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 翌日、式も終わり、大きなイベントも一段落しホッとした。後は知っている観光名所をゆっくりと見るだけだ、と。のんびりホテルを出、デアーク広場まで地下鉄1号線で出た後、イシュトバーン大聖堂へ歩いた。イシュトバーン大聖堂はブダペストでもっとも大きな教会で、西暦1000年に初代国王となったイシュトバーンの為に作られた聖堂で、イシュトバーンの右手が納められ一般公開されている。コインを入れるとライトが点灯し、見える仕組みになっていたが、実にアバウト、係員にハンガリー語で話しかけると「ハンガリー語を勉強するなんて実に素晴らしい」と、無料で見ることができた。その適当さが旧東欧らしく、私は好きだ。<br /><br /> イシュトバーン大聖堂にから自由広場を通り抜け、国会議事堂へ足を運んだ。議事堂は議会等公務が特になければ内部ツアーに参加すれば見学可能だ。ツアーはドイツ語、英語、フランス語等があり、日本語も週に二回行われている。今回参加は四回目だが、何度行っても面白い。本当にこれだけ集める財力があったのかと疑問を投げたくなるほど金箔を張り巡らせ、宮殿を思わせる絢爛さ。議事堂はオーストリア・ハンガリーの二重帝国時代、ブダペストがもう二つの首都のうちの一つとして機能していた時に建設された。ハンガリー政府は、長年オーストリアの圧制への抵抗の末に二重帝国を成立させ、オーストリアと同等の権利を得た歴史的背景がある。それ故ウィーンよりも立派な議事堂を建設するオーストリアへの意地と誇りで、現在でも世界で3番目に大きな議事堂が完成した。<br /><br /> 圧巻なのは議会堂だ。ハンガリーは一院制なので議会場は一つしかない。当時ハンガリーは現オーストリアの一部、スロバキア、ルーマニアのトランシルバニアやマラムレシュ、ウクライナのガリツィア、セルビアのヴォイヴォディナ、旧クロアチア王国領(ハンガリー王がクロアチア王国の王を兼任していた)という、現在とは比較にならない程広大な領土を保有した大国でもあったので、これだけ大きな議事堂であっても頷ける。<br /><br /> しかし悲しいかな、第一次世界対戦でハンガリーは敗戦した。1919年共産主義政権が成立し、警戒する戦勝国から更なる重荷を課した-トリアノン条約だ。これによりトランシルバニア等、国土の3分の2を失い、国外に多くのハンガリー人を残してしまい、第二次世界大戦でナチス側に組する一員となり、再び敗戦を味わう。議会場にはその当時のクロアチアの地方の紋章やスロバキアの紋章などが未だに飾られているのが悲しい歴史を浮かび上がらせる。こうしたハンガリーの敗戦の歴史を物語る自虐話がハンガリーには一つある。<br /><br />「ハンガリーはオスマントルコとモハーチの戦いで大敗して以後、数百年間一度も戦に勝っていないのはおろか、ハンガリーが見方をすると必ず敗戦してしまう。」<br /><br /> 国会議事堂の周辺には、近代ハンガリー史にとり、重要なモニュメントが3つある。一つが扇の形をした小橋から国会議事堂を見つめる眼鏡をかけた老人の銅像、そしてハンガリー国旗の真ん中をくりぬいた国旗、そして指を指したひげを蓄えた男性の銅像。小橋の上で静かに佇む老人はナジ・イムレ、もう一人はマジャール人を従え意気揚々としている男性はコシュート・ラヨシュだ。ナジとコシュートはハンガリー史で活躍した時代は約90年違うが非常似た運命を辿り、次の世代も同様の運命を辿る。<br /><br /> ナジは1956年ハンガリー動乱時の首相で、ワルシャワ条約機構の脱退、永世中立国を宣言した。これにソ連軍が武力介入し、ナジ首相は処刑された。その後を受けたカーダール・ヤーノシュはソ連の傀儡政権と元首として国民から冷たい視線を浴びた。<br /> 一方コシュートは1848年にオーストリア政権に対しハンガリーの独立戦争を指導し、ヨレヨレのオーストリア軍を圧すも、ロシア軍の援軍に敗れ去り、コシュートはトルコに亡命し、代わってオーストリア皇帝はデアーク・フェレンツを立てた。<br /><br /> ナジとコシュートは当時のマジャール民族の熱烈な支持を受け、圧倒的な人気を持ち、圧倒的な権力に立ち向かい、そして敗れ去った。それも何れもロシアに。しかしこの次を受け、マジャール人から支持を受けぬまま、傀儡ながらもカーダールとデアークはバランス感覚に長け、ソ連・オーストリアに夫々忠誠を誓いながら信頼を得、ハンガリーに一定の自由を勝ち取りその後のハンガリーを立て直した。因みにカーダール政権はハンガリー共産政権内部から民主運動が起こりカーダールは引退、そしてハンガリーは民主主義となり、国旗から共産主義の徴でもあった鎌と小麦、そして星が抜き取られた。真ん中を貫いたその国旗は民主主義の象徴でもある。<br /><br /> 議事堂を後にした我々はドナウ川に沿い下って鎖橋を歩いて渡り、王宮の丘へと行った。王宮は残念ながら戦災を受け、戦後再建されたものだ。ワルシャワの宮殿のように以前の通りに内装も修復したわけでもなく、形だけの王宮である。王宮は美術館と図書館で構成され、図書館は旅行者でも入口でカードを作れば入場できる。王宮は中の見学よりも王宮の丘から見るペシュトの眺めの方が感動的だ。山が一つもなく町が平たく広がっている。殆ど高層建築がないので景色に均一が取られ美しい。特に夜景ともなれば最高だ。川上にライトアップされた鎖橋がかかり、川面に映る。それはまるで鎖橋に飾られた真珠が輝いているようだ。ブダペストが「ドナウのバラ」とも「ドナウの真珠」とも形容される理由を直ぐに悟る事ができる。眺めていると溜め息が出る程だ。この美しい夜景を見るために多くの観光客が夜でも多い。もちろん家族にもこの夜景を見せた。ブダペスト最後を飾るには最高のスポットだ。ブダペストの夜景は、王宮からの眺めとペストの川辺で鎖橋のよりやや川上側望む夜景が美しい。後者はドナウに架かる鎖橋と王宮を同時に望む贅沢なスポットでもある。ブダペストに訪れて王宮からとビガドーのやや川上から夜景を見ずしてブダペストを去るなかれ。<br /><br /><br />(次編はイタリアへ)<br />

議事堂前の二人の男 (家族9人で新婚旅行~マーチャーシュ教会挙式 その9)

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2005/10/04 - 2005/10/15

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worldspan

worldspanさん

 翌日、式も終わり、大きなイベントも一段落しホッとした。後は知っている観光名所をゆっくりと見るだけだ、と。のんびりホテルを出、デアーク広場まで地下鉄1号線で出た後、イシュトバーン大聖堂へ歩いた。イシュトバーン大聖堂はブダペストでもっとも大きな教会で、西暦1000年に初代国王となったイシュトバーンの為に作られた聖堂で、イシュトバーンの右手が納められ一般公開されている。コインを入れるとライトが点灯し、見える仕組みになっていたが、実にアバウト、係員にハンガリー語で話しかけると「ハンガリー語を勉強するなんて実に素晴らしい」と、無料で見ることができた。その適当さが旧東欧らしく、私は好きだ。

 イシュトバーン大聖堂にから自由広場を通り抜け、国会議事堂へ足を運んだ。議事堂は議会等公務が特になければ内部ツアーに参加すれば見学可能だ。ツアーはドイツ語、英語、フランス語等があり、日本語も週に二回行われている。今回参加は四回目だが、何度行っても面白い。本当にこれだけ集める財力があったのかと疑問を投げたくなるほど金箔を張り巡らせ、宮殿を思わせる絢爛さ。議事堂はオーストリア・ハンガリーの二重帝国時代、ブダペストがもう二つの首都のうちの一つとして機能していた時に建設された。ハンガリー政府は、長年オーストリアの圧制への抵抗の末に二重帝国を成立させ、オーストリアと同等の権利を得た歴史的背景がある。それ故ウィーンよりも立派な議事堂を建設するオーストリアへの意地と誇りで、現在でも世界で3番目に大きな議事堂が完成した。

 圧巻なのは議会堂だ。ハンガリーは一院制なので議会場は一つしかない。当時ハンガリーは現オーストリアの一部、スロバキア、ルーマニアのトランシルバニアやマラムレシュ、ウクライナのガリツィア、セルビアのヴォイヴォディナ、旧クロアチア王国領(ハンガリー王がクロアチア王国の王を兼任していた)という、現在とは比較にならない程広大な領土を保有した大国でもあったので、これだけ大きな議事堂であっても頷ける。

 しかし悲しいかな、第一次世界対戦でハンガリーは敗戦した。1919年共産主義政権が成立し、警戒する戦勝国から更なる重荷を課した-トリアノン条約だ。これによりトランシルバニア等、国土の3分の2を失い、国外に多くのハンガリー人を残してしまい、第二次世界大戦でナチス側に組する一員となり、再び敗戦を味わう。議会場にはその当時のクロアチアの地方の紋章やスロバキアの紋章などが未だに飾られているのが悲しい歴史を浮かび上がらせる。こうしたハンガリーの敗戦の歴史を物語る自虐話がハンガリーには一つある。

「ハンガリーはオスマントルコとモハーチの戦いで大敗して以後、数百年間一度も戦に勝っていないのはおろか、ハンガリーが見方をすると必ず敗戦してしまう。」

 国会議事堂の周辺には、近代ハンガリー史にとり、重要なモニュメントが3つある。一つが扇の形をした小橋から国会議事堂を見つめる眼鏡をかけた老人の銅像、そしてハンガリー国旗の真ん中をくりぬいた国旗、そして指を指したひげを蓄えた男性の銅像。小橋の上で静かに佇む老人はナジ・イムレ、もう一人はマジャール人を従え意気揚々としている男性はコシュート・ラヨシュだ。ナジとコシュートはハンガリー史で活躍した時代は約90年違うが非常似た運命を辿り、次の世代も同様の運命を辿る。

 ナジは1956年ハンガリー動乱時の首相で、ワルシャワ条約機構の脱退、永世中立国を宣言した。これにソ連軍が武力介入し、ナジ首相は処刑された。その後を受けたカーダール・ヤーノシュはソ連の傀儡政権と元首として国民から冷たい視線を浴びた。
 一方コシュートは1848年にオーストリア政権に対しハンガリーの独立戦争を指導し、ヨレヨレのオーストリア軍を圧すも、ロシア軍の援軍に敗れ去り、コシュートはトルコに亡命し、代わってオーストリア皇帝はデアーク・フェレンツを立てた。

 ナジとコシュートは当時のマジャール民族の熱烈な支持を受け、圧倒的な人気を持ち、圧倒的な権力に立ち向かい、そして敗れ去った。それも何れもロシアに。しかしこの次を受け、マジャール人から支持を受けぬまま、傀儡ながらもカーダールとデアークはバランス感覚に長け、ソ連・オーストリアに夫々忠誠を誓いながら信頼を得、ハンガリーに一定の自由を勝ち取りその後のハンガリーを立て直した。因みにカーダール政権はハンガリー共産政権内部から民主運動が起こりカーダールは引退、そしてハンガリーは民主主義となり、国旗から共産主義の徴でもあった鎌と小麦、そして星が抜き取られた。真ん中を貫いたその国旗は民主主義の象徴でもある。

 議事堂を後にした我々はドナウ川に沿い下って鎖橋を歩いて渡り、王宮の丘へと行った。王宮は残念ながら戦災を受け、戦後再建されたものだ。ワルシャワの宮殿のように以前の通りに内装も修復したわけでもなく、形だけの王宮である。王宮は美術館と図書館で構成され、図書館は旅行者でも入口でカードを作れば入場できる。王宮は中の見学よりも王宮の丘から見るペシュトの眺めの方が感動的だ。山が一つもなく町が平たく広がっている。殆ど高層建築がないので景色に均一が取られ美しい。特に夜景ともなれば最高だ。川上にライトアップされた鎖橋がかかり、川面に映る。それはまるで鎖橋に飾られた真珠が輝いているようだ。ブダペストが「ドナウのバラ」とも「ドナウの真珠」とも形容される理由を直ぐに悟る事ができる。眺めていると溜め息が出る程だ。この美しい夜景を見るために多くの観光客が夜でも多い。もちろん家族にもこの夜景を見せた。ブダペスト最後を飾るには最高のスポットだ。ブダペストの夜景は、王宮からの眺めとペストの川辺で鎖橋のよりやや川上側望む夜景が美しい。後者はドナウに架かる鎖橋と王宮を同時に望む贅沢なスポットでもある。ブダペストに訪れて王宮からとビガドーのやや川上から夜景を見ずしてブダペストを去るなかれ。


(次編はイタリアへ)

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交通手段
鉄道 高速・路線バス
航空会社
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  • ブダペストで一番大きな聖堂、イシュトバーン大聖堂

    ブダペストで一番大きな聖堂、イシュトバーン大聖堂

  • イシュトバーン大聖堂に掲げられたイシュトバーン。イシュトバーンは息子を亡くし、王冠を誰に与えれば良いのか聖母マリアに苦悩を打ちあけています。

    イシュトバーン大聖堂に掲げられたイシュトバーン。イシュトバーンは息子を亡くし、王冠を誰に与えれば良いのか聖母マリアに苦悩を打ちあけています。

  • 議事堂の議会場

    議事堂の議会場

  • 一人国会議事堂を見つめるナジ首相

    一人国会議事堂を見つめるナジ首相

  • この紋章は大ハンガリー王国を表しています。

    この紋章は大ハンガリー王国を表しています。

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