2005/01/21 - 2005/01/24
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akkiy363672さん
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九州の大分県には、美味しいふぐを食べさせる店があるという話を、ものの本で読んだ。
ふぐこそは、古今の食通が命を賭けて追い求めたまぼろしの食材である。
これを食べずして、食は語れない…と思っていたところ、福岡の友人から「中でも臼杵のふぐは、一味もふた味も違う」という情報が入った。
さて、臼杵のフグの味は…?
顛末を、http://www.ztv.ne.jp/kyoiku/monomiyusan/76kyusyu1.htm にも記しています。よろしければ、のぞいてみてください。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 自家用車
-
21日(金)、午後9時、津を出発しました。
明石大橋を渡って四国へ入り、午前2時30分、高松ICを降りて、24時間営業の健康ランドで休憩・仮眠…。
6時30分 起床。ふたたび松山自動車道に乗って、一路 四国の西端を目指す。
← 高松・松山自動車道は、早朝のせいもあってか車の量は少なく走りやすい。
途中のSAで朝食を摂り、9時30分 八幡浜港へ着いた。 -
八幡浜は佐多岬半島の付け根にあって、豊後水道に面した宇和海の奥の港町です。
ここから、臼杵行きのフェリーが出ています。
フェリーの時間まで間があったので、近くの岬へ出向いてみました。
宇和海に突き出た高台の左右に穏やかな海が広がり、養殖いかだが点在しています。 -
はるか彼方に豊後水道、晴れた日にはその向こうに九州の山々が望まれるとか。
岬を往復する道の両側は、一面のみかん畑でした。 -
こんな四国の端っこから、毎時間出航して客があるのかと思っていたのですが章くんたちが乗ったフェリーは7割がたの埋まり方でした。
愛媛から、陸路を大分へ行くには、西瀬戸自動車道(しまなみ街道)を渡って、広島〜北九州を回っていくルートですから、フェリーで渡る距離のざっと10倍ほどはあります。
四国と九州を行き交う人は、みんなフェリーを使うのですね。 -
八幡浜港を11時45分発の宇和島運輸フェリー「おおいた丸」に乗り込みました。
豊後水道は穏やかで、操業中でしょうか、何隻かの漁船に出会いました。
やがて、九州の山々が眼前に迫り、2時間15分の船旅で午後2時丁度に臼杵港に着きました。
ふぐ屋さんの予約は午後6時。4時間ほど時間があったので、早速「臼杵の石仏」見物へと出かけました。 -
臼杵港から石仏遺跡までは、30分ほど…。
駐車場へ車を置いて。5分ほど山道を歩きます。 -
やがてお社が見えてきました。
石仏様たちは、今は全て屋根つきのお社が建てられていて、その中でお過ごしです。 -
いつ、誰が、なぜ…造ったのか、そのほとんどが謎のままだそうです。
その様式から平安末期から鎌倉期の製作とされていますが、だとすれば御仏たちは1200年余の歳月を岩陰にひっそりと佇んでこられたわけですね。 -
臼杵磨崖仏は、入り口から順にホキ石仏第1群・ホキ石仏第2群・山王山石仏・古園石仏の四つのグループから成っています。
修復成った59体の磨崖仏は、1995年6月15日、石仏としては我が国ではじめて「国宝」の指定を受けました。 -
いつ、誰が彫ったのかも定かでない石仏たちの、長い年月の風雨にさらされて崩れ落ちた風体が、くぐり抜けてこられた時代の厳しさと、人々の信仰の哀れさを表しているようでありました。
しかし、今、昭和の大修理を経て見事によみがえった石仏たちは、千年k変わらぬ祈りを続けておられます。 -
古園石仏群の背面、山王社のある丘陵の中腹の斜面に、山王社石仏群をお祭りするお社がありました。
-
地元では、その奥まった位置にひっそりと居られる御仏であることから<「かくれ地蔵」と呼んでいます。
この石仏は、古園石仏とは異なった技法で作成され、表面には荒いノミ痕が残りますが、ポッチャリとした童顔には独特の美しさがあります。 -
← 古園石仏を安置するお堂
昭和の大修理の中で最も注目を集めたのは、奥まった山間の崖に彫られた古園石仏群のひとつ、大日如来像でありました。
発見以来、その仏頭は地上に転げる形で安置されており、修理に際して、仏頭を元の位置に戻すかどうか、市民を巻き込んだ4年間の論議ののち修復が決定し、大日如来の仏頭復位が行われたのです。 -
古園石仏群の天蓋の中、胴体を復元して、土の上に転がっていた頭部を据え直した大日如来像は、臼杵磨崖仏のシンボルとして、左右にたくさんの如来・菩薩・天部・明王を配して微笑んでおられました。
-
今日はそれらの仏の前で、4組の夫婦が金婚・銀婚の得度を受けていました。
般若経の唱詠のあと、分厚い経典で体を叩き祝賀を与える僧侶の仕草に、恭しく拝礼する老夫婦の慎ましやかさに、心温まるものを覚えました。
50・25年の夫婦随唱への感謝とこれからの安穏を祈る人々の営みを、千年を生き抜いてきた仏たちが温かく見つめていました。 -
← 臼杵城址
臼杵は、平安〜鎌倉・室町の頃、国司であった大友氏が治めていた地で、臼杵城は、戦国時代、九州六カ国を治めたキリシタン大名・大友宗麟が築いた城です。
大友氏の後、数代を経て、慶長5年(1600年)稲葉貞通が美濃から入封、明治維新の廃藩置県を迎えるまでの270年あまり、臼杵藩稲葉氏五万石の統治下に時を重ねてきました。
現在の臼杵の町の大部分は、この稲葉氏の時代に形成されたもので、城下町特有の曲がりくねった迷路のような町並みは、今も臼杵に保存されています。 -
← 臼杵藩稲葉家屋敷の外堀に泳ぐ錦鯉
この稲葉家屋敷は、廃藩置県後に東京に居を移した旧藩主の里帰りのための住宅として、明治35年につくられたものだそうです。
内部を見物することができ、杉や檜といった上質の素材を使用した、式台のある玄関や書院作りの奥座敷、謁見の間である、表座敷など、格式あるつくりで造作されていました。
戦に使われた武具や、昔のお姫様が乗った豪華な駕籠など、稲葉家五万石の品々も展示しています。
部屋ごとに違った趣きを演出する、広々とした日本庭園も魅力的でした。 -
町中には城跡を中心に、今もたくさんの武家屋敷や古刹、そして明治・大正期の古い大きな邸宅跡が残っていますが、史跡の多くは表札も外されていて、住む人の気配もありません。
町並みの保存は、住む人の利便性とは相容れない部分があるのでしょうか。 -
この町を歩いていると、時の流れに取り残され、どこかで時間が止まってしまったような感覚にとらわれる思いでした。
-
程なく、午後6時です。
臼杵の町で、予約を入れておいたふぐ屋さんを探しました。
町中は、軒並みふぐ屋さんです。 -
水槽には、5〜60cmほどもあろうかという立派なとらふぐが泳いでいます。
まず一品目…。運ばれてきた2枚の大皿のてっさ…。紅葉オロシを溶かしたタレに、てっさの3〜4切れをたっぷりと浸して食べます。独特のタレのまろやかな味が、臼杵てっさのざっくりとした食感(臼杵のてっさは、他所の1.5倍ほどの厚さ)と相俟って、一切れを口に含んだとき、みんなはムムッ…と絶句してしまいました。
しばしあって、「うわさにたがわぬ 絶品」、「他所のふぐ屋で食べるふぐとは、似て否なるものや」、「これ食べたら、まぁ死んでもしょうがないなぁ」と、ため息とともに納得の弁でありました。
「臼杵ふぐ」は てっさの厚みとモッチリ感で 他の各地のふぐとは一線を画していて、その食感は充実の一語です。これで十分なはずでしたが、さらに4人前を2人前の厚切りにしつらえてもらって追加し、てっさだけで満腹になってしまいました。 -
ところが、次に出てきた焼き白子がお宝…。その大きさも12〜3cmはあろうという一品です。
スプーンでカリッと焼きあがった端っこの皮を突き破り、中のプルプルの身を口へ運びます。
どこかに潮の香りの残る、ふくよかなしょっぱい甘さが、口の中に広がりました。
ふぐの持つふくよかさを引き立てる天麩羅…。冷たさが嬉しいニコゴリ…。てっちりまでに お腹がいっぱいになってしまって、鍋に火を入れる前に、ちょっと休憩を取らねばなりませんでした。
さて てっちり…。まずはパクパクと動いていた口からかぶりつき、ゼラチンたっぷりの頭をせせります。
更に、店の「サービスです」と出してもらった白子の4腹をシャブシャブと温めてペロリ…。野菜も、豆腐も、特タレで美味しくいただき、雑炊の頃にはものも言えない大満腹でありました!
この至福の時間の中でも、ヒレ酒を7杯も飲んだのがいました。酒飲み、恐るべし…です!
この夜は大分市内まで出て、予約を入れてあったホテルへ入りました。
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