2006/05/06 - 2006/05/06
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片瀬貴文さん
西粟倉村に伝わる民話【5】「男でござる天野屋利兵衛(あまのやりへえ)」(その一)
この村に伝わる民話を、西粟倉村教育委員会『にしあわくらの民話』から、二編紹介する。
むかし、ムカシ。
浪花思案橋詰(今の大阪市)に、表15間半(約28m)、奥行16間(約25m)という広大な角屋敷がありました。
屋号を天野屋と祢し、多くの大名屋敷の御用商人として、相当に繁栄しておりました。
天野屋の主人は代々『利兵衛』という名を世襲してきましたが、5代目利兵衛の時に、事業に失敗し、倒産の憂目に会ってしまいました。
そのときに救いの手をさしのべたのが、特殊製塩法により、相当量の塩を全国に売って裕福だった播磨赤穂藩でした。播州赤穂藩は、当時5万3千石の大名でありましたが、御川商人の一人、天野屋は男気があり、この人を失うことは可愛そうだと感じて資金援助をしました。
そして以後『赤穂塩』の販売を天野屋にも取り扱わせるようにしたそうです。
浅野の殿様の恩顧によって、再び天野屋は陽の昇るように栄え、浪速商人天野屋利兵衛の名を天下にとどろかせました。
そうこうするうちに、吉良上野介義央と浅野内匠頭長矩の江戸城松の廊下の刃傷事件(1701年)が起こりました。
この刃傷事件によって、浅野家は断絶します。
家老大石内蔵助良雄によってあだ討ちの計画が進められましたが、知恵者大石は、吉良邸討入りのとき普通の太刀では戦いにくいので、刀身が短く身幅の広い刀を作るべきと考え、利兵衛に頭を下げて製作を頼みました。
「よくぞ、この利兵衛ごとき者に……」と涙を流して、引き受ける利兵衛でした。
利兵衛は綿密に武器調達の地を探索いたしました。
かつて、利兵衛が商品として取扱ったなかに良質のハガネのあることを思い出し、調べると、”あわくらの里-若杉の村(西粟倉村)″であることが判りました。
この地は播州(兵庫県)にも越せ、草深い山奥にあって吉良家・上杉家の動静偵察の目をのがれる上にも好適の地であり、これ以外にないと決めました。
さて、次に利兵衛が頭を痛めたのが刀鍛冶職人てす。
歩いて歩いて求めたのが、播州三木の庄の刀鍛冶職人数名でした。
利兵衛自らも妻子、家人に湯治と祢して『若杉の村』に入り、武器造りの監督をしたそうです。
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