2006/05/06 - 2006/05/06
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片瀬貴文さん
西粟倉村に伝わる民話【5】「男でござる天野屋利兵衛(あまのやりへえ)」(続き)
西粟倉村教育委員会『にしあわくらの民話』から、天野屋利兵衛の話を続ける。
天野屋利兵衛は、討ち入りに使う、短くて幅の広い特別な刀の製造を大石内蔵助に依頼され、ここ粟倉のハガネに注目して、播州三木から刀鍛冶をつれてきた。
武器を造り、その仕上げの磨きに用いるヤスリには、播州徳久の庄より大量の磨草を求めました。
日夜、利兵衛は武器製造に職人と共にはげみました。
しかし、妻子、家人にいつまでも湯治と嘘を言ってはいられません。
時には、浪花の天野屋に帰り、家業を見ますが、男気のある利兵衛は、大石内蔵助から頼まれた武器のことが頭から去ることはありません。
利兵衛は、しばらく浪花にいると、また湯治と言っては家を後にいたします。
利兵衛があまり頻繁に湯治に出かけるため、ある日、妻のおかよが「何処の湯治場へ行がれますか……」と、尋ねますと、利兵衛は「但馬の若杉の村(今の兵庫県養父郡大屋町若杉の地)によい湯治場がある…」と答えたそうです。
この一言が、後日上杉家の密偵(スパイ)が但馬の里を偵察したとき役に立ちました。
密偵は、武器製造の噂は嘘であったと報告し、利兵衛が無事武器を造りおおせたという話も残されているそうです。
苦労は利兵衛だけではありません。
刀鍛冶職の人々も武器の仕上げまで、家に帰ることはできません。
時には三木の庄や家族のことを想い出し、若杉渓谷にたたずんで涙したことでしょう。
元禄15年(1702年)7月武器の搬出に苦労した利兵衛は、あれこれと考えあぐんだ上で、この地に繁茂する「茅」に武器を包み、山芋に似せて運搬することにしました。
赤穂浪士の義挙後.この地を「大茅」と言うようになったという人もいます。
本多肥後守・森伊豆守・脇坂淡路守の理解ある計らいによって、その領地・間道を抜け、室港より224里(陸路なら155里)を数十日かかり江戸まで運び、無事家老大石内蔵助に届けることができました。
徳川幕府の治政下、太平の時代に、武士も庶民も軟弱に流れ、人を助けることを忘れ、義を失った江戸中期、頃は元禄15年(1702年)12月14日。
降りしきる雪の中を、大石内蔵助の「山鹿流の陣太鼓」に導かれての仇討ちは、江戸市中に「忠臣蔵」として、大評判をまきおこしました。
仇討ちのかげには、利兵衛の深山幽谷での苦労があったのです。
利兵衛は、慶安5年(1652年)7月12日に生まれました。
幼名の直之は、浅野内匠頭長矩が祖父長直の「直」の一字をおくって名づけたと言うことです。
このように利兵衛は浅野家とは深い因縁があったのです。
さて、大石良雄は、武器を受け取った際、涙を流しながら利兵衛に.一片の色紙を贈りました。
この色紙は、今も菩提寺に宝物としてのこっているそうです。
「男でござる」の利兵衛も病には勝てず、享保12年(1727年)1月27日に75才でこの世を去りました。
東京都芝泉岳寺の赤穂浪土墓院の門前に、天野屋利兵衛の碑があり、京都府一条椿寺に、法正院空誉上斉善士しの幕碑があって、この地に義商天野屋利兵衛が眠っているそうです
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