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KAUBEさん
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北欧漂泊…ベルゲンからスタバンガーへ
遅い北欧の冬の朝がようやく明けたところだった。
九時過ぎ。
ベルゲンの家並みを見下ろす高台のユースホステルの、広くて明るい食堂の窓際の席に、北欧風の盛りだくさんの朝食が、一人きりの宿泊者のために用意されていた。
保温プレートのコーヒーをゆったりとした気分で味わいながら、ぼくは眼下に広がるベルゲンの街並みをしみじみと見つめていた。
二か月ぶりに、人間らしい気分で朝を迎えた感慨が、コーヒーの香りとともにぼくを包んだ。
街並みに、弱々しいけれども、それでも結構ぬくぬくと、朝の陽が差していた。
昨日までいたところとは、緯度にすればそんなに変わるわけではないけれども、ぼくには今この窓の下に広がるベルゲンの町が、まるで南国の都会のように明るく暖かく、きらきらと輝いて見えた。
厳しい寒さとあのばかばかしく長い夜…、でもそれだけではなかった。あそこの人たちはみんな大なり小なり精神の平衡を失っていたのではないか。
ほんの一瞬だけれども、あの「離人症の谷」の悪夢のような日々を回想した。
深い入り江になった海を、さほど高くもない丘が取り囲んでいて、丘の斜面に、赤や青の屋根の小さな家々がぎっしり立ち並んでいる。
入り江に沿った狭い平地には、港町らしいごたごたした感じの家並みがひしめき、そんなに広くはない波止場には、漁船らしい小さな船がずらりと並んでいるのも見えた。
●天使に会った日
昨日列車でこの町に着いたときは、一緒にあのYHを辞めてこの町に出てきたカールとそっけなく駅で別れ、ぼくはバスでここに来た。
そう、そのバスの中での、小さなエピソードを話さねばならない…
バスは意外に込んでいて、
ぼくは出入り口近くの握り棒につかまって、すっかり暮れ落ちたベルゲンの街の灯をぼんやりと眺めていた。
ぼくの前に、一人の少女が立っていた。
四、五歳だろうか、濃紺のオーバーのフードから顔だけ出したその子は、母親の腕をつり革代わりに、その背丈からすれば街並みといっても屋根ばかりしか見えるはずもない窓外の景色に、大きなブルーの目をせわしく走らせていた。
バスが大きく右折し、立っている乗客の姿勢が乱れた。
はずみに、その子の視線がぼくの目と出会った。
少女はじっとぼくを見た。
白い、雪のように白い額に金髪がこぼれ、澄んだ大きな目がほとんど不思議なぐらい美しかった。
なんてかわいい…、ぼくがそう思うのと、少女の表情が揺れるのと、同時だった。
おや、と一瞬戸惑うぼくに、フードの縁取りの中の小さな顔はまぎれもなく微笑んでいた。
そしてそのやすらかな笑顔は、ぼくにも同じことを求めていた。
ぼくが笑みを返したのを見て安心したように、少女は改めて表情を崩し、ためらいを忘れた笑みを送ってきた。
笑みを返しながら、ぼくはその天使のような笑顔にわれを忘れた。
こうしてぼくたちはほんの短い二人だけの時を持った。
それから少女の視線は傍らの母親を追い上げ、今起こったことをそっと告げるように見えた。
だが、母親は少女の視線には気づかず、そして少女も「ママ…」とも言わずにただ見上げただけだった。
バスは丘の上の住宅街に停まった。少女はYHとは反対の方向の暗闇に、相変わらず母親の腕に右手をかけたまま消えていった。
あの陸の孤島から列車でたどり着いたこの町で、
ぼくはそんなふうに、久しぶりに心温まるひとときを持ったのだった。
●魚市の風景
11時にYHを出た。
昨日はバスで来たけれども、YHから見ると町はすぐ下に見え、バスに乗らなければならないほどの距離があるとは思えなかった。
ぼくは薄く雪が積もった坂道を下って歩いてみることにした。
坂道は思ったより急で、しかも雪は硬くなって石畳に張り付いていたから歩きにくかったが、距離はやっぱりあんまりなくて、二十分も歩くともう街なかに出た。
市の観光案内所の荷物預かりにリュックを預け、今夜のスタバンガー行きの船を予約してから、波止場に出てみた。
さすがに水際の風は冷たいが、港はどこかぬくぬくとした印象すらあって、深く沈みきらない藍色の水の色が美しかった。
もちろん氷なんてひとかけらもない。
このあたりは、暖流の影響で緯度のわりには暖かいのだと聞いた。
波止場に面した三角屋根のレンガ壁の建物群には、かつてのハンザ同盟の港町らしい印象がある。
ハンブルグやブレーメンの、似たような一角を思い出していた。
漁船の一群が停泊しているあたりに市が立っていた。
今陸揚げされたばかりのカレイやサバやニシンなどが、板の上でばたばた騒いでいる。
そのばたばたもがく姿勢のまますでに凍りついて静かになったのもいる。
売り手は漁師たちだった。
主婦ふうの女性が集まってきて、魚の品定めをしている。
グレーのオーバーコートの襟を深々と立てた奥さんが三十センチぐらいのカレイを一尾買って、魚屋に何か言った。魚屋は声を立てて笑いながら新聞紙で無造作にカレイを包んだ。それから奥さんに何か言い、今度は奥さんがけたたましく笑ってカレイを受け取った。
買い物篭にねじ込まれたカレイが新聞紙の中でごそごそと動いた。
奥さんは、すぐお隣の、小エビを山のように積み上げた店に移動して、また売り子の漁師と談笑している。
呼び込みの声もなく、寒さにみんな首をすくめているから、活気というには遠いが、それでも陽気な、明るい風景だった。
言葉がわかるといいのに、などと思ったが、突っ立っているとさすがに寒くて、そろそろ逃げ出す気になった。
●冴えないたかり
波止場の海風を避けて街並みに入ると、狭い石畳道の商店街があった。
一軒の小さな店のショーケースに、ノルウェー独特の厚手のセーターが並んでいて、その中のひとつがとても気に入った。
ショーケースに額を擦りつけて、ぼくはしばらくそれを見ていた。
深いブルーの地色も、ベージュとオレンジの模様もとても素敵だけれども、やっぱり少し高すぎる…
ぼくの思案は空回りした。
仕方ない、行くか、と顔を上げると、二人の男がぼくをさえぎるように立っていた。
「英語、わかるか?」
という彼らの英語自体があんまりうまくなかったので、ぼくは大威張りで答えた。
「Yes, I do!」
もちろん、という言い方だった。
「どこから来た?」
お決まりの質問から入った。
二人とももう六十近くに見える。長身。一人はぼくより頭ひとつ、もう一人は頭二つ高い。ノーネクタイの背広姿がどこかしまらないが、とくに悪さをしそうな感じではない。
「日本はどこ?」
「神戸」
「あ、コベー、コベーには行ったことがある」
コベーじゃなくコウベ、なんだけど…
神戸や横浜を知っているというのはたいてい船乗りだ。
「昔船に乗っていた。コベーにもヨコハーマにも何度か行った」
大男二人にいきなり前をさえぎられて脅威を感じないでもなかったけれども、このへんでとくに危険はなさそうだ判断しかけていた。
「少し一緒に歩かないか」
言いながら二人はゆっくり歩き出していた。
年はいくつだ、家族は、どこに泊まってる、これからどこへ行く、などと二人はぼくに質問し、それから自分たちが船に乗っていた若いころのことを、少し話した。
小さな十字路に出て、どっちへ行こうか、とちょっと立ち止まったとき、背の高いほう、頭二つ高いほうが少し改まった調子で切り出した。
「ところで、どこかでコーヒーでも、というのはどうだろう…」
へんに気の弱そうな声だった。
「その先にいい店がある」
頭ひとつのほうが言った。
体が少し冷えてきたからそれもいいだろう。
それにしてもそんなこと、何でそんなに改まって言うんだ…
二人の足取りが少し早まり、ぼくも従った。
十メートルほど先に「TEA ROOM」という英語の看板が見えてきたとき、
また二人は立ち止まった。
「実は俺たち…」
「ノーマネーなんだ」
「そう、そうなんだよ」
あっ、と思った。
何のことはない、これはたかりではないか。
べつに高価なものをねだられたわけではない。
でも、ここで甘い顔を見せるとコーヒー一杯ではすまなくなるかもしれない…旅人の警戒心がみるみるぼくを武装させた。
幸い、二人とも凶暴性はなさそうだ。それにここなら人目も多い。
ぼくはいきなり高飛車に出た。
「残念ながら、あんたたちのコーヒー代まで払う気はない。バイバイ!」
二人がどんな反応をしたか、ぼくは知らない。
それだけ言い捨てると、振り向きもせず足早にそこを去った。
少し歩いて、次の角を曲がる直前に、ぼくは後ろを見た。
二人の姿はもうなかった。
それにしても、なんだか迫力のないたかりだったな…
店に入る前に「犯意」を告げるところが良心的といえば良心的、ワルとしてはどうも締まらない。
あんなふうに突き放して悪かったかな、という気が少しだけした。
コーヒーぐらいおごってやっても、それ以上のことはなかったような気もした。
またさっきのセーターのところに来た。
そのフォークロア調の色合いにまた惹かれて、ぼくはまたそこでショーケースに額を擦りつけた。
そこから波止場はすぐ近くだった。
魚市はまだにぎわっていたが、風が出て寒くなっていた。
そういえばそろそろ腹も減った。もうすぐ昼だ。
ぼくはまたさっきの小路に入って、手ごろな昼食を探すことにした。
またセーターの前を通った。今度は横目でにらんで通り過ぎた。
そのはす向かいにカフェテリアがあった。
店の中がよく見通せる大きなガラス窓がぼくを誘った。
「今日の定食」というのを頼んだ。
ポロネギのスープ
タラのクリーム煮
ジャガイモ
ビーツのサラダ
コーヒー
「ポテトはこれぐらいでいいですか?」
と、若い女店員がぼくの定食を盛り付けながら上手な英語で聞いた。
「あ、それでちょうどいい」
ぼくが答えると、目の下の、ソバカスの多い皮膚にしわを寄せて、とても優しい表情で微笑を返した。
ポロネギのスープがぼくの冷え切った体にしみ込んで、体中がジンと音を立てて温まっていくのを感じながら、大きなガラス窓越しに外を見ていた。
ガラスが汗をかいて、外が少しだけにじんで見えた。
タラは予想通り、ナツメグの香りが少し強すぎる。
ノルウェーに来てから、ぼくはこのナツメグの香りに少し辟易していた。もうだいぶ慣れたとはいえ、それでもやっぱりこれはもう少し控えめにしてほしいと思う。
でもそのことをのぞけば、タラのクリーム煮はなかなかだった。
身も心も温まって、ぼくは食後のコーヒーに手をつけながら、また外を見た。
いつのまにか風に白いものが舞って、人々はみなコートの襟を立て、追い立てられるように通り過ぎていった。
さっきの二人はどうしただろうか…。そのことがまた気にかかっていた。
もしかしたら彼らはお金がなかったのではなくて、ただ誰かに優しくしてほしかっただけかもしれない。何か暖かい思いを求めていただけかもしれない。
コーヒーの甘い香りの中で、ぼくはそんなことを考えた。
粉雪の舞い始めた通りに出ると、ぼくはそれとなくさっきの二人を探した。
この程度の街だから、また会えるかもしれないと思った。
店々のショーケースをのぞきながら、ぼくはまたその小さな商店街を三十分ばかり歩いた。
結局、あの二人にはもう会えなかったが、
それでもそうすることでいくらか自分の気がすんだ、ような気がした。
●新しい旅立ち
それからぼくは港に出て、少し寒いのをがまんしながら波止場をひと回りし、また街並みに戻って暖をとった。
三時を過ぎて、外に夕闇の気配が近づいていた。
中央駅近くの公園に接して美術館がある。
昨日駅で別れたカールが言ってたことを思い出した。
「ムンクがある。時間があったら見ておけば」
ムンクは、まだ日本では一般的にはほとんど誰も知らないけれど、
ぼくはたまたま日本を出る直前にある雑誌の口絵で『叫び』という作品を見て、大げさに言えばショックを受けた。
ノルウェーの画家だということも、そのとき知った。
だが美術館の受付のオヤジはぼくを拒絶した。
「悪いが、今日はもう終わりだ。また明日」
ちょうど四時になるところだった。古い木の扉には開館時間が書いてあって、確かに今日は四時までとなっている。
でも…
ぼくは少し強引だと思ったけれども、もうひと押ししてみることにした。
「明日はもう来られないんです。十分で見ますから、なんとか…」
オヤジは「NO!」とひとこと言って、扉に錠をかけた。
ぼくは錠がオヤジの口にかけられたような気がして、もうそれ以上食い下がるのはやめた。
その夜十時の船でスタバンガーに発った。
波止場の一番奥に定期船の乗り場はあって、小さな船がゆらゆらと心もとなく揺れながらぼくを待っていた。
瀬戸内海航路の船よりもまだずっと小さい。
その船が、無数の入り江と何百もの島々を持つフィヨルドの海をうねうねとたどりながら、ノルウェーの南端に近いスタバンガーまで運んでくれる。
到着は明日の朝。
出航時間近く、にわかに風が強まり、海は荒れ模様になった。
そしてそんなことにはお構いなく、船は時間通りに出航した。
小さくて小汚い船だけれども客室はみんな個室で、狭いながらに清潔なシーツがかけられたベッドは一応快適だった。
ベルゲンの港を出ると、船はすぐに大きく揺れ始めた。
ぼくはベッドから振り落とされそうになりながら、両脇の手すりを頼りに横になった。
小さな丸窓から見ると、外はかなり荒れている。
でも、狭いフィヨルドの海だから、いつまでも民家の灯がちらちらと見えて、船は常に陸地にすぐ近いところを航行していることに、ぼくは安堵した。
海に投げ出されたらまず助からない、とは思うけれども、陸地が近い、というのはなんとはなく安心感がある。
そう思うと、そんな揺れもそう気にならなくなって、ぼくはすぐに眠気に襲われた。
えらくよく眠った、と思った。
目が覚めたら、船はもう揺れていなかった。
それよりも、外が明るい。
そういえば、揺れていないといったって、これは静か過ぎる。
エンジンの音も聞こえない。
あっ、と思った。
跳ね起きて丸窓をのぞいた。
あろうことか、目の前に建物がずらりと並んでいる。車が走っている。うっすらと雪をかぶった教会の屋根も見える。
時計を見た。九時。
確か、スタバンガー到着は明日の朝八時です、と案内所の人は言った。
あの嵐の海を眠りこけ、船が着いてから一時間も寝過ごした自分を、われながら相当な神経だと思った。
衣類を着けて廊下に出たら船員が通りかかった。
「スタバンガー?」
「そうだよ」
「いつ着いたの?」
「定刻。八時」
ひげだらけの若い船員はにやりと笑いながらぼそりと言った。
客はもう誰も残っていなかった。
ぼくは洗面を済ませ、ついでにいくらかやけっぱちでゆっくりトイレのほうも済ませて、それからバイバイと船を下りた。狭い甲板で働いていた四人の船員がバイバイと手を振った。
ベルゲンからスタバンガーへ、たったの二日足らずの時間が、離人症に疲れきっていたぼくの神経を見事に生き返らせてくれたのだと思った。
ぼくはエイヤッとリュックを担ぎ直してスタバンガーの町を歩き出した。
さあ、ここからが正念場…
こんな中途半端な時期に仕事を探す大変さは覚悟の上。
とりあえずしばらくはYHに泊まって仕事を探し、どうしても無理ならデンマークまで下りる、という計画だった。
二か月分の給料はもらった。なんとか春までつなげばまた仕事の探しようもある…
それにしても、真冬の北欧漂泊、ちょっと無理があったかなあ、と、この二か月のことをぼくは苦笑気味に思い返した。
教会の屋根にまだらに残った雪が、春はもうそんなに遠くないんだよと言うように、そんなぼくを見下ろしていた。
ノルウェー滞在
ミョルフィエルYH:1964年12月〜65年2月
ベルゲン:1965年2月
スタバンガー:1965年2月〜3月
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