階段を500段くらい登る。途中の塔内梁組は見られないが最終の床に上がる段階で写真のような構造が見られる。大きな木の梁が石組みアーチの柱上に差し込まれ、上階の床を支えている。上階の窓は壁で塗りつぶされた飾り窓状態だが、この階の窓は板で閉められ、僅かな明かり取りと通気がなされている。 -
聖オレフ教会内部、パイプオルガン
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ピック通りの15世紀家「三姉妹」
名前がユニークなのでどんな建物か見に行った。ピック通りのグレートコーストゲイト(北門)近くのトリ通りとの交差点にあった。切り妻屋根の3軒並びの家で、中世商人の家に特徴的な切り妻壁面頂上につけた梁の滑車が3軒ともあり、その下に吊り上げた商品を入れる屋根裏階倉庫の戸口が相似形のようについている。北門は海に向かって開いた道路筋の出入り口だから、城門を入った近くに、貿易品の荷物の取り扱い商人たち多くが住み、その家並みがこの通りに並んでいたのであろうか。
交差点角の家のドアはバロック様式レリーフが施され、中世の外観が多く残っていた。
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グレートコートゲイト
海から城郭内に入る道筋の関門であった。この写真は3姉妹の方から眺めたものだが、外側には「太っちょのマルガリータ」というあだなの砲塔を伴っている要衝である。 -
オレフの塔から眺望タリン港
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オレフの塔から眺望市民ホール港
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オレフの塔から眺望ライ通りと城壁塔の広場俯瞰
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ピック・ヤルク通りの門
トームベアから下町に下る2本の道のうち長い坂道を下って出口に立つ塔門。これを見るとトームベアの城としての意味がわかる。 -
ブレーベンの塔
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ラタスカベ通りから聖ニコラス教会の塔
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民族衣装でストリートパーフォーマンス
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ラエコヤ広場に集まって
広場の真ん中には大きな花崗岩の円形のしるしがあって、井戸があった跡、十字のしるしは処刑場跡、など石畳にも歴史が刻まれている。時間があれば探してみるのも一興か。 -
新市街ビル群眺望
トーンベアから見た新市街の景色は目下新都市建設ラッシュのタリンの様相をよく表している。
建築的に興味を引く近代的建物が諸所にあり撮影に事欠かなかったが、フォートラベル向きではないのでこの程度で割愛する。 -
歌の原マーリアの丘
野外音楽堂としては出色のロケーションとユニークなデザインを誇るもの。海を見晴らす丘うえにたつ劇場だが、楕円ドーム屋根を持ち、奥から前面まで階段舞台が続き、さらにその前に広い芝生の集会広場が展開する。
ドーム屋根は球場などで見られるから珍しくはないが、それが外に向かって開放される形と規模がすばらしい。階段に3万人以上の歌手が立ち並び観客がその顔を見ながら、一体となって歌の祭典を楽しむという光景をテレビで見たことがあるが、実際にここにたってそれを味わいたいものだと思った。 -
白鳥の湖の噴水
カドリオルグ公園の白鳥の湖と呼ばれる池と噴水でロシアのピヨトル大帝の注文で作られたものである。
ピヨトル大帝は、サンクトペテルブルグからも近いタリンに妻のエカテリーナのために石灰岩のラスナマエの丘の麓に土地を買い、夏の離宮を建て、その一連の施設はエストニアのバロック様式建築の名作として今に残り、カドリオルグ公園となっている。 -
カドリオルグ宮殿
ピヨトル大帝が妻のエカテリーナのために建てたタリンの夏の離宮で、公園内に建つピンクと白のバロック様式建築物。
現在はエストニア国立美術館の海外美術コレクションでにしヨーロッパとロシアの美術品が展示されている。 -
旧市街の夕景
新市街のラディソンSASホテルのベランダから撮影した美しい旧市街の夕景の1枚。
夕日の落ちる瞬間よりも日没後のすばらしい残照を撮ることが写真家の常識であるが、5月の夕景は時間が長く、また残照時間も日本よりも時間が長く残っていてかつ刻々変化する色合いがすばらしい.
北国の特長であろうか、普通なら、あわただしい夕景撮影を、ここではゆっくりと色合いの変化を楽しみながら撮影が出来た。
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