2007/05/12 - 2007/05/13
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ムーミンパパさん
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以前より見たいと思っていた、桧枝岐の歌舞伎を今年は実現できた。春の上演は5月12日のみであり、この日にあわせて民宿を予約、車で行った。
概要は以下
桧枝岐歌舞伎は、古典芸能僻地に伝統的に保存され、農民芸術として今尚貴重な存在である。この格調の高い古典的な民芸は他に比すもののないものである。
この村に伝えられた記録はあまり明確でないが、元禄六年五月に、白河の関を超えている。桧枝岐村に伝わったのも此の頃で、寛政、文化の年代であったが、当時僻遠の地で他に娯楽もなく鎮守神祭礼の奉納芝居として、村民唯一の慰安として伝承されたのである。
舞台は鎮守神社殿の前に拝殿兼用の舞台が建てられていて、奉納芝居の場所である。毎年春祭(5月12日)鎮守神の祭礼(8月18日)二度は必ず上演されてきた。
今回の演目
1:南山(なんざん)義民(ぎみん)の碑(いしぶみ) 喜四郎子(きしろうこ)別れ(わかれ)の段(だん)
享保五年に起こった南山御蔵入騒動と呼ばれる大規模な百姓一揆に端を発し、
翌六年、小栗山喜四郎他による江戸幕府への直訴を劇化したものである。
喜四郎は減税嘆願を直訴するのであるが、直訴によって自分の家族にまで刑罰が及ぶのを避けようと思案の末、母親と妻に悪態を働き、遂に、母親から勘当されることになる。母や妻との別れのつらさをじっと堪えて、心を鬼にして家を出て行く。
直訴の決意を胸に秘めた喜四郎であったが、遊びからの帰り、喜一に出会い、純真な我が子に心を打たれ、親子の情愛の深さを痛感し、喜一を抱きしめ男泣きするのであった。そして、その昔、多くの農民を救うため、将軍に減税を直訴し、処刑された物語の主人公、佐倉宗吾郎の芝居を思い出し、「佐倉宗吾郎の芝居がしたさに、これから江戸へ参ります。不幸を許してくださりませ」との母への伝言によって、実は、これから直訴に向かう覚悟であることを幼い喜一に託して、涙ながらに別れていくのであった。
2:奥州(おうしゅう)安達ケ原(あだちがはら) 文治館(ぶんじやかた)の段(だん)
津軽半島のある村での物語である。貧しい浪人の文治は、病の千代童にやる薬さえ買えず、ある時、康平五年に源義家が黄金の札をつけて放した鶴を殺し、千代童の薬代にと、黄金の札を取っておいたが、借金取りに来た南平衛に渡してしまう。
南平衛は、黄金の札を受け取りに奥に入って休む。文治は薬を買うお金欲しさに鶴殺しの科で自分を訴人する。文治の妻は、訴状を持って代官所へ行き、文治は、仏間に入り回向をするが、奥より素袍姿に着替えた南兵衛が位牌を手に出てくる。文治は驚くが、南兵衛が宗任であることを知り、南兵衛は、病の千代童が兄貞任の子であることを知らされる。そこへ妻のお谷が訴人の褒美を貰い喜んで帰ってくるが、間もなく召取りの役人が現れ文治に縄をかけ引き立てようとする。千代童は文治の引き立てられるのを悲しみ、立ち上がるが死んでしまう。妻は文盲のために自分の夫を訴人した事を憂い悲しむ。そこへ南兵衛が出てきて、黄金の札を示し、自分が科人であると名のりでたため縄は南兵衛にかけかえられる。
文治も主君の弟ある宗人を科人とすることは、耐えられない事であるが、南兵衛が敵将義家に近づくために、わざと引かれて行く事とを知らされ、安倍兄弟の成功を祈り手を合わせるのであった。
「桧枝岐歌舞伎 歴史の里の郷土芸能」より抜粋
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