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 織田信長が宮中の舟遊びをまねて楽しんだと云われる近江八幡市の水郷巡りを楽しんだ。<br /><br /> 食事も船の中で・・・雨模様の曇天で景色はいまひとつだったがカイツブリが楽しそうにしていた。<br /><br /> 琵琶湖から信長の安土城跡を眺めたがあいにくの天候で写真は撮れなかった。<br /><br /> 写真は船中で食べたお弁当です。柿の葉寿しがあっさりした味で美味しかったです。<br /><br />  舟遊びで食事の後は関白秀次の近江八幡山城の城跡までロープウェイで上る。<br /><br /> 八幡山城本丸跡には現在、村雲御所瑞龍寺がある。<br /><br /> 日蓮宗唯一の門跡寺院。秀次の菩提を弔うため、彼の生母が創建したもの。<br /><br /> 昭和37年に京都の村雲からこの地に移された。 <br /><br /> なんと天下人の後継者であった秀次の母とも(秀吉の姉)が息子の切腹、孫たちの処刑後も生きてその菩提を弔っていたとは知りませんでした。<br /><br /> 近江八幡山城在城わずか5年ながら・・・今も近江八幡の人々から慕われている秀次。<br /><br /> 母の気持ちを想うと哀しいですね。<br /><br /> 天候が悪く、山頂からの大パノラマ・・・琵琶湖を望む雄大な景色は霧のなかでしたが紅葉が素晴らしく綺麗でした。<br /><br /><br />

信長も楽しんだ琵琶湖の舟遊びと関白秀次ゆかりの近江八幡山城登城                        

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2006/11/27 - 2006/11/27

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吉備津彦

吉備津彦さん

織田信長が宮中の舟遊びをまねて楽しんだと云われる近江八幡市の水郷巡りを楽しんだ。

 食事も船の中で・・・雨模様の曇天で景色はいまひとつだったがカイツブリが楽しそうにしていた。

 琵琶湖から信長の安土城跡を眺めたがあいにくの天候で写真は撮れなかった。

 写真は船中で食べたお弁当です。柿の葉寿しがあっさりした味で美味しかったです。

 舟遊びで食事の後は関白秀次の近江八幡山城の城跡までロープウェイで上る。

 八幡山城本丸跡には現在、村雲御所瑞龍寺がある。

 日蓮宗唯一の門跡寺院。秀次の菩提を弔うため、彼の生母が創建したもの。

 昭和37年に京都の村雲からこの地に移された。

 なんと天下人の後継者であった秀次の母とも(秀吉の姉)が息子の切腹、孫たちの処刑後も生きてその菩提を弔っていたとは知りませんでした。

 近江八幡山城在城わずか5年ながら・・・今も近江八幡の人々から慕われている秀次。

 母の気持ちを想うと哀しいですね。

 天候が悪く、山頂からの大パノラマ・・・琵琶湖を望む雄大な景色は霧のなかでしたが紅葉が素晴らしく綺麗でした。


旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  •   船中で食べたお弁当です。<br /><br /> 柿の葉寿しが美味しかったです。

    船中で食べたお弁当です。

     柿の葉寿しが美味しかったです。

    水郷めぐり(近江八幡和船観光協同組合) 乗り物

  • 八幡山城石垣

    八幡山城石垣

    八幡山城跡 自然・景勝地

  • 物凄い霧で覆われていました。

    物凄い霧で覆われていました。

    八幡山城跡 自然・景勝地

  • 秀吉の姉とも(瑞竜院日秀)百姓の吉房と夫婦になって秀次、秀勝、秀俊を生んだ。弟の秀吉が日本で一番の武士になるとは信じられないことだった。家族思いの秀吉が長男の秀次を阿波の名族、三好康長の養子となり自分達も三好姓を名乗った。秀次は秀吉の甥っ子として、全国を転戦、それなりの武功を挙げている。鶴松夭逝後は秀吉から後継者に指名され関白と聚楽第を譲られる。秀頼誕生後は濡れ衣を着せられ謀反の罪ありとして糾弾された。秀吉は淀殿に秀頼ができ、後継者と決めていた秀次が邪魔になったのだ。秀頼誕生で28歳の秀次は高野山で死を命じられ、妻妾と子供5人を合わせ、30数人は3条川原で惨殺された。<br /><br />次男の秀勝は17歳で丹波亀山城のの城主になり、お市の方の3女、お江与を妻に迎える。秀勝はその城では知行不足だと言い出した。秀吉はすぐに甲斐と信濃の2国を与える。「そんな遠くだったら可愛い息子にあえなくなって寂しい」という姉の気持ちはわかると岐阜城に変えた。秀勝は秀吉の朝鮮出兵に将として海を渡るが病死。<br /><br />三男の秀俊が領地を流れる十津川で溺れ死ね。まだ17歳だった。暴虐な秀俊に前途を憂いた近臣が、秀俊を抱きかかえ、断崖から飛び降りたという。<br /> <br />ともは3人の菩提を弔うために日秀と号し、京都東山に善正寺を建立した。<br /> <br />秀次の死後なお30年を生き、92歳で逝去。<br /> <br />秀吉の死、関が原の西軍敗戦、大阪夏の陣の秀頼の死をどう見つめたのでしょうか?<br /> <br />切ないですね。

    イチオシ

    秀吉の姉とも(瑞竜院日秀)百姓の吉房と夫婦になって秀次、秀勝、秀俊を生んだ。弟の秀吉が日本で一番の武士になるとは信じられないことだった。家族思いの秀吉が長男の秀次を阿波の名族、三好康長の養子となり自分達も三好姓を名乗った。秀次は秀吉の甥っ子として、全国を転戦、それなりの武功を挙げている。鶴松夭逝後は秀吉から後継者に指名され関白と聚楽第を譲られる。秀頼誕生後は濡れ衣を着せられ謀反の罪ありとして糾弾された。秀吉は淀殿に秀頼ができ、後継者と決めていた秀次が邪魔になったのだ。秀頼誕生で28歳の秀次は高野山で死を命じられ、妻妾と子供5人を合わせ、30数人は3条川原で惨殺された。

    次男の秀勝は17歳で丹波亀山城のの城主になり、お市の方の3女、お江与を妻に迎える。秀勝はその城では知行不足だと言い出した。秀吉はすぐに甲斐と信濃の2国を与える。「そんな遠くだったら可愛い息子にあえなくなって寂しい」という姉の気持ちはわかると岐阜城に変えた。秀勝は秀吉の朝鮮出兵に将として海を渡るが病死。

    三男の秀俊が領地を流れる十津川で溺れ死ね。まだ17歳だった。暴虐な秀俊に前途を憂いた近臣が、秀俊を抱きかかえ、断崖から飛び降りたという。

    ともは3人の菩提を弔うために日秀と号し、京都東山に善正寺を建立した。

    秀次の死後なお30年を生き、92歳で逝去。

    秀吉の死、関が原の西軍敗戦、大阪夏の陣の秀頼の死をどう見つめたのでしょうか?

    切ないですね。

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