1963/04 - 1963/04
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ソフィさん
終戦をはさんだ金沢一中時代は、社会の大変動を経験しながら、私自身も思春期の入り口にあり、花も嵐も踏み越えて、変化に富む時代だった。
昭和18年から22年まで、私の12歳から16歳までの四年間だが、思い出せば、胸が疼く懐かしい出来事が、いくつも重なっている。
1943年(昭和18年)12歳
材木町小学校の上野先生に勧められ、難関を突破して入学した金沢一中は、県内の各小学校から、選り抜きの子供が集まっている。
戦後の日本にはなくなったエリート養成学校で、「群鶏の一鶴たれ」と教育された。
世の中に対して、リーダーシップを発揮できる、人格と自覚を養えということだろう。
そのためには、自分に責任を持ち、右顧左眄(うこさべん=辺りを気にして迷うこと)をしてはならない。
私は先ずピカピカの校舎に圧倒され、周囲の俊秀たちに気おされる。
英語、教練、武道などと、小学生時代にはまったく経験しなかった新しい教科が、目白押しだ。
初めての巻脚半(まききゃはん=ゲートル)に地下足袋を履いて、これまた不慣れな遠くまでの市電通学の毎日は、今から思えばすごいストレスだったろう。
服装は教練の授業を前提にしたもので、戦闘帽を制帽にし、短靴や長靴は許されなかった。
教練は匍匐(ほふく)訓練などきつい部分もあったが、概して楽しい思い出が残る。
最初は、ゲートルをいかに早く巻くかの競争だった。
敵に襲われたときには、一刻の遅れも許されないからだろう。
ここで大失敗。
号令をかけるとき「軍人勅諭五箇条」を「五箇条のご誓文」と言い間違い、先生は叱るべきなのに、おかしさを我慢できなくて腹を抱えて笑われる。
このときの光景は、今思い出しても、恥ずかしく、可笑しい。
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