島根旅行記(ブログ) 一覧に戻る
5月19日(金)<br /><br />起きると外は雨だ。ときどき雲が切れるが、また激しく降る。低気圧の影響で今日はどこも雨のようだ。でもいつものようにお天気をお祈りしている。<br /><br />7時半朝食。昨日の団体さんたちが早くも出かけていく。送迎を9時に頼んだので、その間ヒオウギを買って直送してもらったり、買い物をしている。Papasanは子どものやるんだと言ってヒオウギの貝殻を買っている。後日、届いたヒオウギの貝殻を説明どおりに金ダワシで磨いてみたが、とてもとても、きれいにならなかった。<br /><br />9時出発。ご主人が見送ってくれ、菱浦港に観光案内所があるから、中ノ島での今日のスケジュールを相談するようにと教えてくれた。 <br />宿の人の話だと、あの団体さんたちはこの雨の中を国賀海岸の遊覧に出かけたそうな。団体さんに、昨日のうちに出かけたほうがいいとすすめたが、予定通りと今日にしたとのことだった。団体旅行は小回りがきかないようだ。<br /> <br />9:55分のフェリーで中ノ島まで20分。近いから2等を買った。1人280円。船内に入ると、カーペットの敷かれた床に座ったり、横になっている先客が目立つ。デッキはないのかと船員に聞いたが「ない」という返事。船先の方に進むと、外に出れて、階段を上ると、ベンチがあった。「なんだ、あるじゃないの」と言いながらそこに席をとる。ほんと中ノ島は目と鼻の先。泳いでも渡れそうだ。二つの島をまたぐ橋の予定地が示されている。バブルの頃ならいざ知らず、島の人口も観光客も少ない現状では橋の実現は難しいだろうな。<br /><br />雲が切れてきた。これなら、東国賀・三郎岩の観光船に乗れるかもしれない。<br />中ノ島、菱浦港着。ここは海士町。<br />フェリーを降りて、先ずはそのまま案内に従って、インフォメイションへ行く。船着場から続く、この木作りの建物は感じがいい。木の香りもする。キンニャモニャ・センタ−だ。キンニャモニャとは民謡のことらしい。踊り手の群像の人形がかざってあった。3島の中では一番素敵な船着場だ。観光案内所はその建物の1階にある。今夜の宿マリンポートホテル海士は小さな入り江を挟んですぐ真向かい。<br /><br />窓口に行って観光船があるかどうか訊ねると、10時があるという。それにしようと頼むと五人以上でなければ船は出ない、私たち3人ではだめだという。他の客は来そうもない。そこで島巡り観光をお願いする。観光バスのタクシー版といったところだ。案内所で料金を払う。一人、2,350円。若いお兄さんがガイド兼運転手。<br /><br />村上家の前を通り、ここに西川峰子さんが嫁いで来ているとのこと。村上家は代々後鳥羽上皇の山陵を守ってきた家。<br /> 後鳥羽上皇火葬塚を見学。承久の変1221年の後、後鳥羽上皇が島に流されたのは42歳、亡くなったのは60歳。おつきの藤原某が、上皇の遺体をここでダビにふし、分骨して都に持っていったという。神道ではダビにふさない。まして畏れ多い天皇の遺体をダビにふすことはまれである。ダビに付すという思想は仏教思想に由来する。天皇は僧侶に無理強いされ、頭を丸めたそうだ。僧侶といえども必ずしもダビにふされてはいない。ダビにふすにはなにかの事情があったのだろう。ちょっとした歴史のなぞだ、とミステリー・ファンは余計なことを考えている。<br /><br />ここから三つの甕が掘り起こされた。二つには日常品が入っていたが、後の一つは開けずにまた埋めもどしてしまった。「三つ目になにが入っていたと思いますか?」「さぁねぇ〜」と思い巡らしていると、「畏れ多くて開けられなかったんです」「そうか、上皇のご遺体ね」「そうだと思います」<br />                             流された上皇は気の毒だが、これは朝廷と幕府の権力争いだ。上皇はかなりのワンマンであったらしい。実朝亡き後、朝廷が実権を握ろうとして、皮肉なことにむしろ北条氏の結束を強め北条氏の鎌倉幕府の礎を築いてしまったことになる。要するに上昇気運の北条氏の勢力が強かったということである。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />「註:承久の乱 じょうきゅうのらん <br /><br />1221年(承久3)朝廷と鎌倉幕府の間におきた争乱。02年(建仁2)朝廷内で実権をにぎっていた源通親(みちちか)が没すると、朝廷の政治は後鳥羽上皇の独裁となった。上皇ははじめ、生母の弟である坊門信清の娘を将軍源実朝の妻にするなど、みずからの主導で朝廷と幕府の融和路線をとっていた。<br /><br />しかし、1219年、上皇主導のこうした融和路線に重要な役割をはたしてきた3代将軍源実朝が殺されると、上皇は鎌倉幕府の成立で弱体化していた公家勢力の回復をはかる好機と考え、討幕の決意をかためた。幕政の実権をにぎる執権北条義時は子供のなかった実朝のあとの将軍に、上皇の皇子をむかえようとしたが、上皇は拒絶。けっきょく頼朝の遠縁の九条道家の子、頼経が将軍としてむかえられることになった。<br /><br />21年5月、ついに上皇は北条義時追討の命をだし、諸国の武士につたえ挙兵した。上皇の呼びかけに応じた兵力は予期に反して少なかった。幕府方は、頼朝の妻で尼将軍ともよばれた北条政子や執権北条義時を中心に結束をかため、義時は子の泰時を大将、弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都にむかわせたほか、東山道や北陸道からもせめさせた。その兵力はあわせて19万といわれる。結果的に幕府軍は上皇方の軍勢を尾張川(木曽川)でやぶり、宇治・勢多での戦いにも勝利し、1カ月たらずのうちに京都を占領した。<br /><br />乱後、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡にながした。土御門(つちみかど)上皇は自らすすんで土佐にながされ、のち阿波にうつり没した。幕府はさらに、上皇方の公卿(くぎょう)や武士の所領を没収して新補(しんぽ)地頭を設置し、朝廷監視のために六波羅探題をおくなど、幕府権力を西国に対しても強化し、朝廷への幕府優位の体制をかためた。」(エンカルタ百科辞典) <br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />                              都人が何もない島に流されて、望郷の念やみがたしの和歌が多い。ここも明治2年の廃仏毀釈で島の多くの寺が壊されている。蛙の池の近くにある有栖川の宮の筆跡を彫った字体はきれいだ。ここや隠岐神社は宮内庁の管轄であるそうだ。<br /> 隠岐神社は昭和14年に後鳥羽上皇没後700年を記念して建立された隠岐様式の社だとガイドブックに書いてあった。私より若い社である。昭和14年、12年に始まった日中戦争が泥沼化して、16年太平洋戦争へと突き進んで行く時代、後鳥羽上皇をかりて、皇室の権威をたかめ、軍国主義を誇張啓蒙するために建てられたと言ってもよかろう。<br /><br />境内は広く、緑にあふれていて、心地よい。ウグイスやシジュウカラの声がよくひびく。社の隠岐造りとは表面のことではなく、内部のつくりだそうだ。ここでもお天気をお願いする。続いて郷土資料館。団体さんと一緒だったので説明がついた。資料はもっぱら後鳥羽上皇関係の展示がメイン。上皇の歌を書家が書いているのだが、書家の名前がないのは片手落ち。上皇の歌であるくらいはわかっているのが、誰が書いた書かそっちの方が知りたかった。<br /><br />金光寺山164mに上る。小野篁(おののたかむら 802〜852平安初期の漢詩人、歌人)の碑がある。<br />小野篁は当代きっての知識人であり、権威にこびない優秀な人材であったらしい。834年には遣唐副使に任命されたが、二度にわたり台風のため渡航延期になる。三度目の渡航のとき、横暴な大使との同船を拒み、病と称して船に乗らず、大使を風刺する詩を作ったため、嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐へ流された。そのときの歌が百人一首にある「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海士の釣り船」である。はじめは中ノ島、次に島後に流されたので、島後の壇鏡の滝のところにも碑があった。小野小町、小野道風は彼の孫である。エピソードがたくさん残っている、なかなかおもしろい人物である。後、彼は都に帰っている。蛇足だが、遣唐使制度は実質上ここで終わっている。篁の拒否は遣唐使制度への疑問を投げかけたのだという説もある。<br />                             ここ金光寺山からの見晴らしはすばらしい。このときは、はるかかなたとは言えないが、島後も島前も見渡せた。坂の途中から無人島最大の松島も見えた。この松島は子ども達のサバイバル体験に使われているそうだ。 <br /><br />明屋海岸(あきやかいがん)は町営のキャンプ場、ここではサザエなどの魚介類を勝手に取ってもいい場所だとか。<br />海岸近くには屏風岩、双子岩。<br />                             途中同じようなつくりの住宅地を通った。<br />「ここは?」「町営住宅です。Iターンで来た方々が多く住んでいます」「そういえば、料理コンテストで中国地方代表になった海士町に研修に来ている若い男性が、町営住宅に住んでいるじゃなかった?」「そうです。ごらんになりましたか?」「隠岐って文字でみてたんだけど。料理はシイタケにこじょうゆを塗って、イカだったと思うけどのせて、お餅とチーズをのせて焼いたピザ風のものだったと覚えているけど」「たしか、その料理、どこかで食べられましたよ」「食べたいとは思わないけど、親切にしてくれた島の人達に感謝を込めてこのレシピを作ったと言っていたよ。気持ちがうれしいね」<br /><br />戻って、キンニャモニャ・センターの2階のレストラン船渡来流亭(セントラルって読むらしい)で食事をする。私は生ガキを2ケと隠岐ソバ、プリンとゆずティ。隠岐ソバは、私には茹で過ぎの感じ。岩ガキは中ぶり。2ケじゃ少なかったかな。夕食にまた食べればいいや。ゆっくり食事を済ました。レストランを出てすぐの空間にベンチが置いてあり、花や虫の写真が飾ってある。そこの先の階段の踊り場にパソコンが置いてあって、「ご自由にお使いください」と書いてある。さっそく掲示板をのぞいてみる。書き込もうとしたが、妹が使うというので譲る。午後から、あまんぼうでも乗ろうとか、また下のインフォメイションに行ったが、あまんぼうも今日は中止だとか。売店を見ると、「承久の宴」という海士町の地酒を見つけた。そこでこれを晩酌のために買った。雨はまだ降っている。仕方がないので、雨の中をホテルまで行く。こういうとき近いのはタクシーを利用するわけにも行かず不便。<br /><br />部屋は3階、窓から対岸に霧に煙る西ノ島が見える。橋の接岸部分と書かれたところが正面にある。ミサゴが魚を求めて水面を舞っている。昨日は魚をくわえたミサゴの姿を見た。とんびもゆったりと舞っている。ここも温泉だと言って、温泉好きのpapasanはさっそくに入りに行った。光はないが、静かな海面は潮の流れが濃淡になって筋をつくりきれいだ。デジカメで撮れた。<br />では、たまってしまった日記をつけるとするか。<br /><br />お昼がおソバだったのでお腹が空いた。食事に行くと、支度が出来ていた。隠岐誉の純米吟醸があったので、それを頼んだ。岩ガキが出た。大喜びで追加。ついでに生ウニも注文。「こじょうゆ」もここで味見できた。まさに味噌だねぇ。                         <br />                             <br />

隠岐へ4

0いいね!

2006/05/19 - 2006/05/19

7626位(同エリア7806件中)

0

5

buchijoyce

buchijoyceさん

5月19日(金)

起きると外は雨だ。ときどき雲が切れるが、また激しく降る。低気圧の影響で今日はどこも雨のようだ。でもいつものようにお天気をお祈りしている。

7時半朝食。昨日の団体さんたちが早くも出かけていく。送迎を9時に頼んだので、その間ヒオウギを買って直送してもらったり、買い物をしている。Papasanは子どものやるんだと言ってヒオウギの貝殻を買っている。後日、届いたヒオウギの貝殻を説明どおりに金ダワシで磨いてみたが、とてもとても、きれいにならなかった。

9時出発。ご主人が見送ってくれ、菱浦港に観光案内所があるから、中ノ島での今日のスケジュールを相談するようにと教えてくれた。
宿の人の話だと、あの団体さんたちはこの雨の中を国賀海岸の遊覧に出かけたそうな。団体さんに、昨日のうちに出かけたほうがいいとすすめたが、予定通りと今日にしたとのことだった。団体旅行は小回りがきかないようだ。

9:55分のフェリーで中ノ島まで20分。近いから2等を買った。1人280円。船内に入ると、カーペットの敷かれた床に座ったり、横になっている先客が目立つ。デッキはないのかと船員に聞いたが「ない」という返事。船先の方に進むと、外に出れて、階段を上ると、ベンチがあった。「なんだ、あるじゃないの」と言いながらそこに席をとる。ほんと中ノ島は目と鼻の先。泳いでも渡れそうだ。二つの島をまたぐ橋の予定地が示されている。バブルの頃ならいざ知らず、島の人口も観光客も少ない現状では橋の実現は難しいだろうな。

雲が切れてきた。これなら、東国賀・三郎岩の観光船に乗れるかもしれない。
中ノ島、菱浦港着。ここは海士町。
フェリーを降りて、先ずはそのまま案内に従って、インフォメイションへ行く。船着場から続く、この木作りの建物は感じがいい。木の香りもする。キンニャモニャ・センタ−だ。キンニャモニャとは民謡のことらしい。踊り手の群像の人形がかざってあった。3島の中では一番素敵な船着場だ。観光案内所はその建物の1階にある。今夜の宿マリンポートホテル海士は小さな入り江を挟んですぐ真向かい。

窓口に行って観光船があるかどうか訊ねると、10時があるという。それにしようと頼むと五人以上でなければ船は出ない、私たち3人ではだめだという。他の客は来そうもない。そこで島巡り観光をお願いする。観光バスのタクシー版といったところだ。案内所で料金を払う。一人、2,350円。若いお兄さんがガイド兼運転手。

村上家の前を通り、ここに西川峰子さんが嫁いで来ているとのこと。村上家は代々後鳥羽上皇の山陵を守ってきた家。
後鳥羽上皇火葬塚を見学。承久の変1221年の後、後鳥羽上皇が島に流されたのは42歳、亡くなったのは60歳。おつきの藤原某が、上皇の遺体をここでダビにふし、分骨して都に持っていったという。神道ではダビにふさない。まして畏れ多い天皇の遺体をダビにふすことはまれである。ダビに付すという思想は仏教思想に由来する。天皇は僧侶に無理強いされ、頭を丸めたそうだ。僧侶といえども必ずしもダビにふされてはいない。ダビにふすにはなにかの事情があったのだろう。ちょっとした歴史のなぞだ、とミステリー・ファンは余計なことを考えている。

ここから三つの甕が掘り起こされた。二つには日常品が入っていたが、後の一つは開けずにまた埋めもどしてしまった。「三つ目になにが入っていたと思いますか?」「さぁねぇ〜」と思い巡らしていると、「畏れ多くて開けられなかったんです」「そうか、上皇のご遺体ね」「そうだと思います」
                             流された上皇は気の毒だが、これは朝廷と幕府の権力争いだ。上皇はかなりのワンマンであったらしい。実朝亡き後、朝廷が実権を握ろうとして、皮肉なことにむしろ北条氏の結束を強め北条氏の鎌倉幕府の礎を築いてしまったことになる。要するに上昇気運の北条氏の勢力が強かったということである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「註:承久の乱 じょうきゅうのらん 

1221年(承久3)朝廷と鎌倉幕府の間におきた争乱。02年(建仁2)朝廷内で実権をにぎっていた源通親(みちちか)が没すると、朝廷の政治は後鳥羽上皇の独裁となった。上皇ははじめ、生母の弟である坊門信清の娘を将軍源実朝の妻にするなど、みずからの主導で朝廷と幕府の融和路線をとっていた。

しかし、1219年、上皇主導のこうした融和路線に重要な役割をはたしてきた3代将軍源実朝が殺されると、上皇は鎌倉幕府の成立で弱体化していた公家勢力の回復をはかる好機と考え、討幕の決意をかためた。幕政の実権をにぎる執権北条義時は子供のなかった実朝のあとの将軍に、上皇の皇子をむかえようとしたが、上皇は拒絶。けっきょく頼朝の遠縁の九条道家の子、頼経が将軍としてむかえられることになった。

21年5月、ついに上皇は北条義時追討の命をだし、諸国の武士につたえ挙兵した。上皇の呼びかけに応じた兵力は予期に反して少なかった。幕府方は、頼朝の妻で尼将軍ともよばれた北条政子や執権北条義時を中心に結束をかため、義時は子の泰時を大将、弟の時房を副将として軍勢を東海道から京都にむかわせたほか、東山道や北陸道からもせめさせた。その兵力はあわせて19万といわれる。結果的に幕府軍は上皇方の軍勢を尾張川(木曽川)でやぶり、宇治・勢多での戦いにも勝利し、1カ月たらずのうちに京都を占領した。

乱後、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡にながした。土御門(つちみかど)上皇は自らすすんで土佐にながされ、のち阿波にうつり没した。幕府はさらに、上皇方の公卿(くぎょう)や武士の所領を没収して新補(しんぽ)地頭を設置し、朝廷監視のために六波羅探題をおくなど、幕府権力を西国に対しても強化し、朝廷への幕府優位の体制をかためた。」(エンカルタ百科辞典)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                             都人が何もない島に流されて、望郷の念やみがたしの和歌が多い。ここも明治2年の廃仏毀釈で島の多くの寺が壊されている。蛙の池の近くにある有栖川の宮の筆跡を彫った字体はきれいだ。ここや隠岐神社は宮内庁の管轄であるそうだ。
隠岐神社は昭和14年に後鳥羽上皇没後700年を記念して建立された隠岐様式の社だとガイドブックに書いてあった。私より若い社である。昭和14年、12年に始まった日中戦争が泥沼化して、16年太平洋戦争へと突き進んで行く時代、後鳥羽上皇をかりて、皇室の権威をたかめ、軍国主義を誇張啓蒙するために建てられたと言ってもよかろう。

境内は広く、緑にあふれていて、心地よい。ウグイスやシジュウカラの声がよくひびく。社の隠岐造りとは表面のことではなく、内部のつくりだそうだ。ここでもお天気をお願いする。続いて郷土資料館。団体さんと一緒だったので説明がついた。資料はもっぱら後鳥羽上皇関係の展示がメイン。上皇の歌を書家が書いているのだが、書家の名前がないのは片手落ち。上皇の歌であるくらいはわかっているのが、誰が書いた書かそっちの方が知りたかった。

金光寺山164mに上る。小野篁(おののたかむら 802〜852平安初期の漢詩人、歌人)の碑がある。
小野篁は当代きっての知識人であり、権威にこびない優秀な人材であったらしい。834年には遣唐副使に任命されたが、二度にわたり台風のため渡航延期になる。三度目の渡航のとき、横暴な大使との同船を拒み、病と称して船に乗らず、大使を風刺する詩を作ったため、嵯峨天皇の怒りを買い、隠岐へ流された。そのときの歌が百人一首にある「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海士の釣り船」である。はじめは中ノ島、次に島後に流されたので、島後の壇鏡の滝のところにも碑があった。小野小町、小野道風は彼の孫である。エピソードがたくさん残っている、なかなかおもしろい人物である。後、彼は都に帰っている。蛇足だが、遣唐使制度は実質上ここで終わっている。篁の拒否は遣唐使制度への疑問を投げかけたのだという説もある。
                             ここ金光寺山からの見晴らしはすばらしい。このときは、はるかかなたとは言えないが、島後も島前も見渡せた。坂の途中から無人島最大の松島も見えた。この松島は子ども達のサバイバル体験に使われているそうだ。

明屋海岸(あきやかいがん)は町営のキャンプ場、ここではサザエなどの魚介類を勝手に取ってもいい場所だとか。
海岸近くには屏風岩、双子岩。
                             途中同じようなつくりの住宅地を通った。
「ここは?」「町営住宅です。Iターンで来た方々が多く住んでいます」「そういえば、料理コンテストで中国地方代表になった海士町に研修に来ている若い男性が、町営住宅に住んでいるじゃなかった?」「そうです。ごらんになりましたか?」「隠岐って文字でみてたんだけど。料理はシイタケにこじょうゆを塗って、イカだったと思うけどのせて、お餅とチーズをのせて焼いたピザ風のものだったと覚えているけど」「たしか、その料理、どこかで食べられましたよ」「食べたいとは思わないけど、親切にしてくれた島の人達に感謝を込めてこのレシピを作ったと言っていたよ。気持ちがうれしいね」

戻って、キンニャモニャ・センターの2階のレストラン船渡来流亭(セントラルって読むらしい)で食事をする。私は生ガキを2ケと隠岐ソバ、プリンとゆずティ。隠岐ソバは、私には茹で過ぎの感じ。岩ガキは中ぶり。2ケじゃ少なかったかな。夕食にまた食べればいいや。ゆっくり食事を済ました。レストランを出てすぐの空間にベンチが置いてあり、花や虫の写真が飾ってある。そこの先の階段の踊り場にパソコンが置いてあって、「ご自由にお使いください」と書いてある。さっそく掲示板をのぞいてみる。書き込もうとしたが、妹が使うというので譲る。午後から、あまんぼうでも乗ろうとか、また下のインフォメイションに行ったが、あまんぼうも今日は中止だとか。売店を見ると、「承久の宴」という海士町の地酒を見つけた。そこでこれを晩酌のために買った。雨はまだ降っている。仕方がないので、雨の中をホテルまで行く。こういうとき近いのはタクシーを利用するわけにも行かず不便。

部屋は3階、窓から対岸に霧に煙る西ノ島が見える。橋の接岸部分と書かれたところが正面にある。ミサゴが魚を求めて水面を舞っている。昨日は魚をくわえたミサゴの姿を見た。とんびもゆったりと舞っている。ここも温泉だと言って、温泉好きのpapasanはさっそくに入りに行った。光はないが、静かな海面は潮の流れが濃淡になって筋をつくりきれいだ。デジカメで撮れた。
では、たまってしまった日記をつけるとするか。

お昼がおソバだったのでお腹が空いた。食事に行くと、支度が出来ていた。隠岐誉の純米吟醸があったので、それを頼んだ。岩ガキが出た。大喜びで追加。ついでに生ウニも注文。「こじょうゆ」もここで味見できた。まさに味噌だねぇ。                         
                             

  • 後鳥羽上皇火葬塚

    後鳥羽上皇火葬塚

  • 隠岐神社

    隠岐神社

  • 有栖川宮の碑

    有栖川宮の碑

  • 小野たかむらの碑

    小野たかむらの碑

  • 中ノ島のホテルから<br />対岸は西ノ島<br />潮の流れを

    中ノ島のホテルから
    対岸は西ノ島
    潮の流れを

この旅行記のタグ

0いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP