1999/02 - 1999/03
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worldspanさん
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旧ソ連を旅する中でロシア人に圧倒的人気のある美しい街といえば、古き良き東スラブ社会の伝統の香りを残す、ロシア発祥の原点でもあるキエフ、そして帝政ロシアの哀愁の残る、近代列強に名を連ねる原点なった王都サンクト・ペテルブルク、そこにモスクワの名前が含まれた記憶がない。サンクト・ペテルブルクはそれほどロシア人に愛されて止まない美しい街だ。
タタールのくびきを打破した東スラブ社会はモスクワを中心に発展するが、1703年にピョートル大帝によりサンクト・ペテルブルクが造営・遷都される。 19世紀まで農奴制を敷いていた帝政ロシアはレナ川河畔の湿地帯に新都を造営する為に多くの農奴を投入し、その犠牲は計り知れない。6万人もの犠牲者を出しながらサンクトペテルブルクは西欧と双肩できる、近代の象徴の王都として相応しい華麗な街として誕生した。西欧式の碁盤の目をした都市構造、そしてモスクワのワシリー寺院のような玉ねぎ形の建築物も少ない。
その後ピョートルはスラブ伝統の服装やロシア正教会では一般的な長いあごひげも禁じた。そして有力な貴族はモスクワからサンクトへの移住を強いた。ピョートルはサンクト・ペテルブルクへの遷都はロシアの伝統との決別でもあった。その後サンクトはロマノフ王朝の宮廷文化が華やぎ、ドストエフスキーやトルストイ、ツルゲーネフと言った文豪を輩出し、そしてチャイコフスキー、ロシア五人組作曲家として知られるリムスキー・コルサコフやムソルグスキーと言う大作曲家を生み、ロシアバレエが花開く。そしてサンクト・ペテルブルクはロシア最高の芸術都市として成長を遂げた。
帝政ロシアが革命により打破され、都は再びモスクワに戻り、サンクト・ペテルブルクの政治的な重要性は失ったが、文化の中心としてのロシアでの存在感は余りあるもので、多くの芸術家を輩出したこの美しい「北のヴェネツィア」は今もなお輝きを放っている。
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー ヒッチハイク
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
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サンクトのモスクワ駅。ロシア主要都市ではその地の地名を駅名にするのではなく、そこから彼の地に向かう列車が出発する駅をその都市の名前を取って駅名にしています。例えばサンクトでは、モスクワ駅のほかにワルシャワ駅などもあります。
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1717年にピョートル大帝によって作られた庭園。庭園では老人や、乳母車を引いた女性が散歩をしています。天気が良いですが、気温はマイナス8度です。こんな寒い時に良く散歩しますよね。
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サンクトの母なる川、ネヴァ川。
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サンクトに張り巡らされた運河。凍った運河の上を歩いて渡っている人もいました。
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1240年には修道院が存在したと言われていますアレクサンドル・ネフスキー寺院。サンクトが帝政ロシア時代の都だった事もあり、帝政時代の多くの著名人が眠っています。
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チャイコフスキーの墓。芸術家らしいお墓です。
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大作家、ドストエフスキーの墓
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誰の墓かわかりませんが、雪の上の寝ています。
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アレクサンドル・ネフスキー寺院
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アレクサンドル・ネフスキー寺院。豪華な棺
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宮殿広場
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正面に見えるのが、旧参謀本部と凱旋アーチ。宮殿広場の円柱は1812年にナポレオンへの勝利を記念して建設されました。
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かつては皇帝の住まいだった宮殿がエルミタージュ美術館に
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ゆっくりみて回ると数年かかると言われている規模の美術館です。
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皇室の馬車
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