2006/06/04 - 2006/06/04
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adsawinさん
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昔、旅行記の中でもラマ9世=プミポン国王の正式名所を書いた記憶が・・ありますが・・・・6月9日の即位60周年のお祝いの前にもう一度説明してみようか?と思います。
**本来もっと賑やかに、喜びヒトシオで国民のすべてがお祝いしたい即位式・・****
ところが今年その一番大事な時期に政治の世界で変動が起こり・・南部深海部で争いごとがやまず・・そして昨年以上に心配さえているタイ国内の異常現象・・・・洪水だけならいざ知らず・・土砂崩れで家を人を失う・・とは・・・自然災害の被害が断て続けて起きて入るため国王陛下の心中は静まる何処か体の具合が悪くなり・・テレビの会見でも殆どマイクなしでは声が聞こえないほどの力の無さ具合・・・はタイの国民には悲しい出来事なのである。世界中の皇室の中でも世界で1−2位の長さでその王権を受け継いできたプミポン国王様の人間としてその暖かき心の世界と愛情たっプリの愛の世界をかいまみて見ませんか?ますますタイが好きになりますますタイを知りたくなるかも知れませんね・・・・
ラマ9世について・・
プーミポン・アドゥンラヤデート王、プミポン王
正式名称 : プラバート・ソムデット・プラパラミンタラ・マハー・プーミポン・アドゥンラヤデート・マヒタラーティベート・ラーマーティボーディー・チャックリーナルボーディン・サヤーミンタラーティラート・ボーロマナートボーピット
タイ語表:พระบาทสมเด็จพระปรมินทรมหา ภูมิพลอดุลยเดช มหิตลาธิเบศรรามาธิบดี จักรีนฤบดินทรสยามินทราธิราช บรมนาถบพิตร
英語表記 :Bhumibol Adulyadej
です。
ラマ1世からラマ4世までは時代の流れるままに時が流れ、特に目立つ改革も何もありませんでした。
それは近隣諸国との戦争などで領地を奪われたりしていたからでしょう。タイの国として一番大きな改革を試みそして外国へ足を踏み出し外国の良い部分を自分の国へ取り入れそして今の基本になるタイという国を築いた人がラマ5世です。商売の神様として何処の店でもこのラマ5世は写真が供えられ好物の珈琲や赤いバラの花などが供えられています。そして現在のラマ9世に至るまでのラマ6−7−8世は短い期間での在位でありまた特に目立つ事もなく時代が過ぎ去り・・一番重要な現在までをラマ9世が若き頃から築いてきたのです。
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タイの国民みなが大好きな一枚・・それは若き時代のお二入の大恋愛の最中の写真・・シリキット女王様がいかにどれだけプミポン国王陛下を信頼し、思いを寄せているか本当に中睦ましいお二人の写真はいつまでも歴史の大事な一枚として語り告がれることだろう
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それではチャクリー王朝とはどういう時代だったのだろうか??その大事な時代をラマ9世までどういう王様たちがこのタイの国を取り仕切りそして世界へ広めてきたのだろうか??
覗いて見ることにしましょう・・
ラマ1世チャクリ(プラプッタヨドファ)王 1782〜
ラマ1世(Rama I、1737年3月20日 - 1809年9月7日)はタイ王国現王朝、チャクリー王朝の創始者であり、幼名はトーン・ドゥワンと言う。アユタヤ王家の血を引き、アユタヤー時代の士官チャオプラヤー・コーサーパーンの子孫である。アユタヤー王朝末期にすでに官吏として士官しておりルワンヨック・クラバットの爵位名も持つ。このラマ1世の称号はラマ6世によって制定されたものである。 -
ラマ2世プラプッタロエットラ(ナパーライ)王 1809〜
ラマ2世(Rama II、1766年2月26日 - 1824年7月21日)はタイ王国チャクリー王朝第2代目の王ラマ1世の息子である。幼名をチムと言う。チムは1782年(タイ仏暦2345年)ラーマ1世が即位するとクロムルワンイッサラスントーン王子の名を戴いた。その後タイの仏教の伝統に則って出家した。1806年(タイ仏暦2349年)の副王の死によって自分が副王になり、皇太子となった。1809年(タイ仏暦2352年)にラマ1世が崩御し王に即位。治世の前半はたび重なるビルマとの戦い続くが、後半ではビルマがイギリスに占領された為静かになり、国内の整備などを行った。タイの文豪の一人にも数えられる。文学面での功績は大きいが、ブンナーク家などの貴族に内政を任せきりにしていた為、政治的にはあまり実権を持たない王でもある。 -
ラマ3世プラナンカオ王 1824〜
ラマ3世はタイ王国の現王朝チャクリー王朝の王で3代目。父王、ラマ2世譲りの詩人で、叙事詩『クン・チャーン=クン・ペーン』の作詩にも関わる。また、ラマ3世の治世には戦乱が減ったため世の中の安定により国内における政治・商売など全ての面で築き上げることが出来た為、ラマ3世までを「チャクリー王朝の建設期」と言うことが出来るかもしれない。 -
ラマ4世モンクット王 1851〜
ラマ4世はタイ王国の現王朝チャクリー王朝の4代目王。本名チョームクラオ王。幼名をモンクットと言うため、外国ではモンクット王が名前としてよく使われるが、ラマ6世の本名にもモンクットと言う語が使われる為良く間違われることがある。元々は兄のラマ3世よりも彼の方に王位継承権があったとされるが、学業専念のために兄に王位を譲り、自分は学問を続けた。即位までの27年間は寺に属し、経文の言語であるパーリ語、サンスクリット語をマスターする。しかしその中でタイの仏教のあり方に疑問を感じ始めていた。その後、キリスト教宣教師の手を借り、英語、ラテン語を学び、ルネッサンスを通じて教義が合理化されたキリスト教にふれたことで、新時代の宗教は合理化されたものでなければならないと感じ、俗信を排除した新しい仏教を建てた。このとき建てられた革新派の仏教集団をタマユットニカーイと言い、ラームカムヘーン大王碑文を発見した人でもある。 -
ラマ5世チュラロンコーン王 1868〜
ラマ5世(Rama V、1853年9月20日 - 1910年10月23日)は本名をチュラチョームクラオ王という。タイ王国の現王朝チャクリー王朝の王で5代目。幼名をチュラローンコーンと言うため、外国ではチュラーロンコーン大王(King Chulalongkorn the Great)が名前としてよく使われる。タイ三大王のうちの一人で、今でも尚も国民からの人気が高く、肖像画がなど商売の神様としてもポスターなどとしても、店や仕事場などに置かれ祭られている。日本の明治天皇と同時期の王で、明治天皇と同じく近代化に大きく貢献した王としてもタイの基盤を作り出した大きな王であり、即位すると度々外国へ旅行をして、その国の良いものを自国へ取り入れるなど新しい文化を築いた人でもある。奴隷制度などを廃止し個人の自由を尊重する時代への前進を築いている。そして多くの改革を行いこれをまたチャクリー改革と呼ばれた。 -
ラマ6世ワチラウット王 1910〜
ラマ6世(Rama VI、1880年1月1日 – 1925年11月25日) は、タイチャクリー王朝の国王の一人。幼名がワチラーウットというので外国ではワチラーウット王(King Vajiravudh)とも言われる。タイの王朝史上、初めて海外留学をした王で、イギリスに滞在していた。帰国後は陸軍大将を勤め、1910年に即位すると、ラマ5世の始めたチャクリー改革を押し進め、以下の改革を行った。義務教育制度の導入・発電所・水道施設・ドーンムアン空港・プット大橋を整備・国旗はラマ2世による白象旗を廃し、新たに現在の三色旗を採用・姓氏法を制定し国民に姓を持たせた。 -
ラマ7世プラチャティポック王 1925〜
ラマ7世は、タイ現王朝であるチャクリー王朝7代目の王。タイで最後の絶対君主で最初の立憲君主である。本名はポッククラオ王。幼名がプラチャーティポックサックディデートというのでその一部を取って外国ではプラチャーティポック王とも言われ仏暦を採用した事で知られている -
ラマ8世アーナンタ王 1934〜
ラマ8世(Rama VIII、1925年9月20日 - 1946年6月9日)は本名をアーナンタ・マヒドン王という。外国ではアーナンタ王、マヒドン王とも呼ばれる。タイ現王朝チャクリー王朝の8代目の王。ラマ5世の孫で、ラマ7世の甥に当たる。1925年(タイ仏暦2468年)ドイツのハイデルベルクで生まれた。1928年(同2471年)年に初めてタイに帰ってきた。翌年に父親が亡くなると、兄弟三人でスイスのローザンヌで修学した。1934年(同2477年)ラマ7世が退位するとタイの国会の決定で即位したが、すぐにスイスに帰り学業を続けた。1945年(同2488年)に学業を終えると帰国する。しかし翌年には「事故」で崩御した。ボーロマピマーン宮殿で銃声がしたので駆けつけてみると、ラマ8世は死んでいた、といわれる。そのまま銃の暴発事故で片づけられそうになったが、警察が検死結果を元に他殺説を示唆した。ラマ8世死亡事件捜査本部が設置されたものの結局それ以上の捜査は続けられず、責任をとって内閣は総辞職し、数人の王室関係者が処刑されたが、真相は未だもって不明だが、昔から拳銃いじりが趣味で間違って暴発したのでは?と言う説が一番正しい様子である。 -
ラマ9世プミポン王 1946〜
ラマ8世の死後生き写しのように似ていた弟のラマ9世が、タイチャクリー王朝の9代目の王となる・・アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれる。ラマ5世の69番目の子息、ソンクラーナカリン親王を父に持つ。学業はスイスのローザンヌ大学で修めた。この兄の惨事で兄の死を認められず悲しい日々を過ごしたと言われる・・・1927年(タイ仏暦2470年)12月5日、学業中にいったん休学し1945年(タイ仏暦2488年)にタイへ帰国するが、翌年の6月9日に兄ラーマ8世アーナンタが怪死したため兄王の死の12時間後タイ国王に即位。その後すぐにローザンヌ大学へ復帰し、1952年(タイ仏暦2495年)に帰国。同年、フランス滞在中に出会った同じく王族のモム・ラーチャ・ウォン・シリキット・キッティヤーコーン(シリキット)と大恋愛の末結婚し、4人の子供達に恵まれ現在に至る。 -
タイ王室(ロイヤルファミリー)系譜 ラマ4世以降
●Chulalongkorn王(ラマ5世)の第一夫人と第二夫人は実姉妹、Chulalongkorn王とは異母兄弟(つまり、ラマ4世娘)。
●プミポン国王(ラマ9世)ラマ5世(チュラロンコーン王)の孫、シリキット王妃はラマ5世のひ孫です。
●ワチラロンコーン王子の前妻ソムサワリー王女はシリキット王妃の姪(兄の娘)です。
本物のお二人の婚姻届・・・ -
即位式で国王として授与された品物
五種の神器(เบญจราชกกุธภัณฑ์)とはタイ国王が王権を象徴する物で日本の皇室における三種の神器と同じ意味を持つ物であると思われます。其れは王として即位する時に着用される衣装など全を現しています。プラマハーピチャイモンクット(王冠) プラセーンカンチャイシー(短剣) チャローンプラバート(スリッパ) ワーラウィーチャニー(扇子と払子) ターラプラコーン(短い杖)歴史の中ではラマ2世の時代には7種類の神器がありましたが・・其れはラマ7世の時代で傘と刀が排除され最終的には5種類となったとされています。 -
頭を日差しから守るための傘
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王冠
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刀
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杖
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ウチワ
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サンダル
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国王陛下だけの品物に付けられるロゴ
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即位50周年の時に使われたロゴ
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即位60周年を祝うロゴ・・こうして見るとそのロゴの中に飾られているものにはかなりな意味がありそうだ・・・
確かに既にこの即位式を拝見するのは2度目になるはず・・だが・・50周年の時は正直ここまでの行事はしなかったのでは?と思う・・記憶の中では・・ -
いろいろな色合いのロゴが使用されている。
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式典など祝いの席でプミポン国王陛下が座る席
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ラマ9世として即位された時の写真
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そして何よりも3人兄弟の中でお兄様との関係の深さを感じそしてその悲しみと苦しみを素直に表現された詩集
幼少の頃から兄を慕い兄を思い兄がいたから生きてこれた、国王という義務さえなければ哀しい思いをすることはなかっただろう・・何時でもどんな時でも兄のことを忘れたことはない・・・・
プミポン国王陛下直筆 -
そんなプミポン国王陛下の幼少のころお父様であるラマ7世がだっこされている貴重な写真・・
ラマ一族はその殆どが外国生活で・・殆どイギリス・フランス・などでの生活だった・・それはタイの環境が良くなかった証拠でもある。 -
どんな写真もかなわないだろう・・この最高なる1枚
ご兄弟の素顔が今でもそこにいるようだ・・・お姉さまも高齢でありながら・・どんどん外国へ遠征されタイの国の国際交流に手を貸している。 -
当時外国生活を送られていたご家族の写真・・そこはやはり外国のイメージですね・・
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学校までの通学も自転車で仲良く通われていた様子がわかりますね・
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まるで瓜二つのお二人の写真・・本当にそっくり・・で驚き・・このころからラマ8世のお兄様は拳銃遊びというかかなりのマニアで要らした様子で・・・自分で手入れをされ毎日手にしていたようです・・暴発だと言われ・・そして暗殺だと言われ・・その本当の理由は誰一人知らないのです。当時ラマ8世のお付の人達はその日のうちの責任を取らされ処刑されてしまいましたので誰もにも・・わからない世界になってしまいました。。。
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