大田・石見銀山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 3回目の最終回の銀山街道であるが、世界遺産に登録が決定した。今回は赤名宿から九日市宿を経て、石見銀山大森町に着いた。旧道の赤名峠入り口(標識はない)に何とラブホテルが!<br />斉藤茂吉が「人磨のことをおもいて眠られず 赤名越えつつ行きいおもほゆ」と柿本人磨を思い、大森の銀山から2日目の宿場で<br />最初の馬替えをしたところだそうである。<br /> そして先に進むと斉藤茂吉記念館があり、その南側が中国自然歩道に指定されている道が銀山街道である。<br /> 大森銀山は、産出量で石見国を代表するところから石見銀山と呼ばれ、江戸初期前半にその最盛期を迎えている。<br /> 戦国時代から大内氏、尼子氏、毛利氏と勢力を張り合っていたが、秀吉の天下から家康に移ると、貨幣の統一のため、鉱山の掌握を図り全国の鉱山を直轄地(天領)とし、石見銀山もその対象となった。家康の重臣、大久保長安が初代奉行となり、以後260年間幕府の直轄地(天領)として支配した。<br /> ヨーロッパにも名を知ら、当時の世界の3割の産出量を誇っていた。世界遺産に登録されてからは、飛躍的に観光客が増加し、休日には相当な混雑になる。<br /> 写真は大森代官所跡、奥に石見銀山資料館がある。

石見銀山街道(石州街道)をゆく③(最終)

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2007/07/28 - 2007/07/29

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ひま人

ひま人さん

 3回目の最終回の銀山街道であるが、世界遺産に登録が決定した。今回は赤名宿から九日市宿を経て、石見銀山大森町に着いた。旧道の赤名峠入り口(標識はない)に何とラブホテルが!
斉藤茂吉が「人磨のことをおもいて眠られず 赤名越えつつ行きいおもほゆ」と柿本人磨を思い、大森の銀山から2日目の宿場で
最初の馬替えをしたところだそうである。
 そして先に進むと斉藤茂吉記念館があり、その南側が中国自然歩道に指定されている道が銀山街道である。
 大森銀山は、産出量で石見国を代表するところから石見銀山と呼ばれ、江戸初期前半にその最盛期を迎えている。
 戦国時代から大内氏、尼子氏、毛利氏と勢力を張り合っていたが、秀吉の天下から家康に移ると、貨幣の統一のため、鉱山の掌握を図り全国の鉱山を直轄地(天領)とし、石見銀山もその対象となった。家康の重臣、大久保長安が初代奉行となり、以後260年間幕府の直轄地(天領)として支配した。
 ヨーロッパにも名を知ら、当時の世界の3割の産出量を誇っていた。世界遺産に登録されてからは、飛躍的に観光客が増加し、休日には相当な混雑になる。
 写真は大森代官所跡、奥に石見銀山資料館がある。

同行者
友人
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス 観光バス 新幹線
  •  広島から石見への街道の、作木の山中に広島県名勝の常清滝(じょうせいだき)がある。<br />「日本の滝100選」にも選ばれ、高さ126mの断崖から、三段に分かれ流れ落ちている。

     広島から石見への街道の、作木の山中に広島県名勝の常清滝(じょうせいだき)がある。
    「日本の滝100選」にも選ばれ、高さ126mの断崖から、三段に分かれ流れ落ちている。

  •  赤名峠への街道、赤名宿へと通じる。<br />赤名峠は、出雲国(島根県)と備後国(広島県)の境にあたり、重要な幹線として、大森銀山からの銀銅の運搬道として、多くの人が往来した。

     赤名峠への街道、赤名宿へと通じる。
    赤名峠は、出雲国(島根県)と備後国(広島県)の境にあたり、重要な幹線として、大森銀山からの銀銅の運搬道として、多くの人が往来した。

  •  赤穴八幡宮、主祭神は別雷神ほか5神。<br />宝亀元年(770年)の創建。境内に銀杏と杉が連理となった樹齢1000年余の古木がある。

     赤穴八幡宮、主祭神は別雷神ほか5神。
    宝亀元年(770年)の創建。境内に銀杏と杉が連理となった樹齢1000年余の古木がある。

  •  連光寺、浄土宗の寺。周りの石垣は、瀬戸山城で使われていた石垣を利用したもの。

     連光寺、浄土宗の寺。周りの石垣は、瀬戸山城で使われていた石垣を利用したもの。

  •  斉藤茂吉鴨山記念館。この建物の南側が旧銀山街道で、現在は中国自然歩道になっている。<br /> 鴨山は人磨終焉の地と言われ、斉藤茂吉が鴨山探索に情熱をそそいだ偉業を顕彰するため、平成3年5月に開館した。

     斉藤茂吉鴨山記念館。この建物の南側が旧銀山街道で、現在は中国自然歩道になっている。
     鴨山は人磨終焉の地と言われ、斉藤茂吉が鴨山探索に情熱をそそいだ偉業を顕彰するため、平成3年5月に開館した。

  •  石見銀山街道大森町地区、800m位奥にかつての銀山がある。<br /> 幕府の直轄地であったが、家並みは、武家屋敷、商家等混在して建っている。

     石見銀山街道大森町地区、800m位奥にかつての銀山がある。
     幕府の直轄地であったが、家並みは、武家屋敷、商家等混在して建っている。

  •  石見銀山龍源寺間歩(坑道)、正徳5年(1715年)の開発。江戸時代の開堀の長さは600mに及び良質の銀鉱石が多く掘り出された。300mの地下坑道に入ると、天然冷蔵庫のようなヒンヤリした冷気で生き返る。<br /> 最盛期は坑道が600近くあったようだが、現在はこの坑道しか入れない。

     石見銀山龍源寺間歩(坑道)、正徳5年(1715年)の開発。江戸時代の開堀の長さは600mに及び良質の銀鉱石が多く掘り出された。300mの地下坑道に入ると、天然冷蔵庫のようなヒンヤリした冷気で生き返る。
     最盛期は坑道が600近くあったようだが、現在はこの坑道しか入れない。

  •  羅漢寺五百羅漢、石窟五百羅漢は1743年月海淨印が発願。銀山で働いて亡くなった人々の霊や祖先の霊を、供養するため地元、大森代官所等の寄進により明和3年(1766年)25年かけて完成した。<br /> 羅漢はすべて表情が異なる。これらを護るため羅漢寺が建立された。

     羅漢寺五百羅漢、石窟五百羅漢は1743年月海淨印が発願。銀山で働いて亡くなった人々の霊や祖先の霊を、供養するため地元、大森代官所等の寄進により明和3年(1766年)25年かけて完成した。
     羅漢はすべて表情が異なる。これらを護るため羅漢寺が建立された。

  •  熊谷家住宅(重要文化財)、石見銀山で栄えた商家で、享和元年(1801年)火事の後、再建された。<br />銀山に関係した有力な商家であった。建造物、敷地と3300点に及ぶ家財が大田市に寄贈された。<br />熊谷家が日々の生活で使っていた道具、季節ごとに用いた道具など、当時の暮らしぶりを伝える家財を展示している。

     熊谷家住宅(重要文化財)、石見銀山で栄えた商家で、享和元年(1801年)火事の後、再建された。
    銀山に関係した有力な商家であった。建造物、敷地と3300点に及ぶ家財が大田市に寄贈された。
    熊谷家が日々の生活で使っていた道具、季節ごとに用いた道具など、当時の暮らしぶりを伝える家財を展示している。

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