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 旅行記の前にちょっと堅苦しいハナシを一つ。<br />もう15年も前の話になりますが当時中学生だった私に、それまでに無いくらい、そして今後もないだろうというくらい大きな影響を与えた人物がいました。幕末に生きた学者・教育者そして志士である長州藩(現在の山口県)の「吉田松陰」という人物です。<br /> 中学時代というのは色々楽しいこともあるわけですが、それと同じくらい自分の内面や外部からの圧力というものが多い時期なわけでして。いろんな意味でダウン寸前だった私が偶然読んだのが当時連載されていた某漫画で知ったのがこの吉田松陰でした。きっかけは漫画でしたが、そこからどんどん深くこの人物と時代に興味を持ち始めて早15年。今では本棚は明治維新の本が何冊あるか分からないほどに至りました。そんな中でも、今回旅した萩はこの松陰先生が主宰した松下村塾という私塾が現在も残されており、私にとってはある種神聖すぎる場所で、旅行好きにも関わらずずっと踏み込めない場所でした。宮城県からは遠い、という以上に今まで萩に行かなかった理由です。<br /> 昨年の京都旅行から一気に加速して今回遂に萩に旅行を決行です。相方は、いつもと同じ祭乃(サイノ)君。彼女もまた幕末好きなので、いつもにましてこの旅行にはうってつけの相方です。3泊4日の行程です。行動範囲は、萩市、秋吉台、湯田温泉。羽田空港発着で、宿泊は萩本陣とホテルかめ福でした。<br /><br /><br />-----行程----- ●1日目 仙台駅→羽田空港→山口宇部空港→新山口駅→東萩駅→旅館→松陰神社及びその周辺→団子巌→旅館泊  ●2日目 旅館→団子巌→旅館(朝食)→野山獄・岩倉獄→旧木戸孝允宅→旧高杉晋作邸→軽食→萩博物館→萩城跡→旅館泊  ●3日目 旅館→団子巌→旅館(朝食)→松陰神社→東萩駅→山口駅→秋吉台(秋芳洞)→山口駅→旅館泊  ●4日目 旅館→中原中也記念館→聖フランシスコザビエル記念堂→山口駅→新山口駅→山口宇部空港→羽田空港→仙台駅<br /><br /><br /> 考えてみれば、10年以上前に祭乃君と仲良くなったキッカケもお互いの幕末好きにありました。旅行前から二人そろって異様なテンションの高さを醸し出しつつ、遂に15年来悲願だった萩への旅行に旅立ちました。<br />

春の萩・湯田旅行記~幕末維新を辿る旅~

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2007/05/03 - 2007/05/06

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cafe

cafeさん

 旅行記の前にちょっと堅苦しいハナシを一つ。
もう15年も前の話になりますが当時中学生だった私に、それまでに無いくらい、そして今後もないだろうというくらい大きな影響を与えた人物がいました。幕末に生きた学者・教育者そして志士である長州藩(現在の山口県)の「吉田松陰」という人物です。
 中学時代というのは色々楽しいこともあるわけですが、それと同じくらい自分の内面や外部からの圧力というものが多い時期なわけでして。いろんな意味でダウン寸前だった私が偶然読んだのが当時連載されていた某漫画で知ったのがこの吉田松陰でした。きっかけは漫画でしたが、そこからどんどん深くこの人物と時代に興味を持ち始めて早15年。今では本棚は明治維新の本が何冊あるか分からないほどに至りました。そんな中でも、今回旅した萩はこの松陰先生が主宰した松下村塾という私塾が現在も残されており、私にとってはある種神聖すぎる場所で、旅行好きにも関わらずずっと踏み込めない場所でした。宮城県からは遠い、という以上に今まで萩に行かなかった理由です。
 昨年の京都旅行から一気に加速して今回遂に萩に旅行を決行です。相方は、いつもと同じ祭乃(サイノ)君。彼女もまた幕末好きなので、いつもにましてこの旅行にはうってつけの相方です。3泊4日の行程です。行動範囲は、萩市、秋吉台、湯田温泉。羽田空港発着で、宿泊は萩本陣とホテルかめ福でした。


-----行程----- ●1日目 仙台駅→羽田空港→山口宇部空港→新山口駅→東萩駅→旅館→松陰神社及びその周辺→団子巌→旅館泊  ●2日目 旅館→団子巌→旅館(朝食)→野山獄・岩倉獄→旧木戸孝允宅→旧高杉晋作邸→軽食→萩博物館→萩城跡→旅館泊  ●3日目 旅館→団子巌→旅館(朝食)→松陰神社→東萩駅→山口駅→秋吉台(秋芳洞)→山口駅→旅館泊  ●4日目 旅館→中原中也記念館→聖フランシスコザビエル記念堂→山口駅→新山口駅→山口宇部空港→羽田空港→仙台駅


 考えてみれば、10年以上前に祭乃君と仲良くなったキッカケもお互いの幕末好きにありました。旅行前から二人そろって異様なテンションの高さを醸し出しつつ、遂に15年来悲願だった萩への旅行に旅立ちました。

同行者
友人
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
高速・路線バス JALグループ
  • 旅行記とはちょっと違いますが、最初に吉田松陰とその他の今回の旅に関わる歴史を少しだけ。<br />多分旅行記の大部分は、歴史が判らないと、「?」という感じになること間違いなしです(笑)<br /><br />というわけで、受験にも役立つ(笑)“Who is Syoin Yoshida?”<br />ダイジェスト版でお届けします(*_ _*)/<br /><br /><br />・・・と思ったら、なんだカンダで長くなってしまいました(汗)<br />興味のない方は飛ばして先へどうぞ。。。<br /><br /><br /><br />★吉田松陰という人物は<br /><br />?幕末(ペリーが来て日本に開国をせまったあたり)に生きた山口県(長州藩といいます)出身の軍学者・教育者・思想家・勤皇の志士。勤皇の志士とは、当時の倒れかけていた江戸幕府と日本を「これじゃイカんよ!もう、幕府を無くして新しい日本を作ろうよ」と、なんとかしようと立ち上がった人たちのこと。志は大きいが、その実現までには多くの命が費やされた。<br /><br />?とっても貧乏な武士の家・杉百合之助の次男に生まれる。お父さんは学問好きなので、長男のお兄さんと一緒に貧乏ながらも多くの学問を教えられる。大した親だ。<br /><br />?才能があったらしく、めきめきと学問を習得。神童ってヤツです。これに目を付けたのが、お父さんの弟・吉田大助(つまりはおじさん)。彼は杉家から吉田家という軍学者の家に養子に入ってたんですね。だけど子供がいなかった。<br /> んで、松陰を自分の後継者にしたくて養子にさせてもらいます。しかし、その後すぐにこの大助さんは死んでしまい、「ここはオレが鍛えるしかあるまい」と名乗り出たのが、もう一人のおじさんである玉木文之進。この人が一番最初の松下村塾という塾を開いたヒト。<br /><br />?さて、色々な経験を経て立派な青年になった松陰は見聞を広めるべく江戸へ留学します。わくわく。<br /><br />?旅では色んな人と出会い、親友と呼べる宮部ともめぐり合えました。佐久間象山からとんでもない影響も受けました。そうこうしているうちに、日本史上とんでもない大事件が起きます。世に言う「黒船来航」です。ペリーが言うわけですよ「開国シテクダサァーイ」<br /><br />?黒船はすごいです。デカいです。早いです。大砲も何台もあります。鉄砲も日本の性能の比じゃありません。ガイジンさんの背もデカいです。こりゃビックリです。「こんなに発展した国と真面目に戦争しても勝てるわけないよ」と考えた松陰は一念発起します。<br /> 「そうだ、アメリカに行って進んだ文化や精神を勉強すれば、きっと日本だって植民地化されないですむはずだぞ」<br /><br /><br />?思い立ったらすぐ実行。と言っても、日本は鎖国中です。幕府の頭のカタい連中はアメリカに行くなんて絶対許してくれません。<br /> じゃ、しかたあるまい。ダメなら黒船に乗ってるアメリカ人に談判して密航させてもらおうじゃないの。前からとっても松陰を尊敬していた金子重輔君も一緒に密航を決断します。「先生、付いていきますぜ!」・・・私も付いていきたいです。<br /><br />?密航決行の日、小船を使って黒船へ乗り込み、通訳と漢字の書面を使って意志を伝えます。ですが、ペリーは言います。本当に乗せてあげたいんだけど、日本と交渉の始まった今、ここで国禁を犯す行為に手を貸したら全てが水の泡になってしまうんだ。ゴメンよ。 さぁどうする先生?!<br /><br />?密航は失敗です。乗ってきた小船に刀や書物も入れてあったのですが、それも波に流されてしまい自分達の企みが幕府にバレるのは時間の問題です。絶望した金子君は搾り出した声で松陰先生に言います。「先生、武士らしく腹を斬りましょう」<br /><br />?ところがそこは松陰先生。そういう死に方は無意味だ、と金子君を諭します。ただし、この密航に協力してくれた恩師や友人に罪が及ぶのは避けなければなりません。「下田奉行所へ自首しよう。至誠にして動かざるものなし、だ。」かくして、自首した松陰と金子君は、故郷・長州へ送り返されました。<br /><br />?長州へ戻った2人は、松陰は野山獄へ、金子君は岩倉獄へと投獄されます。その後、金子君は獄中で病死してしまい、松陰は大変悲しみます。ですが悲しんでばかりいられません。やらなくてはならない事と勉強すべきことはたくさんあります。<br /> まずはこの塀の中の生活を快適ライフにせねばなりません。<br /><br />?そこで松陰は他のやる気ナシナシの囚人を巻き込んで、牢屋の中でさえ皆で楽しく勉強会をしてしまいます。ここでは1人1人が講師です。自分の得意分野を各人がみんなに披露する形式の講義をしてみました。<br /><br />?そうしてみると、まぁ、なんということでしょう。やる気ナシナシだった囚人たちがみるみる生気を取り戻してきたではありませんか。皆が、松陰のことを先生と慕い始めました。<br /><br />?松陰先生はここで、『身分や男女に縛られないということ』を強く体感します。そうです。これからの日本は身分や性別によって自由を制限されてはイカンのです。そんなことを強く胸に秘め、やがて療養の名目で自宅幽閉の沙汰が下り、自分の実家である杉家<br />戻ることになりました。<br /><br />?罪人だということにも関わらず、家族は優しく接してくれます。そんなある日、父や叔父から提案をうけます。「幽閉だからとウサウサしているのでは仕方ない。ここは、我々を相手に孟子や孔子の講義をしてみてはどうだろうか?」<br /><br />?松陰は喜び、身内に講義を始めます。やがて、その人数は少しずつ増え、ついに藩に塾としての申請をすると、これが受理されました。ビバ、長州藩。遂に松陰主宰の松下村塾の誕生です。<br /><br />?今と違ってホット○ッパーも、じゃ○んもない時代です。松下村塾は完全クチコミで広がりました。んもう、「来るもの拒まず」精神です。農民だろうが下級武士だろうが、学問したい人カモン状態です。お金は請求しません。みんなの善意でお金がある人は月謝を払い、無い人はイモやダイコンで払っていくこともしばしばです。<br /><br />?塾生は多彩を極めました。自分の能力に気がついているもの、大器晩成型の者、まったく自分の実力に気がついて無い者など様々。松陰先生の教育は誰の長所でも見つけて、徹底的にホメまくるところにあります。ちょっと前の某マラソン選手の某コーチのようです。<br /> みんな色んな形で入塾してきましたが、その中には後の初代内閣総理大臣の伊藤博文や、奇兵隊創立者の高杉晋作、勤皇の志士として大変大きな役割を担った久坂玄瑞など、身分は様々ですが後の明治維新の大役者たちが勢ぞろいでした。<br /><br />?松下村塾の教育はそれまでの学問では大半が「机上の論」だったのに対し、生活や当時の時局に真に迫った、いうなれば本当の意味での「生きた学問」でした。時には、大勢で議論をしたり、人数が少なかったときにはマンツーマンになったり。晴れれば畑をたがやかしたり、脱穀したりしながらでさえ授業を進めます。手狭になった塾を増築する時には大工さんに頼まないで、塾生みんなで協力してついに工事を完成させてしまいました。<br /><br />?ところが、そんな楽しい日は長続きしませんでした。世の中の情勢は刻一刻と暗く物騒な時代にかかってきてます。支持率を失った政治の中枢機関というものは、今も昔も倒れなければならない運命なのです。政権交代です。革命です。この江戸幕府にもついに志士たちを中心に、「打倒、幕府!」の声が高らかになってきました。<br /><br /><br />

    旅行記とはちょっと違いますが、最初に吉田松陰とその他の今回の旅に関わる歴史を少しだけ。
    多分旅行記の大部分は、歴史が判らないと、「?」という感じになること間違いなしです(笑)

    というわけで、受験にも役立つ(笑)“Who is Syoin Yoshida?”
    ダイジェスト版でお届けします(*_ _*)/


    ・・・と思ったら、なんだカンダで長くなってしまいました(汗)
    興味のない方は飛ばして先へどうぞ。。。



    ★吉田松陰という人物は

    ?幕末(ペリーが来て日本に開国をせまったあたり)に生きた山口県(長州藩といいます)出身の軍学者・教育者・思想家・勤皇の志士。勤皇の志士とは、当時の倒れかけていた江戸幕府と日本を「これじゃイカんよ!もう、幕府を無くして新しい日本を作ろうよ」と、なんとかしようと立ち上がった人たちのこと。志は大きいが、その実現までには多くの命が費やされた。

    ?とっても貧乏な武士の家・杉百合之助の次男に生まれる。お父さんは学問好きなので、長男のお兄さんと一緒に貧乏ながらも多くの学問を教えられる。大した親だ。

    ?才能があったらしく、めきめきと学問を習得。神童ってヤツです。これに目を付けたのが、お父さんの弟・吉田大助(つまりはおじさん)。彼は杉家から吉田家という軍学者の家に養子に入ってたんですね。だけど子供がいなかった。
     んで、松陰を自分の後継者にしたくて養子にさせてもらいます。しかし、その後すぐにこの大助さんは死んでしまい、「ここはオレが鍛えるしかあるまい」と名乗り出たのが、もう一人のおじさんである玉木文之進。この人が一番最初の松下村塾という塾を開いたヒト。

    ?さて、色々な経験を経て立派な青年になった松陰は見聞を広めるべく江戸へ留学します。わくわく。

    ?旅では色んな人と出会い、親友と呼べる宮部ともめぐり合えました。佐久間象山からとんでもない影響も受けました。そうこうしているうちに、日本史上とんでもない大事件が起きます。世に言う「黒船来航」です。ペリーが言うわけですよ「開国シテクダサァーイ」

    ?黒船はすごいです。デカいです。早いです。大砲も何台もあります。鉄砲も日本の性能の比じゃありません。ガイジンさんの背もデカいです。こりゃビックリです。「こんなに発展した国と真面目に戦争しても勝てるわけないよ」と考えた松陰は一念発起します。
     「そうだ、アメリカに行って進んだ文化や精神を勉強すれば、きっと日本だって植民地化されないですむはずだぞ」


    ?思い立ったらすぐ実行。と言っても、日本は鎖国中です。幕府の頭のカタい連中はアメリカに行くなんて絶対許してくれません。
     じゃ、しかたあるまい。ダメなら黒船に乗ってるアメリカ人に談判して密航させてもらおうじゃないの。前からとっても松陰を尊敬していた金子重輔君も一緒に密航を決断します。「先生、付いていきますぜ!」・・・私も付いていきたいです。

    ?密航決行の日、小船を使って黒船へ乗り込み、通訳と漢字の書面を使って意志を伝えます。ですが、ペリーは言います。本当に乗せてあげたいんだけど、日本と交渉の始まった今、ここで国禁を犯す行為に手を貸したら全てが水の泡になってしまうんだ。ゴメンよ。 さぁどうする先生?!

    ?密航は失敗です。乗ってきた小船に刀や書物も入れてあったのですが、それも波に流されてしまい自分達の企みが幕府にバレるのは時間の問題です。絶望した金子君は搾り出した声で松陰先生に言います。「先生、武士らしく腹を斬りましょう」

    ?ところがそこは松陰先生。そういう死に方は無意味だ、と金子君を諭します。ただし、この密航に協力してくれた恩師や友人に罪が及ぶのは避けなければなりません。「下田奉行所へ自首しよう。至誠にして動かざるものなし、だ。」かくして、自首した松陰と金子君は、故郷・長州へ送り返されました。

    ?長州へ戻った2人は、松陰は野山獄へ、金子君は岩倉獄へと投獄されます。その後、金子君は獄中で病死してしまい、松陰は大変悲しみます。ですが悲しんでばかりいられません。やらなくてはならない事と勉強すべきことはたくさんあります。
     まずはこの塀の中の生活を快適ライフにせねばなりません。

    ?そこで松陰は他のやる気ナシナシの囚人を巻き込んで、牢屋の中でさえ皆で楽しく勉強会をしてしまいます。ここでは1人1人が講師です。自分の得意分野を各人がみんなに披露する形式の講義をしてみました。

    ?そうしてみると、まぁ、なんということでしょう。やる気ナシナシだった囚人たちがみるみる生気を取り戻してきたではありませんか。皆が、松陰のことを先生と慕い始めました。

    ?松陰先生はここで、『身分や男女に縛られないということ』を強く体感します。そうです。これからの日本は身分や性別によって自由を制限されてはイカンのです。そんなことを強く胸に秘め、やがて療養の名目で自宅幽閉の沙汰が下り、自分の実家である杉家
    戻ることになりました。

    ?罪人だということにも関わらず、家族は優しく接してくれます。そんなある日、父や叔父から提案をうけます。「幽閉だからとウサウサしているのでは仕方ない。ここは、我々を相手に孟子や孔子の講義をしてみてはどうだろうか?」

    ?松陰は喜び、身内に講義を始めます。やがて、その人数は少しずつ増え、ついに藩に塾としての申請をすると、これが受理されました。ビバ、長州藩。遂に松陰主宰の松下村塾の誕生です。

    ?今と違ってホット○ッパーも、じゃ○んもない時代です。松下村塾は完全クチコミで広がりました。んもう、「来るもの拒まず」精神です。農民だろうが下級武士だろうが、学問したい人カモン状態です。お金は請求しません。みんなの善意でお金がある人は月謝を払い、無い人はイモやダイコンで払っていくこともしばしばです。

    ?塾生は多彩を極めました。自分の能力に気がついているもの、大器晩成型の者、まったく自分の実力に気がついて無い者など様々。松陰先生の教育は誰の長所でも見つけて、徹底的にホメまくるところにあります。ちょっと前の某マラソン選手の某コーチのようです。
     みんな色んな形で入塾してきましたが、その中には後の初代内閣総理大臣の伊藤博文や、奇兵隊創立者の高杉晋作、勤皇の志士として大変大きな役割を担った久坂玄瑞など、身分は様々ですが後の明治維新の大役者たちが勢ぞろいでした。

    ?松下村塾の教育はそれまでの学問では大半が「机上の論」だったのに対し、生活や当時の時局に真に迫った、いうなれば本当の意味での「生きた学問」でした。時には、大勢で議論をしたり、人数が少なかったときにはマンツーマンになったり。晴れれば畑をたがやかしたり、脱穀したりしながらでさえ授業を進めます。手狭になった塾を増築する時には大工さんに頼まないで、塾生みんなで協力してついに工事を完成させてしまいました。

    ?ところが、そんな楽しい日は長続きしませんでした。世の中の情勢は刻一刻と暗く物騒な時代にかかってきてます。支持率を失った政治の中枢機関というものは、今も昔も倒れなければならない運命なのです。政権交代です。革命です。この江戸幕府にもついに志士たちを中心に、「打倒、幕府!」の声が高らかになってきました。


  • ?世の中は激動期に向かっています。それなのに自分は今だ蟄居の身。この目で確かめに行く事も、聞いてくることもできないのです。松陰先生は焦ります。孤独感をつのらせます。もともと静かで涼やかなヒトにもかかわらず、非常に感動屋で純粋なもんですから、この状態にいてもたってもいられなくなります。<br /><br />?この頃、幕府は自分たちを非難する人間を片っ端から捕まえて処罰するという実力行使にでてきました。大老井伊直弼が立案し、実行しているのは老中間部です。次々と志しある者が捕らえられ、不当な裁判で服役、刑死していきます。世に言う「安政の大獄」です。<br /><br />?精神的にもガマンの限界にきていた松陰先生は、遂に「老中間部暗殺計画」を立て、塾生たちにそれを伝えます。もう、みんなビックリです。普段は穏やかな先生です。蟄居というのは、松陰先生のようなヒトでさえもやはり精神的に堪えてくるものなのでしょう。基本、こういう物騒な話はハッキリいって、松陰先生の守備範囲外なのです。悪く言ってしまえば、身の丈に合っていないのです。<br /><br />?塾生はビビり、みんなで先生を諭し止めようとします。しかし、先生はその塾生たちを不甲斐なし!と涙ながらに諭し返します。「僕は君達に学問としての生きた学問を教えてきた。なのに君達は結局のところは、自分が安全な場所で出世するだけの学問のみを用いるわけだな!」・・・絶交状を多くの塾生にたたきつけてしまいました。<br /><br />?計画に同意した一部の塾生を従え、暗殺といいながらも闇討ちはよろしくない、と堂々と長州藩に計画を届出てしまいます。ついでに武器弾薬もかしてくれ、と藩に無心します。これには藩主もビックリ。元々松陰先生に目をかけてくれていた藩主毛利や重役周布は「こりゃイカン」といそいで、先生を再び野山獄に送り込みます。「ちょっとそこでアタマを冷やしとれ」<br /><br />?野山獄に入れられ、一人でものをじっくり考える時間ができました。確かにアタマも冷えました。冷静さを取り戻し、絶交状を付きつけられた塾生でさえ心配して面会にもきてくれます。すっかり落着きを取り戻した日、松陰先生の兄が面会にやってきて、苦しそうに告げます。「・・・江戸へ護送されるそうだ」<br /><br />?幕府は間部暗殺計画のことを知らないのです。松陰先生にかかった嫌疑は、以前の黒船密航、それにこれは全くの幕府の勘違いだったのですが、京都御所に落ちていた不穏な内容の手紙の筆跡が先生のものと似ているので、その真偽を問うところ等にありました。<br /><br />?かくして松陰先生は、一度江戸に護送される前夜、野山獄の獄司の心遣いで、内緒で1回だけ我が家に帰らせてもらえます。夜中ですが、皆松下村塾に集まってきてます。年老いた母親は、護送される息子のために風呂を沸かし、「元気で帰ってきておくれ」と涙ながらに話しかけてきます。塾生たちは、「先生、私になにか一言ください!」と別れを惜しみます。<br /><br />?時間はまってくれません。遂に護送の時です。街道を護送され、最後に萩の街を一望できる涙松という場所にかかりました。この場所で萩を見納めです。自分は今度いつ、この街に帰ってこれるのだろう…<br /> 帰えらじと 思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな<br /><br />?江戸では何回にもわたる取り調べをうけました。それでも松陰先生は考えます。きっと至誠を貫いて話をすれば、判ってもらえるはずだ。この国の危うさと、立場は違えども、志士も幕府の人間もこの日本を守りたい、という気持ちは変らないのだから。<br /><br />?先生の姿勢には幕府の役人も感服します。しかも、罪人とはいえ、京都御所の手紙の件も濡れ衣のようですし、密航のことはあるにせよ、他の橋本佐内とかよりも刑は全然軽いでしょう。<br /> 役人の姿勢もいくらか耳をかすようになってきました。この時こそ、自らの至誠を組みとって貰う時だ。先生は考えました。そして、ここで双方に大変な思い違いが生じていたのです。<br /><br />?先生は、当然老中間部の暗殺計画がすでに幕府に知れていると思ってました。ですが、実は幕府はそんなことしらなかったのです。取り調べをしている最中、ひょんなことからその暗殺計画を耳にしてしまった幕府は度肝を抜かれます。ひえ〜。<br /><br />?取り調べは一気に過酷さを増しました。それでも松陰先生は姿勢を変えることはありません。ちょうどこの時期に江戸在中していた高杉君は、先生の処分をさぐるべく奔走します。ですが、高杉君も久坂君も、桂小五郎君も、みんなちょっと軽く考えていたのです。「なぁに、死罪を賜る事はないはずだ。島流し程度のはず。生きていればこそ、何としてでもまた会える時は必ずくるはずだ」<br /><br />?松陰先生の刑は、大方の予想通り島流しでした。先生の名を含み、安政の大獄に連行された多くの人の名と決定された罪名がかかれた文書を、大老井伊が最終チェックしていました。<br /> 流れるように文書を読んでいた井伊の目がふと止まります。そうかと思った次の瞬間、何気なく取り上げ動かされた筆の先では、1人の男の刑の名が書き換えられていました。<br /> 長州藩 松陰吉田寅二郎   島流し改め斬首<br /> 芽は小さいうちに摘んでおかねばなるまい。井伊直弼は呟きました。<br /><br />?松陰先生の入っている牢獄は、毎月7のつく日に処刑が決行されます。10/7には橋本佐内や頼三樹三郎が斬首されました。10/17日には誰も処刑されませんでした。しかし、先月は梅田某も斬首されています。次は10/27です。松陰先生はいよいよ自分の死期が近い事を察しました。<br /><br />?10/25になり、遺書として、また自分がうけた取り調べの様子を克明に記すために、生涯最後の執筆『留魂録』の作成に取り掛かりました。1ページ目には、最後の絶句を一種したためることにしました。<br /> 身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも  留め置かまし 大和魂<br /> <この身はたとえこの武蔵の野辺に死に絶えても、私のこの魂は永遠にこの日本に行き続けるのだ><br /><br />?10/27朝、呼び出しがあり、そこで斬首との判決が下りました。<br /> 親思う 心にまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん<br /> <私が両親のことを思う以上に私のことを心配してくれているお父さん、お母さん  今日私が死んだと知ったら何とお思いになるでしょうか><br /> もとより覚悟していたことです。心は不思議なくらい平穏でした。松陰先生は、頭を下げて役人たちに言いました。「もとより覚悟のこと。皆さん大変ご苦労様でした、どうぞお元気で」<br /><br />?松陰先生はそのまま、刑場へ連れて行かれます。斬首を見届ける役人や、長州藩の知人が見守る中、ゆっくりと歩を進める松陰は、辞世の句を謳いあげました。<br />  我いま国のために死す<br />  死して君親にそむかず<br />  悠々たりと天地のこと<br />  鑑賞は明神にあり<br />歌は凛とした声で、しかし朗々と2回繰り返されました。それがたった30年を疾風の如く生き抜いた松陰の最後の姿でした。<br />10/27朝10時、松陰はまだ30歳というあまりに若く短い人生を終えたのでした。<br /><br /><br />しかし彼の辞世の句のとおり、その後も彼の意思は多くの弟子や志士たちに脈々と受け継がれ、遂に日本は開国。近代国家としての歩みを始めます。<br /><br /><br /><br />と、こんな感じなのです。<br /><br />で、やっと旅行記本編です(_ _;↓

    ?世の中は激動期に向かっています。それなのに自分は今だ蟄居の身。この目で確かめに行く事も、聞いてくることもできないのです。松陰先生は焦ります。孤独感をつのらせます。もともと静かで涼やかなヒトにもかかわらず、非常に感動屋で純粋なもんですから、この状態にいてもたってもいられなくなります。

    ?この頃、幕府は自分たちを非難する人間を片っ端から捕まえて処罰するという実力行使にでてきました。大老井伊直弼が立案し、実行しているのは老中間部です。次々と志しある者が捕らえられ、不当な裁判で服役、刑死していきます。世に言う「安政の大獄」です。

    ?精神的にもガマンの限界にきていた松陰先生は、遂に「老中間部暗殺計画」を立て、塾生たちにそれを伝えます。もう、みんなビックリです。普段は穏やかな先生です。蟄居というのは、松陰先生のようなヒトでさえもやはり精神的に堪えてくるものなのでしょう。基本、こういう物騒な話はハッキリいって、松陰先生の守備範囲外なのです。悪く言ってしまえば、身の丈に合っていないのです。

    ?塾生はビビり、みんなで先生を諭し止めようとします。しかし、先生はその塾生たちを不甲斐なし!と涙ながらに諭し返します。「僕は君達に学問としての生きた学問を教えてきた。なのに君達は結局のところは、自分が安全な場所で出世するだけの学問のみを用いるわけだな!」・・・絶交状を多くの塾生にたたきつけてしまいました。

    ?計画に同意した一部の塾生を従え、暗殺といいながらも闇討ちはよろしくない、と堂々と長州藩に計画を届出てしまいます。ついでに武器弾薬もかしてくれ、と藩に無心します。これには藩主もビックリ。元々松陰先生に目をかけてくれていた藩主毛利や重役周布は「こりゃイカン」といそいで、先生を再び野山獄に送り込みます。「ちょっとそこでアタマを冷やしとれ」

    ?野山獄に入れられ、一人でものをじっくり考える時間ができました。確かにアタマも冷えました。冷静さを取り戻し、絶交状を付きつけられた塾生でさえ心配して面会にもきてくれます。すっかり落着きを取り戻した日、松陰先生の兄が面会にやってきて、苦しそうに告げます。「・・・江戸へ護送されるそうだ」

    ?幕府は間部暗殺計画のことを知らないのです。松陰先生にかかった嫌疑は、以前の黒船密航、それにこれは全くの幕府の勘違いだったのですが、京都御所に落ちていた不穏な内容の手紙の筆跡が先生のものと似ているので、その真偽を問うところ等にありました。

    ?かくして松陰先生は、一度江戸に護送される前夜、野山獄の獄司の心遣いで、内緒で1回だけ我が家に帰らせてもらえます。夜中ですが、皆松下村塾に集まってきてます。年老いた母親は、護送される息子のために風呂を沸かし、「元気で帰ってきておくれ」と涙ながらに話しかけてきます。塾生たちは、「先生、私になにか一言ください!」と別れを惜しみます。

    ?時間はまってくれません。遂に護送の時です。街道を護送され、最後に萩の街を一望できる涙松という場所にかかりました。この場所で萩を見納めです。自分は今度いつ、この街に帰ってこれるのだろう…
     帰えらじと 思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな

    ?江戸では何回にもわたる取り調べをうけました。それでも松陰先生は考えます。きっと至誠を貫いて話をすれば、判ってもらえるはずだ。この国の危うさと、立場は違えども、志士も幕府の人間もこの日本を守りたい、という気持ちは変らないのだから。

    ?先生の姿勢には幕府の役人も感服します。しかも、罪人とはいえ、京都御所の手紙の件も濡れ衣のようですし、密航のことはあるにせよ、他の橋本佐内とかよりも刑は全然軽いでしょう。
     役人の姿勢もいくらか耳をかすようになってきました。この時こそ、自らの至誠を組みとって貰う時だ。先生は考えました。そして、ここで双方に大変な思い違いが生じていたのです。

    ?先生は、当然老中間部の暗殺計画がすでに幕府に知れていると思ってました。ですが、実は幕府はそんなことしらなかったのです。取り調べをしている最中、ひょんなことからその暗殺計画を耳にしてしまった幕府は度肝を抜かれます。ひえ〜。

    ?取り調べは一気に過酷さを増しました。それでも松陰先生は姿勢を変えることはありません。ちょうどこの時期に江戸在中していた高杉君は、先生の処分をさぐるべく奔走します。ですが、高杉君も久坂君も、桂小五郎君も、みんなちょっと軽く考えていたのです。「なぁに、死罪を賜る事はないはずだ。島流し程度のはず。生きていればこそ、何としてでもまた会える時は必ずくるはずだ」

    ?松陰先生の刑は、大方の予想通り島流しでした。先生の名を含み、安政の大獄に連行された多くの人の名と決定された罪名がかかれた文書を、大老井伊が最終チェックしていました。
     流れるように文書を読んでいた井伊の目がふと止まります。そうかと思った次の瞬間、何気なく取り上げ動かされた筆の先では、1人の男の刑の名が書き換えられていました。
     長州藩 松陰吉田寅二郎   島流し改め斬首
     芽は小さいうちに摘んでおかねばなるまい。井伊直弼は呟きました。

    ?松陰先生の入っている牢獄は、毎月7のつく日に処刑が決行されます。10/7には橋本佐内や頼三樹三郎が斬首されました。10/17日には誰も処刑されませんでした。しかし、先月は梅田某も斬首されています。次は10/27です。松陰先生はいよいよ自分の死期が近い事を察しました。

    ?10/25になり、遺書として、また自分がうけた取り調べの様子を克明に記すために、生涯最後の執筆『留魂録』の作成に取り掛かりました。1ページ目には、最後の絶句を一種したためることにしました。
     身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも  留め置かまし 大和魂
     <この身はたとえこの武蔵の野辺に死に絶えても、私のこの魂は永遠にこの日本に行き続けるのだ>

    ?10/27朝、呼び出しがあり、そこで斬首との判決が下りました。
     親思う 心にまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん
     <私が両親のことを思う以上に私のことを心配してくれているお父さん、お母さん  今日私が死んだと知ったら何とお思いになるでしょうか>
     もとより覚悟していたことです。心は不思議なくらい平穏でした。松陰先生は、頭を下げて役人たちに言いました。「もとより覚悟のこと。皆さん大変ご苦労様でした、どうぞお元気で」

    ?松陰先生はそのまま、刑場へ連れて行かれます。斬首を見届ける役人や、長州藩の知人が見守る中、ゆっくりと歩を進める松陰は、辞世の句を謳いあげました。
      我いま国のために死す
      死して君親にそむかず
      悠々たりと天地のこと
      鑑賞は明神にあり
    歌は凛とした声で、しかし朗々と2回繰り返されました。それがたった30年を疾風の如く生き抜いた松陰の最後の姿でした。
    10/27朝10時、松陰はまだ30歳というあまりに若く短い人生を終えたのでした。


    しかし彼の辞世の句のとおり、その後も彼の意思は多くの弟子や志士たちに脈々と受け継がれ、遂に日本は開国。近代国家としての歩みを始めます。



    と、こんな感じなのです。

    で、やっと旅行記本編です(_ _;↓

  •  今回の旅は羽田空港が基点。仙台から萩へは直接行けません。祭乃くんとは朝6:45に仙台駅で待ち合わせます。お互い眠いながらもテンションは高め。朝食を買って新幹線に乗り込むと、さすがのGW。朝早いにもかかわらず満席でした。しばらく話をしながら朝食を食べていると・・・ん?これはちょっとマズイかも。どうも貧血を起こしそうです(--; もともと貧血持ちな上に、この日の新幹線は満員の上、なんだか車内も暑かったんです。しかも、前後の席からとってもキツいあぶらっこい朝食の匂いが・・・。うう。。。青ざめていると祭乃くんが「だ、大丈夫?!」と。いや・・・ちょっとダメかもしんない。うー、旅の始まりだというのに。心配して祭乃くんがトイレいったついでに冷たいお茶を買ってきてくれました。ああ、こういう時に気心の知れた友人というのは本当にありがたいです(TT)<br /> 東京駅についてホームに出てみると、どんどん回復。やっぱりあの暑さと匂いにやられたらしいです。いやー、何はともあれ大事に至らなくてよかったねー、と。ここから山手線に乗り換えて浜松町まで行き、またモノレールに乗り換えて羽田空港を目指しました。<br /><br /><br /> 空港は、朝のせいか思っていたよりも全然混んでいませんでした。あの成田なんかで体験したラッシュがウソのようだ・・・。<br /> さっさとチェックインを済ませると、ちょっと時間があったので空港内をブラブラ探検。をを。お土産屋さんのスイーツがうまそうだ!空弁も非常にウマそうだ!!雑貨屋さんなんかも、とっても気に入ったものなんぞを見つけてしまいました。<br /> 帰りに買い物して帰ろう!そして空弁を買おう!!と、山口に行くのになぜか妙に羽田にこだわる我々。

     今回の旅は羽田空港が基点。仙台から萩へは直接行けません。祭乃くんとは朝6:45に仙台駅で待ち合わせます。お互い眠いながらもテンションは高め。朝食を買って新幹線に乗り込むと、さすがのGW。朝早いにもかかわらず満席でした。しばらく話をしながら朝食を食べていると・・・ん?これはちょっとマズイかも。どうも貧血を起こしそうです(--; もともと貧血持ちな上に、この日の新幹線は満員の上、なんだか車内も暑かったんです。しかも、前後の席からとってもキツいあぶらっこい朝食の匂いが・・・。うう。。。青ざめていると祭乃くんが「だ、大丈夫?!」と。いや・・・ちょっとダメかもしんない。うー、旅の始まりだというのに。心配して祭乃くんがトイレいったついでに冷たいお茶を買ってきてくれました。ああ、こういう時に気心の知れた友人というのは本当にありがたいです(TT)
     東京駅についてホームに出てみると、どんどん回復。やっぱりあの暑さと匂いにやられたらしいです。いやー、何はともあれ大事に至らなくてよかったねー、と。ここから山手線に乗り換えて浜松町まで行き、またモノレールに乗り換えて羽田空港を目指しました。


     空港は、朝のせいか思っていたよりも全然混んでいませんでした。あの成田なんかで体験したラッシュがウソのようだ・・・。
     さっさとチェックインを済ませると、ちょっと時間があったので空港内をブラブラ探検。をを。お土産屋さんのスイーツがうまそうだ!空弁も非常にウマそうだ!!雑貨屋さんなんかも、とっても気に入ったものなんぞを見つけてしまいました。
     帰りに買い物して帰ろう!そして空弁を買おう!!と、山口に行くのになぜか妙に羽田にこだわる我々。

  • 妙に早い時間に朝ごはんを食べたのでお腹が空いてしまい、11時に昼ごはん(笑)空港内のイタリアンレストランで明太子パスタなんぞを頼んでみました。お味はまぁまぁオイシイというところでしょうか。っていうか、たぶん自分の体調の方に問題があったのかと。これからの旅行のことを考えると、ちょっと暴食は控えようと腹八分目程度におさえます。<br /><br /> そうこうしているうちにフライトの時間がやってきました。2人してイソイソと搭乗します。滑走路もやはり混んでいるらしく、15分遅れで無事離陸。もちろん満席でした。これから山口宇部空港まで1時間20分の空の旅です。

    妙に早い時間に朝ごはんを食べたのでお腹が空いてしまい、11時に昼ごはん(笑)空港内のイタリアンレストランで明太子パスタなんぞを頼んでみました。お味はまぁまぁオイシイというところでしょうか。っていうか、たぶん自分の体調の方に問題があったのかと。これからの旅行のことを考えると、ちょっと暴食は控えようと腹八分目程度におさえます。

     そうこうしているうちにフライトの時間がやってきました。2人してイソイソと搭乗します。滑走路もやはり混んでいるらしく、15分遅れで無事離陸。もちろん満席でした。これから山口宇部空港まで1時間20分の空の旅です。

  •  機内は当然満席。多少離陸の時間が遅れたものの、あっという間に山口宇部空港に到着です。ああもう、飛行機降りた時からドキドキですよ。遂に!遂に彼岸の山口県に到着です!!飛行場は思ったよりかなり閑散としてます。規模もそんなに大きくない。ここからの新山口駅までのシャトルバスも到着便にあわせた便数しか無く、乗るヒトも少ないです。<br /> 「なんか、全然混んでないんだけど、もしかしてこっちの地方って穴場?」と祭乃くん。いや、ホント、そうだね。っていうか、いっつも旅行って連休とかでしか行けないから、すっごい混んでいるとこしか行ったことないんだよねぇ(--;<br /><br /> 結局着陸の時間が遅れたのでシャトルバスも遅れて出発。ここから新山口駅を目指します。40分程度でしょうか。<br /> ちなみに、山口宇部宇部空港から萩までは、明らかに乗り合いタクシーを前日までに予約しておいて使用した方が時間的にも、かなり賢いです。料金もバス使うのとほとんど変わりないし。<br /> というのは、我々が乗り合いタクシーの存在に気がついたのは出発前日の夜遅く。こんなところでプラン立てる詰めが甘かったとは・・・・・(--;<br /><br /><br /> 天気は爽やかな晴れ。<br />気分もウキウキで新山口駅に到着しました。<br />・・・てか、ウキウキし過ぎて、軽く下車する場所間違えました、2人で(汗)バカだなぁ。。。<br /> 駅の表で降りないといけないのを、裏手までぐるっと回った終点で降りてしまいました。<br /> こちらも全然人影はなし。<br /> こんなにゆったりとした時間が流れてていいのかーー!GWだそ?!と思わずツッコミを入れたくなったりして。<br /> とりあえず駅員さんにバス乗り場を聞いてみると、表で出発したバスがこちらにも寄ってくれるから、この裏の方で待ってても大丈夫だというコト。とっても感じのイイ駅員さんでした。<br /><br /> 少々時間があるので、近くのコンビニに行ってみたり、オバさんと一緒に散歩してたコーギー2匹にちょっかい出してみたり(笑)<br /> このオバさんもとっても感じのイイ方!<br />さっきの駅員さんといい、今回の旅は幸先がいいです(*_ _*)<br /><br /> <br /> しばし待っていると、シャトルバスがやってきたので乗り込みます。乗車率35〜40%と言うところでしょうか。。。<br /> これから約1時間40分、萩までのバスの旅です。<br /> ああ、それにしても今回は乗り物が多いなぁ。<br /><br /><br /><br />(写真は新山口駅)

     機内は当然満席。多少離陸の時間が遅れたものの、あっという間に山口宇部空港に到着です。ああもう、飛行機降りた時からドキドキですよ。遂に!遂に彼岸の山口県に到着です!!飛行場は思ったよりかなり閑散としてます。規模もそんなに大きくない。ここからの新山口駅までのシャトルバスも到着便にあわせた便数しか無く、乗るヒトも少ないです。
     「なんか、全然混んでないんだけど、もしかしてこっちの地方って穴場?」と祭乃くん。いや、ホント、そうだね。っていうか、いっつも旅行って連休とかでしか行けないから、すっごい混んでいるとこしか行ったことないんだよねぇ(--;

     結局着陸の時間が遅れたのでシャトルバスも遅れて出発。ここから新山口駅を目指します。40分程度でしょうか。
     ちなみに、山口宇部宇部空港から萩までは、明らかに乗り合いタクシーを前日までに予約しておいて使用した方が時間的にも、かなり賢いです。料金もバス使うのとほとんど変わりないし。
     というのは、我々が乗り合いタクシーの存在に気がついたのは出発前日の夜遅く。こんなところでプラン立てる詰めが甘かったとは・・・・・(--;


     天気は爽やかな晴れ。
    気分もウキウキで新山口駅に到着しました。
    ・・・てか、ウキウキし過ぎて、軽く下車する場所間違えました、2人で(汗)バカだなぁ。。。
     駅の表で降りないといけないのを、裏手までぐるっと回った終点で降りてしまいました。
     こちらも全然人影はなし。
     こんなにゆったりとした時間が流れてていいのかーー!GWだそ?!と思わずツッコミを入れたくなったりして。
     とりあえず駅員さんにバス乗り場を聞いてみると、表で出発したバスがこちらにも寄ってくれるから、この裏の方で待ってても大丈夫だというコト。とっても感じのイイ駅員さんでした。

     少々時間があるので、近くのコンビニに行ってみたり、オバさんと一緒に散歩してたコーギー2匹にちょっかい出してみたり(笑)
     このオバさんもとっても感じのイイ方!
    さっきの駅員さんといい、今回の旅は幸先がいいです(*_ _*)


     しばし待っていると、シャトルバスがやってきたので乗り込みます。乗車率35〜40%と言うところでしょうか。。。
     これから約1時間40分、萩までのバスの旅です。
     ああ、それにしても今回は乗り物が多いなぁ。



    (写真は新山口駅)

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