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 カサブランカ、ラバト、メケネス、ポルビレス、フェズ、ワルザザード、トウーリルト、アイト・ベン・ハッドウ、マラケシュ、アジャディーズ<br />              <br />  モロッコは面積710.850km2(日本の約1.9倍)の国土と約2762万人の人口を有する立憲君主国である。その国土のほぼ中央には、北部地域から南部地域へかけてリフ、モワイヤンアトラス、オートーアトラス、アンチアトラスという四つの山脈が走っていてモロッコの気候条件を変化に富むものにしている。このうちオートアトラス山脈には四千m級の高い山が連なっており、モロッコの地勢を大きく二つに分けている。即ち、大西洋や地中海の沿岸部は肥沃な穀倉地帯を形成しているのに対し、山脈の南東側は荒涼たる砂漠と点在するオアシスで成り立っている。<br /><br /> 第二次世界大戦後フェズ条約の廃棄と独立の承認があって1956年にモロッコ王国が発足した。現在の国王はムハメド6世でアラウイー朝を継いでいる。1999年にハッサン前国王の逝去に伴い跡目を襲った現国王はまだ年は若いが精力的に国内を巡回し、敬虔なイスラム教徒である国民に人気が絶大であるという。奥方はベルベル人の美人らしいが、国民は誰もその顔貌を写真でですら拝したことがないという。情報社会では珍しいイスラム世界ならではの厳しい戒律である。<br /><br />  カサブランカはモロッコは勿論、マグレブ諸国でも最大の経済都市で人口約257万人である。アフリカではヨハネスブルグに次ぐ第二位の規模の港を有し燐鉱石や農産物の輸出港として栄えている。この街では海岸近くにあるハッサン2世モスクを見学した。<br /><br /> このモスクは前国王ハッサン2世が1986年から8年かけて1993年に完成させたもので20世紀最高の芸術作品である。その規模は敷地の広さが九ヘクタール、モスク内が二ヘクタールもあり、内外で十万人が収容できる巨大な建物は大きさにおいて世界第二位であるという。ミナレットの高さは200mにも及び、世界一の高さを誇っている。そして何よりも観客を驚かせるのはその規模の巨大なことはもとより、施された彫刻の美しい緻密なアラビック模様である。モロッコ全土から四千人の職人を集めて作られたというが、その費用は信徒の寄付金と税金でまかなわれているところが、いかにもイスラム社会の王国らしいと思った。<br /><br />  カサブランカの街を駆け足で通り抜けて、車は一路首都ラバトへ向かったカサブランカからラバトへ向かう高速道路沿いの街路樹はユーカリの木が多く、木立の間には黄色いミモザの花が咲き乱れ、一面に緑の萌える畑にはオリーブの木が茂り、折からアーモンドの花が桜と紛うかのように咲き乱れていた。二月とはいえ、もうこの地は春爛漫の風情である。<br /><br />  ラバトはモロッコの首都であり、王宮を始め行政機関や各国大使館が広大な敷地を控えて立ち並び、高級住宅街とともに近代的で西欧的な佇まいの綺麗な街並みを形成している。人口は二百万人で1912年に首都となった。ここでは王宮とハッサンの塔とモハメッド五世廟を見学した。<br /><br /> 王宮は現国王モハメッド6世とその家族が住んでおり、17世紀に出来たという白い壁の門に緑色の屋根が一際鮮やかに映えていた。 門前には赤色、青色、灰色、白色の制服を纏った警備の人々が立ち並んでいた。それぞれ近衛兵、警察官、軍人、使用人であるという。その配色が建物とよく調和していて美しいと思った。<br /><br /><br /> ハッサンの塔は未完のミナレット(祈祷塔)である。1195年にムワヒッド朝のヤクーブ・マンスールがモスク建設に乗り出したのであるが、彼が戦死したので工事は中断した。この塔の高さは44mしかないが、実際には88mになる予定であったという。未完ではあるが、ミナレットとしてはセビリアのヒラルダの塔(93m)、マラケシュのクトゥピアの塔(67m)に次いで世界第3位の高さを誇っている。この塔にはスペインムーア様式が見られる貴重な遺産である。1755年の大地震で塔の前の建物は壊れ柱だけが残って立ち並んでいて恰も古代遺跡を見学する趣である。<br /><br /><br />  ラバトも駆け足で通り抜け、メケネスへ向かった。ここでは昼食に烏賊の中に米を入れて煮た料理を食べた。ラバトからメケネスへ向かう道路の両側にコルク樫の林が大きく広がっているのを目撃した。立ち木の下の部分が長さ2mくらいずつ表皮を剥がれて立ち並んでいる林の姿は一寸異様な雰囲気を漂わせていた。世界有数のコルクの産地であるという。田畑は緑豊かでいかにも肥沃に富んでいるように見え菜の花が黄色く咲いて緑とその鮮やかさを競っていたし、アーモンドのピンク色の花が彩りを増していた。しかしながら田畑に点在する農家の建物は茶色の日干し煉瓦と壁土とで作られた箱型の建物でなんの趣も感じられない単純なものが多かった。<br /><br /><br />  メケネスの町は10世紀頃ベルベル人が開いた町で現在の人口は約60万人でありモロッコ有数の農業地帯である。この町の最盛期は17世紀にアラウイー朝のムーレイ・スマイルが古い建物を壊しヴェルサイユ宮殿に対抗できる豪華な王国を建設しようと夢見て、数多くの城壁や門、モスクを建設した。<br /><br /><br />  特に有名なものにマンスール門がある。イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したのでこの名前がついた。北アフリカで最も美しい門だと言われている。<br /><br />  メディナの中のレストランで昼食を済ませるとマンスール門をカメラに納めて、次の目的地ボルビレスへ向かった。<br /><br />  単調な田舎道を暫く走行すると野原の中の小高い丘の上に広がるヴォルビリス遺跡へ到着した。今までイスラム一色に彩られたモロッコの風物の中に浸りきっていた我々観光客の目には、一寸異質な感じを与えるローマの遺跡でギリシャやローマやトルコでよく見られるキリスト教徒の遺物である。元来この地には紀元前2世紀の頃からモーリタニア王国の人々が住んでいて、ワリーリと呼ばれていた。ローマ人達は版図を広げるにつれ、この地へもやってきて紀元前40年頃ローマの属領となったのである。最盛期には15,000人〜20,000人のローマ人達が住み、凱旋門や神殿、公共浴場等の美しい建物が沢山建てられた。しかし3世紀末にはベルベル人の侵略にあって次第に衰退しやがてローマ人達はここを撤退した。その後8世紀にはムーレイ・イドリスの支配下に置かれイスラムの町となったが、1755年のリスボン大地震で崩壊し廃墟となってしまった。邸宅内の風呂場や部屋の床や壁面に使われていたモザイク絵なども発掘されて当時の生活を偲ぶことができる。ヘラクレスの功業を讃える邸跡にあったモザイク絵の一部は現地に残されて展示されている。<br /><br /> フェズは人口百万人のモロッコ第三の都市であるが、ムーレイ・イドリスにアラブ人として最初に王朝を開いたムーレイ・イドリス1世の子供ムーレイ・イドリス2世が808年に創設したモロッコ最古の都である。爾来1200年もの歴史を持つ古都はモロッコの思想・宗教・芸術の中心地で、9世紀に出来たフェズ・エル・バリ(旧市街)と13世紀にできたフェズ・ジャディト(新市街)とフランス統治下の20世紀に出来たヌーベル・ヴイル(新新市街)の三つの地区に分かれている。そして旧市街はメディナとも呼ばれ、世界最大且つ最難儀の迷路であり、中世のイスラム社会の生活の趣を今に伝えている。<br /><br />  最初王宮を訪問した。ここは現国王のフェズにおける居城で新市街の南側に位置して金色の正門と緑色の屋根の対比が鮮やかである。たまたま近く国王の行啓があるとのことで、王宮職員達がレモンの果実で金の装飾を磨いていた。<br /><br /><br />  次にフェズ市街の全貌を俯瞰するため南側の丘に登った。ここには古い城砦があり狼煙台跡等も残っていた。フェズは最初、旧市街の中程を流れるフェズ川の右岸に当たるカラウイン地区に人々が住みつき市街地を形成した。次いで川の左岸にスペインのアンダルシアから撤退してきた人々が住みつき市街地を作り上げアンダルシア地区と呼ばれるようになった。フェズ川は現在道路になっていて見ることは出来ないが、今も道路の下を流れており、フェズの生活や産業の重要な水資源となっている。<br /><br />  市街地の全貌を頭に入れておいてからブージュルド門からメディナの中へ入り、アンダルシアモスク、カラウィンモスク、イスラム神学校(メデルサ・アタリン)、染色工場(ダッバーギーン)、織物工房、民族衣装店、彫金細工店と見て廻った。<br /><br /> 何しろ狭い路地の両側の壁面には一坪程の面積の店に商品をこぼれんばかりに積み上げて商人達が目白押しに並んでさまざまな生活物資の店を出している。その路地を沢山の人々が肩を擦れ合うようにして往来しており,荷駄を積んだ驢馬までが行き来しているのだから一種独特の熱気と臭気と雰囲気が漂っている。<br /><br /> 路面には驢馬の垂れ流した糞尿が散らばっているし、道端には老人が椅子に腰掛けて所在なげに道行く人々を眺めている上、欧米人や日本人観光客の団体がぞろぞろと物珍しげに店屋を覗きながら通り抜ける。<br /><br /> 日本人と見ると店員達は親しげに怪しげな日本語で「今日は」「ありがとう」「貧乏」「さよなら」などと話しかけてくる。まさに猥雑と活気とある種の倦怠が混沌として入り混じり、メディナの雰囲気を作り出している。仲間からはぐれたら絶対に一人歩きは出来ない網の目のような迷路である。その上掏摸が多いと聞かされているので、懐中物にも気を配らなければならないし、狭い階段の昇り降りには足元に気をつけなければならず,おまけに小雨が降っているので足元が滑りやすく緊張の連続であった。ガイドが狭い門を潜るのでこれについて行くと突然広い空間が目の前に開けそこがモスク内であることを初めて理解する。ガイドが立ち止まって説明するだけの空間が路地にはないのである。<br /><br />  メディナ内の見学をしていて最も驚いたのはある狭い門の前でミントの葉を渡された時である。前の人が受け取っているので不審に思いながらこれを手にして狭い薄暗い階段を登っていくと、革細工が沢山並んでいる。ははあ革製品の土産物屋へ案内されたなと思いながらなおも商品の並んだ店内の狭い通路を進んでいくと突然強烈な死臭が鼻をつき、目前下方に広い空間が開け、風呂桶のような色とりどりの容器が無数に並んでいた。容器の中では半裸体の男達がせっせと動物の革を染料液の中につけて足で踏みつけているのである。フェズ市の共同染色工場(ダッバーギーン)であった。<br /><br /> 死臭を嗅いだ時初めて門前で手渡されたミントの葉の束の意味が理解できた。その光景は強烈なインパクトを私の頭へたたき込んだ。劣悪な労働環境ではあるが何となく懐かしい風物詩を見るような思いで暫く異臭に耐えながら見とれていた。先程通り抜けたメディナの路地脇の小さな店内でせっせと革細工職人の手伝いをしていたまだあどけない童顔の少年達の姿がそこに重なった。この国ではまだ労働基準法も児童福祉法も関係のない生活が当然のこととして中世の生活そのままに営まれているのである。<br /><br />  やがて昼食の時間となりレストランに入ったが、これも路地の中の狭い玄関口を通って店内へ入ると意外に思われる程広い空間が開け、贅を凝らしたアラビック模様の施された壁面や柱が我々を迎えた。考えてみると例えば京都などでも間口は狭く奥行きの深いいわゆる鰻の寝床式の店舗は沢山残っており、時の権力者と一緒の町に生活する商人の知恵がしからしめたものであった。これと同様の思考形式でこうした古都のレストランも作られたのであろうか。東西の商人のしたたかさを垣間見る思いであった。<br /><br />  今日の日程の最後に今度は朝とは反対の北側の丘に登り再度フェズの街並みを展望した。一度市街地を通り抜けているので、街中の喧騒と猥雑を思い出しながら眺めていた。<br /><br /> 翌日は移動日である。およそ420km走行して砂漠の入り口の町エルフードまでの旅程である。朝8時半にホテルを出発して先ずアトラス山脈の麓の町イフレンへ向かった。ここは1600mの高地にある避暑地である。瀟洒な建物が多く今までのイスラム世界でみてきた風景とは一変してどこのリゾート地でもよく見かける建物が沢山広い敷地の中に建っていた。ここはモロッコの中のスイスという別名があるらしい。 こんな光景をみているとここがイスラム世界であることを忘れそうである。<br /><br /><br />  昼食はアトラス山脈の山と山の合間にある町ミゼルトでとった。ここは黒大理石の産地でアンモナイト等古生代の化石を含んだ石が産出される。ここで大理石の加工工場を見学した。今まで見た家内制手工業の工房とは異なって近代的な石材の切断機や研磨機が設置されている工場であった。とはいっても設備だけが光って見える粗末な建物であり、あくまで町工場の域を出ない種類のものであった。ここでは細長い貝の化石を沢山含んだ大理石やアンモナイトの入った石が珍しかった。<br /><br /><br />  昼食後アトラス山脈を超えた。途中アトラス杉の繁る森で下車して森林浴を楽しんだ。樹齢二百年もの見事な杉もみることができた。折から2〜3日前に降った雪が溶けずに日陰に白く残っていた。<br /><br />  ザード峠2170m、タルゴム峠1907mを越えると景色は一変する。そこには荒涼とした土塊の山々や砂漠が控えている。川が流れている所にはナツメヤシの生い茂るオアシスが開けている。荒涼たる岩山の間を走行したときの光景はカラコルムハイウエイで見た光景と似通っていた。<br /><br /><br /><br /> 日の出を砂丘で見るというのが今日の旅程の眼目であるから、朝は早かった。4時半にモーニングコールがかかり、5時半には4WDに分乗してまだ真っ暗の中をメルズーカ砂漠へ向けて出発した。次第に夜が開けてくるに従い砂漠の広大さが判るようになる。30分程走行すると駱駝が屯している一角に到着した。<br /><br /> ここで希望者は駱駝に乗って砂丘を小高い丘になっているメズルーガ大砂丘まで遊覧するのである。私はチュニジアで乗った経験があるので歩くことにした。このころになると空もようやく白みだして人や駱駝の姿がはっきり見えるようになる。<br /><br /> 駱駝の一隊と歩行者の集団が歩きだすと驚いたことに、駱駝の群れと一緒に屯していた男達が一斉に歩行者の集団に襲いかかってきた。砂丘は歩きにくいから手を引いてやろうというのである。失業率25バーセントというこの国では観光客はなにかにつけ、仕事の種と目されているのである。手をひくことによりチップを期待するし、掘り出した砂漠の薔薇やアンモナイトの化石等を売りつけて商売をしようとの魂胆なのである。<br /><br /> ヘルパーと称するこの種の人間が沢山いるから注意するようにとの予備知識があるから、彼等の思惑通りにはならない。しかし、そのうち普段歩き慣れていない女性等は次第に彼らの手助けを借りるようになってくる。するとそれにつけ込んで、物陰に連れ込み法外な値段で土産物を売りつけようとしたりする。砂の上は足をとられてなかなか歩きにくい。特に坂道になると歩行の困難さは増すばかりである。それでも彼らの思惑通りになるのも癪なので、転びそうになっても決して彼らが差し出す手に掴まることはせず、最後まで一人で歩きついに丘の上までたどりついた。7時に10分程前である。待つこと約10分、とても寒く風は凍てつくように冷たい。<br /><br /> やがて東の空が赤く染まりだして、太陽が顔を覗かせた。感激の一瞬である。一旦顔を出すと日の上がるのはとても早い。みるみるうちに大きくなって正視できない程眩しくなってくる。幸いビデオカメラのファインダーを通してみていると眩しくなく太陽が中天に昇るまで観察することができた。その頃には、はやくも帰路を急ぐ行列が出来始めた。<br /><br /><br />  再び4WDに分乗してホテルへ帰り遅い朝食をとった後、長駆ワルザザートまでの通称カスバ街道をバスドライブである。途中モロッコのグランドキャニオンとも呼ばれるトドラ渓谷に立ち寄り昼食をとった。切り立った断崖の下に開けたオアシスの町である。日向にいれば感じないが日陰になるととても寒い。砂漠の大陸性気候というものの厳しさが肌身を通して実感できたと思った。この後は限りなく続く広大な砂漠の中をワルザザードまでひた走った。<br /><br /> 途中地下水脈が通っている箇所に掘られた井戸を見学した。たまたま水汲みにきていた少女にカメラを向けるとたちまち1ドルと言われてしまった。 キンチディザードという町で小休止し、キンディールで昼食をとった他はただひた走る移動の一日であった。<br /><br /> 夕方ワルザザートに到着した。この町は人口7万人の町で外人部隊の駐屯地として1923年に開かれ、映画産業と砂漠観光の拠点地として発展してきた。現在はモロッコ軍が駐屯しており、軍用施設が沢山存在している。散歩の途中スーパーマーケットを見つけたのでワインを探しによってみたが、アルコール類は一切置いてなかった。ビスタシオとキャンデーと水だけを求めた。イスラムの国の田舎町でアルコール飲料を求めようとすること自体がどだい無理な話なのであろうか。<br /><br /> 今朝はゆっくりしていて、9時50分にホテルを出発した。いくらも走行しないうちにトゥーリルトのカスバへ到着した。カスバとは支配者の居住地のことで、メディナの内外を監視するための城塞を言う。メディナの一角に存在する場合と地方の小さな砦や地方官の邸そのもの、またはそれらのある高い城壁で囲まれた町全体をいう場合がある。トゥーリルトのカスバは後者のほうである。<br /><br /> このカスバはかつてマラケシュのフランス軍司令官ゲラウェイが住んでいたところとしてまた映画「シェリタリングスカイ」の舞台となったことで有名である。彼はこのほかにも映画「アラビアのローレンス」のロケに使われたティフルトートのカスバも所有していた。現在はホテル、レストランとして使われている。我々はどちらも入場はせず全景をカメラに納めただけで通り過ぎた。所有者であったゲラウェイなる人物は20世紀初頭のこの地方の部族の首長であるが、フランス軍がモロッコ南部の治安を維持するために諸部族の首長の地位を保全する政策をとった際に重用されたのである。<br /><br />  ワルザザートの西方33kmの地点にアイト・ベン・ハッドウという村がある小川のほとりの丘全体を利用して作られたクサル(村全体が要塞化されたもの)と呼ばれるカスバで保存状態は極めて良好であり、モロッコで一番美しい村と言われている。 この村には現在僅か5家族だけしか住んでいないが「アラビアのローレンス」「ソドムとゴジラ」「ナイルの宝石」等のロケに使われた。ここでは中へ入場し迷路のような坂道を頂上の穀物貯蔵庫まで登ってみたが、四囲を見渡せるロケーションは要塞としては絶好のものであり難攻不落を誇っていたというのも頷ける。世界遺産に登録されて補修作業も行われていた。<br /><br /> アイト・ベン・ハッドゥで昼食をとってからは再びマラケシュ目指して長い道程のバスドライブが続いた。<br /><br />  砂漠の中のドライブが暫く続きバスは次第に高度を上げていった。オートアトラス山脈山中へ入ったのである。ヘヤピンカーブの続く荒涼たる禿げ山をどんどん高度を高めながら標高2260mのティシュカ峠に差しかかったこんな所にと思える道端に陶器の壺やアンモナイトの化石が並べられている峠で小休止する観光客目当てに土産物屋が行商にきているのである。商品は平地から仕入れて肩に担ぎ運んだのであろうか、或いは高地にも窯元があるのだろうか。その辺は謎として残った。<br /><br />  テイシュカ峠を越えた途端に周囲の景色はがらりと変わる。今まで禿げ山だったのが大小の樹木が生い茂る緑豊かな山々に変貌するのである。そのあまりにも劇的な変化にアトラス山脈がモロッコの気候風土に与えている絶大な影響力を如実に見る思いであった。大西洋や地中海で発生した雨雲はこのアトラス山脈に遮られて西側に雨を降らせ、乾燥した空気だけが東側へ吹き抜け砂漠地帯には殆ど雨が降らないという図式が想定されるのである。造化の神の悪戯とすれば、神は砂漠の民に対してあまりにも意地悪である。<br /><br /> マラケシュのガイドはアラビア人とベルベル人の混血であるマジードさんという33歳の男性であった。彼は9か月間書物だけで日本語を独習したと言っていたが、意味が通じる程度の怪しい日本語を喋る。近時日本人観光客が増えたのに着目して、日本語を独習してガイドになった彼は現在受けに入っているようだ。それにしても必要に迫られやる気になれば一見不可能に思えることでも可能にすることができるという仮説を立証するような人物であった。<br /><br />  マラケシュではクトゥピア、サアード朝の墳墓、アグダル庭園、バヒーア宮殿、メナラ庭園、ムアシンの泉、スーク、ジャマ・エル・フナ広場を見学した。<br /><br /> クトゥピアはマルケシュのランドマークとなるミナレット(祈祷塔)である。高さ77mの塔はムーア様式の建築でアールモラヒド王朝のヤール・エル・マンスール王の時の1192年に完成した。<br /><br />  サアード朝の墳墓にはこの王朝のスルタンやその家族や召使等大小二百人もの墓が安置されている。霊廟は三つの部屋で構成されていて木や漆喰に施された彫刻が素晴らしく、スペイン・ムーア様式の傑作と言われている。最初の部屋はミヒラブと呼ばれるメッカの方向を表す窪みのある礼拝堂である次の部屋は12本の大理石の柱が木や漆喰でできたアーチを支えていてアーメド・エル・マンスール王とその嫡出の息子や孫達が埋葬されている。三つ目の部屋にはエル・マンスールの非嫡出の子供達と彼の母堂ララ・メッサウダの墓が安置されていて、霊廟の外側は薄いピンク色に塗られている。この霊廟は16世紀に建てられたが、アラウィーン朝のムーレイ・イスマイル(1672〜1727年の在位)によって壁が築かれその存在が秘匿されていた。1917年になって壁が壊され霊廟の存在が世に知られるようになった。<br /><br />  バヒア宮殿は19世紀に開設されたものでメラー(ユダヤ人街)の北側にあり、豪華な装飾の大広間や愛妾用の会議室と個室には彩り鮮やかなタイルが張られ、アトラスシーダー材の天井は船底型になっていて細密画が描かれている。壁や柱の様式はアルハンブラ宮殿に勝るとも劣らない芸術作品である メナラ庭園はメディナの城壁の西側にあり、広大な庭園は12世紀のアルモハッド朝時代に造園されたもので、オリーブの木が繁っている。中央の湖を思わせる大きな貯水池の畔にはスルタン達が逢瀬を楽しんだバビリオンが建っている。<br /><br />  スーク(市場)の雰囲気はフェズで体験済であったが、狭い路地の中を犇き合いながら通り抜ける醍醐味はモロッコのスークならではの独特のものがある。ここでも鍛冶屋地区を通り抜けたが足場もないほどに金属材料や、製品が置かれている狭い店先の作業場ではいたいけな童顔の少年達が溶接の火花が飛び散ったり、グラインダーの排出する削り粉が宙を舞っている劣悪極まる作業環境の中で黙々と働いている姿が痛々しかった。<br /><br />  最後に訪れたのは気違い広場、大道芸人広場とも呼ばれている、ジャマ・エル・フナ広場である。我々が訪れた時はまだ陽も高く、広場にはアクロバットや蛇使いなどの大道芸人が芸を演じては観客を集めていた。観光客はいい鴨にされ、狙い撃ちされていた。観光客が興味を持って立ち止まり眺め始めるとすかさず、箱や帽子が廻ってきてチップをねだられるのである。食べ物を売る屋台店も立ち並び初めていた。広場近くのレストランの屋上展望席に入りジュースを飲みながら暫く群衆の動きを見ていたが飽きない面白さがあった。日暮れに近付くにつれ恰も地から湧き出るかのように人の数が増えてきて、夥しいとしかいいようのない群衆が広場を思い思いの方向へ往来するのである。或いは大道芸人を囲む輪の中に消え、或いは屋台の前で買い物をして楽しそうにぱくついていたりするのである。ここにも喧騒と猥雑が同居してマラケシならではの光景をつくりだしていた。<br /><br /> マラケシュのホテルを8時半に出発して大西洋沿岸の都市アルジャディーナを目指した。ここには大航海時代にポルトガル人が開いた城塞が残されているのである。<br /><br /> 緑豊かな田園地帯を走行しているとコンクリートの円柱を半割りにして田畑の畦に敷設した灌漑設備が縦横に走っている光景によく出くわす。灌漑設備のかたわらでは水を容器に受けて洗濯に余念のない農婦の姿も散見されるその周囲には野の花が咲き乱れているし放牧された羊や牛の群れがのんびりと草を食んでいた。農道には驢馬に荷駄を満載した車を引かせて農民が往来している。まことにのどかな田園風景である。<br /><br />  そのうちトラックや乗用車や馬車や驢馬が沢山駐留して大勢の人々が集まっているのを目撃した。これは火曜日ごとに開かれる青空市場だという。農家は自家製の農産物を持ち込むし、商人は日曜生活物資を持ち込んで農民相手に商いをするのである。原初的形態の物資の交換流通の最も単純な市場が開かれているのである。仕入れが終わって驢馬車に家族を乗せて帰路を急ぐ農民の姿がそちこちに見られた。<br /><br />  バスはやがて大きな集落に到着した。前方には海が広がっている。大西洋岸のアルジャディーダである。この町は16世紀に貿易の基地としてポルトガル人によって開かれ、250年間彼らが居住した西欧風の街並みが城塞の中に残されている。雨水を蓄えるための大きな貯水槽やカトリックの教会、ユダヤ人の教会であるシナゴーグなどの建物も今は使われていないが史跡として残っている。訪れる人もないユダヤ人の墓地も残っていて人の世の移り変わり、栄枯盛衰を思わせる。<br /><br />  旅の終わりにあたり、旅行中知り得たモロッコ事情を注記しておくことにする。<br /><br />  モロッコは農業国であり、主たる農産物は玉蜀黍、大麦、小麦、オリーブじゃが芋、煙草、人参、オレンジ、葡萄などである。<br /><br />  次に収入源となっているのは観光収入であり、年間200万人の海外からの観光客を迎える。三番目には出稼ぎ労働者からの送金である。四番目には漁業によるもので鰯の収穫が多い。五番目に鉱物資源があり、燐鉱石は世界の生産高の17パーセントを産出している。六番目は石油資源である。<br /><br />  国民の所得水準は一例として大学卒業の学校の先生の月給は月500〜700$である。失業率は25%にも及び大学を卒業しても就職出来ないことが多く外国特にフランスやカナダ、アメリカに渡るケースが多い。<br /><br />  1982年に徴兵制は廃止され志願兵制になったが、志願者は多く軍は魅力ある就職先と考えられている。<br />

日の没する沙漠の国にも雪が降る

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2001/02/13 - 2001/02/21

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23

早島 潮

早島 潮さん

 カサブランカ、ラバト、メケネス、ポルビレス、フェズ、ワルザザード、トウーリルト、アイト・ベン・ハッドウ、マラケシュ、アジャディーズ
              
モロッコは面積710.850km2(日本の約1.9倍)の国土と約2762万人の人口を有する立憲君主国である。その国土のほぼ中央には、北部地域から南部地域へかけてリフ、モワイヤンアトラス、オートーアトラス、アンチアトラスという四つの山脈が走っていてモロッコの気候条件を変化に富むものにしている。このうちオートアトラス山脈には四千m級の高い山が連なっており、モロッコの地勢を大きく二つに分けている。即ち、大西洋や地中海の沿岸部は肥沃な穀倉地帯を形成しているのに対し、山脈の南東側は荒涼たる砂漠と点在するオアシスで成り立っている。

 第二次世界大戦後フェズ条約の廃棄と独立の承認があって1956年にモロッコ王国が発足した。現在の国王はムハメド6世でアラウイー朝を継いでいる。1999年にハッサン前国王の逝去に伴い跡目を襲った現国王はまだ年は若いが精力的に国内を巡回し、敬虔なイスラム教徒である国民に人気が絶大であるという。奥方はベルベル人の美人らしいが、国民は誰もその顔貌を写真でですら拝したことがないという。情報社会では珍しいイスラム世界ならではの厳しい戒律である。

カサブランカはモロッコは勿論、マグレブ諸国でも最大の経済都市で人口約257万人である。アフリカではヨハネスブルグに次ぐ第二位の規模の港を有し燐鉱石や農産物の輸出港として栄えている。この街では海岸近くにあるハッサン2世モスクを見学した。

 このモスクは前国王ハッサン2世が1986年から8年かけて1993年に完成させたもので20世紀最高の芸術作品である。その規模は敷地の広さが九ヘクタール、モスク内が二ヘクタールもあり、内外で十万人が収容できる巨大な建物は大きさにおいて世界第二位であるという。ミナレットの高さは200mにも及び、世界一の高さを誇っている。そして何よりも観客を驚かせるのはその規模の巨大なことはもとより、施された彫刻の美しい緻密なアラビック模様である。モロッコ全土から四千人の職人を集めて作られたというが、その費用は信徒の寄付金と税金でまかなわれているところが、いかにもイスラム社会の王国らしいと思った。

カサブランカの街を駆け足で通り抜けて、車は一路首都ラバトへ向かったカサブランカからラバトへ向かう高速道路沿いの街路樹はユーカリの木が多く、木立の間には黄色いミモザの花が咲き乱れ、一面に緑の萌える畑にはオリーブの木が茂り、折からアーモンドの花が桜と紛うかのように咲き乱れていた。二月とはいえ、もうこの地は春爛漫の風情である。

ラバトはモロッコの首都であり、王宮を始め行政機関や各国大使館が広大な敷地を控えて立ち並び、高級住宅街とともに近代的で西欧的な佇まいの綺麗な街並みを形成している。人口は二百万人で1912年に首都となった。ここでは王宮とハッサンの塔とモハメッド五世廟を見学した。

 王宮は現国王モハメッド6世とその家族が住んでおり、17世紀に出来たという白い壁の門に緑色の屋根が一際鮮やかに映えていた。 門前には赤色、青色、灰色、白色の制服を纏った警備の人々が立ち並んでいた。それぞれ近衛兵、警察官、軍人、使用人であるという。その配色が建物とよく調和していて美しいと思った。


ハッサンの塔は未完のミナレット(祈祷塔)である。1195年にムワヒッド朝のヤクーブ・マンスールがモスク建設に乗り出したのであるが、彼が戦死したので工事は中断した。この塔の高さは44mしかないが、実際には88mになる予定であったという。未完ではあるが、ミナレットとしてはセビリアのヒラルダの塔(93m)、マラケシュのクトゥピアの塔(67m)に次いで世界第3位の高さを誇っている。この塔にはスペインムーア様式が見られる貴重な遺産である。1755年の大地震で塔の前の建物は壊れ柱だけが残って立ち並んでいて恰も古代遺跡を見学する趣である。


ラバトも駆け足で通り抜け、メケネスへ向かった。ここでは昼食に烏賊の中に米を入れて煮た料理を食べた。ラバトからメケネスへ向かう道路の両側にコルク樫の林が大きく広がっているのを目撃した。立ち木の下の部分が長さ2mくらいずつ表皮を剥がれて立ち並んでいる林の姿は一寸異様な雰囲気を漂わせていた。世界有数のコルクの産地であるという。田畑は緑豊かでいかにも肥沃に富んでいるように見え菜の花が黄色く咲いて緑とその鮮やかさを競っていたし、アーモンドのピンク色の花が彩りを増していた。しかしながら田畑に点在する農家の建物は茶色の日干し煉瓦と壁土とで作られた箱型の建物でなんの趣も感じられない単純なものが多かった。


メケネスの町は10世紀頃ベルベル人が開いた町で現在の人口は約60万人でありモロッコ有数の農業地帯である。この町の最盛期は17世紀にアラウイー朝のムーレイ・スマイルが古い建物を壊しヴェルサイユ宮殿に対抗できる豪華な王国を建設しようと夢見て、数多くの城壁や門、モスクを建設した。


特に有名なものにマンスール門がある。イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したのでこの名前がついた。北アフリカで最も美しい門だと言われている。

メディナの中のレストランで昼食を済ませるとマンスール門をカメラに納めて、次の目的地ボルビレスへ向かった。

単調な田舎道を暫く走行すると野原の中の小高い丘の上に広がるヴォルビリス遺跡へ到着した。今までイスラム一色に彩られたモロッコの風物の中に浸りきっていた我々観光客の目には、一寸異質な感じを与えるローマの遺跡でギリシャやローマやトルコでよく見られるキリスト教徒の遺物である。元来この地には紀元前2世紀の頃からモーリタニア王国の人々が住んでいて、ワリーリと呼ばれていた。ローマ人達は版図を広げるにつれ、この地へもやってきて紀元前40年頃ローマの属領となったのである。最盛期には15,000人〜20,000人のローマ人達が住み、凱旋門や神殿、公共浴場等の美しい建物が沢山建てられた。しかし3世紀末にはベルベル人の侵略にあって次第に衰退しやがてローマ人達はここを撤退した。その後8世紀にはムーレイ・イドリスの支配下に置かれイスラムの町となったが、1755年のリスボン大地震で崩壊し廃墟となってしまった。邸宅内の風呂場や部屋の床や壁面に使われていたモザイク絵なども発掘されて当時の生活を偲ぶことができる。ヘラクレスの功業を讃える邸跡にあったモザイク絵の一部は現地に残されて展示されている。

 フェズは人口百万人のモロッコ第三の都市であるが、ムーレイ・イドリスにアラブ人として最初に王朝を開いたムーレイ・イドリス1世の子供ムーレイ・イドリス2世が808年に創設したモロッコ最古の都である。爾来1200年もの歴史を持つ古都はモロッコの思想・宗教・芸術の中心地で、9世紀に出来たフェズ・エル・バリ(旧市街)と13世紀にできたフェズ・ジャディト(新市街)とフランス統治下の20世紀に出来たヌーベル・ヴイル(新新市街)の三つの地区に分かれている。そして旧市街はメディナとも呼ばれ、世界最大且つ最難儀の迷路であり、中世のイスラム社会の生活の趣を今に伝えている。

最初王宮を訪問した。ここは現国王のフェズにおける居城で新市街の南側に位置して金色の正門と緑色の屋根の対比が鮮やかである。たまたま近く国王の行啓があるとのことで、王宮職員達がレモンの果実で金の装飾を磨いていた。


次にフェズ市街の全貌を俯瞰するため南側の丘に登った。ここには古い城砦があり狼煙台跡等も残っていた。フェズは最初、旧市街の中程を流れるフェズ川の右岸に当たるカラウイン地区に人々が住みつき市街地を形成した。次いで川の左岸にスペインのアンダルシアから撤退してきた人々が住みつき市街地を作り上げアンダルシア地区と呼ばれるようになった。フェズ川は現在道路になっていて見ることは出来ないが、今も道路の下を流れており、フェズの生活や産業の重要な水資源となっている。

市街地の全貌を頭に入れておいてからブージュルド門からメディナの中へ入り、アンダルシアモスク、カラウィンモスク、イスラム神学校(メデルサ・アタリン)、染色工場(ダッバーギーン)、織物工房、民族衣装店、彫金細工店と見て廻った。

 何しろ狭い路地の両側の壁面には一坪程の面積の店に商品をこぼれんばかりに積み上げて商人達が目白押しに並んでさまざまな生活物資の店を出している。その路地を沢山の人々が肩を擦れ合うようにして往来しており,荷駄を積んだ驢馬までが行き来しているのだから一種独特の熱気と臭気と雰囲気が漂っている。

 路面には驢馬の垂れ流した糞尿が散らばっているし、道端には老人が椅子に腰掛けて所在なげに道行く人々を眺めている上、欧米人や日本人観光客の団体がぞろぞろと物珍しげに店屋を覗きながら通り抜ける。

 日本人と見ると店員達は親しげに怪しげな日本語で「今日は」「ありがとう」「貧乏」「さよなら」などと話しかけてくる。まさに猥雑と活気とある種の倦怠が混沌として入り混じり、メディナの雰囲気を作り出している。仲間からはぐれたら絶対に一人歩きは出来ない網の目のような迷路である。その上掏摸が多いと聞かされているので、懐中物にも気を配らなければならないし、狭い階段の昇り降りには足元に気をつけなければならず,おまけに小雨が降っているので足元が滑りやすく緊張の連続であった。ガイドが狭い門を潜るのでこれについて行くと突然広い空間が目の前に開けそこがモスク内であることを初めて理解する。ガイドが立ち止まって説明するだけの空間が路地にはないのである。

メディナ内の見学をしていて最も驚いたのはある狭い門の前でミントの葉を渡された時である。前の人が受け取っているので不審に思いながらこれを手にして狭い薄暗い階段を登っていくと、革細工が沢山並んでいる。ははあ革製品の土産物屋へ案内されたなと思いながらなおも商品の並んだ店内の狭い通路を進んでいくと突然強烈な死臭が鼻をつき、目前下方に広い空間が開け、風呂桶のような色とりどりの容器が無数に並んでいた。容器の中では半裸体の男達がせっせと動物の革を染料液の中につけて足で踏みつけているのである。フェズ市の共同染色工場(ダッバーギーン)であった。

 死臭を嗅いだ時初めて門前で手渡されたミントの葉の束の意味が理解できた。その光景は強烈なインパクトを私の頭へたたき込んだ。劣悪な労働環境ではあるが何となく懐かしい風物詩を見るような思いで暫く異臭に耐えながら見とれていた。先程通り抜けたメディナの路地脇の小さな店内でせっせと革細工職人の手伝いをしていたまだあどけない童顔の少年達の姿がそこに重なった。この国ではまだ労働基準法も児童福祉法も関係のない生活が当然のこととして中世の生活そのままに営まれているのである。

やがて昼食の時間となりレストランに入ったが、これも路地の中の狭い玄関口を通って店内へ入ると意外に思われる程広い空間が開け、贅を凝らしたアラビック模様の施された壁面や柱が我々を迎えた。考えてみると例えば京都などでも間口は狭く奥行きの深いいわゆる鰻の寝床式の店舗は沢山残っており、時の権力者と一緒の町に生活する商人の知恵がしからしめたものであった。これと同様の思考形式でこうした古都のレストランも作られたのであろうか。東西の商人のしたたかさを垣間見る思いであった。

今日の日程の最後に今度は朝とは反対の北側の丘に登り再度フェズの街並みを展望した。一度市街地を通り抜けているので、街中の喧騒と猥雑を思い出しながら眺めていた。

 翌日は移動日である。およそ420km走行して砂漠の入り口の町エルフードまでの旅程である。朝8時半にホテルを出発して先ずアトラス山脈の麓の町イフレンへ向かった。ここは1600mの高地にある避暑地である。瀟洒な建物が多く今までのイスラム世界でみてきた風景とは一変してどこのリゾート地でもよく見かける建物が沢山広い敷地の中に建っていた。ここはモロッコの中のスイスという別名があるらしい。 こんな光景をみているとここがイスラム世界であることを忘れそうである。


昼食はアトラス山脈の山と山の合間にある町ミゼルトでとった。ここは黒大理石の産地でアンモナイト等古生代の化石を含んだ石が産出される。ここで大理石の加工工場を見学した。今まで見た家内制手工業の工房とは異なって近代的な石材の切断機や研磨機が設置されている工場であった。とはいっても設備だけが光って見える粗末な建物であり、あくまで町工場の域を出ない種類のものであった。ここでは細長い貝の化石を沢山含んだ大理石やアンモナイトの入った石が珍しかった。


昼食後アトラス山脈を超えた。途中アトラス杉の繁る森で下車して森林浴を楽しんだ。樹齢二百年もの見事な杉もみることができた。折から2〜3日前に降った雪が溶けずに日陰に白く残っていた。

ザード峠2170m、タルゴム峠1907mを越えると景色は一変する。そこには荒涼とした土塊の山々や砂漠が控えている。川が流れている所にはナツメヤシの生い茂るオアシスが開けている。荒涼たる岩山の間を走行したときの光景はカラコルムハイウエイで見た光景と似通っていた。



 日の出を砂丘で見るというのが今日の旅程の眼目であるから、朝は早かった。4時半にモーニングコールがかかり、5時半には4WDに分乗してまだ真っ暗の中をメルズーカ砂漠へ向けて出発した。次第に夜が開けてくるに従い砂漠の広大さが判るようになる。30分程走行すると駱駝が屯している一角に到着した。

 ここで希望者は駱駝に乗って砂丘を小高い丘になっているメズルーガ大砂丘まで遊覧するのである。私はチュニジアで乗った経験があるので歩くことにした。このころになると空もようやく白みだして人や駱駝の姿がはっきり見えるようになる。

 駱駝の一隊と歩行者の集団が歩きだすと驚いたことに、駱駝の群れと一緒に屯していた男達が一斉に歩行者の集団に襲いかかってきた。砂丘は歩きにくいから手を引いてやろうというのである。失業率25バーセントというこの国では観光客はなにかにつけ、仕事の種と目されているのである。手をひくことによりチップを期待するし、掘り出した砂漠の薔薇やアンモナイトの化石等を売りつけて商売をしようとの魂胆なのである。

 ヘルパーと称するこの種の人間が沢山いるから注意するようにとの予備知識があるから、彼等の思惑通りにはならない。しかし、そのうち普段歩き慣れていない女性等は次第に彼らの手助けを借りるようになってくる。するとそれにつけ込んで、物陰に連れ込み法外な値段で土産物を売りつけようとしたりする。砂の上は足をとられてなかなか歩きにくい。特に坂道になると歩行の困難さは増すばかりである。それでも彼らの思惑通りになるのも癪なので、転びそうになっても決して彼らが差し出す手に掴まることはせず、最後まで一人で歩きついに丘の上までたどりついた。7時に10分程前である。待つこと約10分、とても寒く風は凍てつくように冷たい。

 やがて東の空が赤く染まりだして、太陽が顔を覗かせた。感激の一瞬である。一旦顔を出すと日の上がるのはとても早い。みるみるうちに大きくなって正視できない程眩しくなってくる。幸いビデオカメラのファインダーを通してみていると眩しくなく太陽が中天に昇るまで観察することができた。その頃には、はやくも帰路を急ぐ行列が出来始めた。


再び4WDに分乗してホテルへ帰り遅い朝食をとった後、長駆ワルザザートまでの通称カスバ街道をバスドライブである。途中モロッコのグランドキャニオンとも呼ばれるトドラ渓谷に立ち寄り昼食をとった。切り立った断崖の下に開けたオアシスの町である。日向にいれば感じないが日陰になるととても寒い。砂漠の大陸性気候というものの厳しさが肌身を通して実感できたと思った。この後は限りなく続く広大な砂漠の中をワルザザードまでひた走った。

 途中地下水脈が通っている箇所に掘られた井戸を見学した。たまたま水汲みにきていた少女にカメラを向けるとたちまち1ドルと言われてしまった。 キンチディザードという町で小休止し、キンディールで昼食をとった他はただひた走る移動の一日であった。

 夕方ワルザザートに到着した。この町は人口7万人の町で外人部隊の駐屯地として1923年に開かれ、映画産業と砂漠観光の拠点地として発展してきた。現在はモロッコ軍が駐屯しており、軍用施設が沢山存在している。散歩の途中スーパーマーケットを見つけたのでワインを探しによってみたが、アルコール類は一切置いてなかった。ビスタシオとキャンデーと水だけを求めた。イスラムの国の田舎町でアルコール飲料を求めようとすること自体がどだい無理な話なのであろうか。

 今朝はゆっくりしていて、9時50分にホテルを出発した。いくらも走行しないうちにトゥーリルトのカスバへ到着した。カスバとは支配者の居住地のことで、メディナの内外を監視するための城塞を言う。メディナの一角に存在する場合と地方の小さな砦や地方官の邸そのもの、またはそれらのある高い城壁で囲まれた町全体をいう場合がある。トゥーリルトのカスバは後者のほうである。

 このカスバはかつてマラケシュのフランス軍司令官ゲラウェイが住んでいたところとしてまた映画「シェリタリングスカイ」の舞台となったことで有名である。彼はこのほかにも映画「アラビアのローレンス」のロケに使われたティフルトートのカスバも所有していた。現在はホテル、レストランとして使われている。我々はどちらも入場はせず全景をカメラに納めただけで通り過ぎた。所有者であったゲラウェイなる人物は20世紀初頭のこの地方の部族の首長であるが、フランス軍がモロッコ南部の治安を維持するために諸部族の首長の地位を保全する政策をとった際に重用されたのである。

ワルザザートの西方33kmの地点にアイト・ベン・ハッドウという村がある小川のほとりの丘全体を利用して作られたクサル(村全体が要塞化されたもの)と呼ばれるカスバで保存状態は極めて良好であり、モロッコで一番美しい村と言われている。 この村には現在僅か5家族だけしか住んでいないが「アラビアのローレンス」「ソドムとゴジラ」「ナイルの宝石」等のロケに使われた。ここでは中へ入場し迷路のような坂道を頂上の穀物貯蔵庫まで登ってみたが、四囲を見渡せるロケーションは要塞としては絶好のものであり難攻不落を誇っていたというのも頷ける。世界遺産に登録されて補修作業も行われていた。

 アイト・ベン・ハッドゥで昼食をとってからは再びマラケシュ目指して長い道程のバスドライブが続いた。

砂漠の中のドライブが暫く続きバスは次第に高度を上げていった。オートアトラス山脈山中へ入ったのである。ヘヤピンカーブの続く荒涼たる禿げ山をどんどん高度を高めながら標高2260mのティシュカ峠に差しかかったこんな所にと思える道端に陶器の壺やアンモナイトの化石が並べられている峠で小休止する観光客目当てに土産物屋が行商にきているのである。商品は平地から仕入れて肩に担ぎ運んだのであろうか、或いは高地にも窯元があるのだろうか。その辺は謎として残った。

テイシュカ峠を越えた途端に周囲の景色はがらりと変わる。今まで禿げ山だったのが大小の樹木が生い茂る緑豊かな山々に変貌するのである。そのあまりにも劇的な変化にアトラス山脈がモロッコの気候風土に与えている絶大な影響力を如実に見る思いであった。大西洋や地中海で発生した雨雲はこのアトラス山脈に遮られて西側に雨を降らせ、乾燥した空気だけが東側へ吹き抜け砂漠地帯には殆ど雨が降らないという図式が想定されるのである。造化の神の悪戯とすれば、神は砂漠の民に対してあまりにも意地悪である。

 マラケシュのガイドはアラビア人とベルベル人の混血であるマジードさんという33歳の男性であった。彼は9か月間書物だけで日本語を独習したと言っていたが、意味が通じる程度の怪しい日本語を喋る。近時日本人観光客が増えたのに着目して、日本語を独習してガイドになった彼は現在受けに入っているようだ。それにしても必要に迫られやる気になれば一見不可能に思えることでも可能にすることができるという仮説を立証するような人物であった。

マラケシュではクトゥピア、サアード朝の墳墓、アグダル庭園、バヒーア宮殿、メナラ庭園、ムアシンの泉、スーク、ジャマ・エル・フナ広場を見学した。

 クトゥピアはマルケシュのランドマークとなるミナレット(祈祷塔)である。高さ77mの塔はムーア様式の建築でアールモラヒド王朝のヤール・エル・マンスール王の時の1192年に完成した。

サアード朝の墳墓にはこの王朝のスルタンやその家族や召使等大小二百人もの墓が安置されている。霊廟は三つの部屋で構成されていて木や漆喰に施された彫刻が素晴らしく、スペイン・ムーア様式の傑作と言われている。最初の部屋はミヒラブと呼ばれるメッカの方向を表す窪みのある礼拝堂である次の部屋は12本の大理石の柱が木や漆喰でできたアーチを支えていてアーメド・エル・マンスール王とその嫡出の息子や孫達が埋葬されている。三つ目の部屋にはエル・マンスールの非嫡出の子供達と彼の母堂ララ・メッサウダの墓が安置されていて、霊廟の外側は薄いピンク色に塗られている。この霊廟は16世紀に建てられたが、アラウィーン朝のムーレイ・イスマイル(1672〜1727年の在位)によって壁が築かれその存在が秘匿されていた。1917年になって壁が壊され霊廟の存在が世に知られるようになった。

バヒア宮殿は19世紀に開設されたものでメラー(ユダヤ人街)の北側にあり、豪華な装飾の大広間や愛妾用の会議室と個室には彩り鮮やかなタイルが張られ、アトラスシーダー材の天井は船底型になっていて細密画が描かれている。壁や柱の様式はアルハンブラ宮殿に勝るとも劣らない芸術作品である メナラ庭園はメディナの城壁の西側にあり、広大な庭園は12世紀のアルモハッド朝時代に造園されたもので、オリーブの木が繁っている。中央の湖を思わせる大きな貯水池の畔にはスルタン達が逢瀬を楽しんだバビリオンが建っている。

スーク(市場)の雰囲気はフェズで体験済であったが、狭い路地の中を犇き合いながら通り抜ける醍醐味はモロッコのスークならではの独特のものがある。ここでも鍛冶屋地区を通り抜けたが足場もないほどに金属材料や、製品が置かれている狭い店先の作業場ではいたいけな童顔の少年達が溶接の火花が飛び散ったり、グラインダーの排出する削り粉が宙を舞っている劣悪極まる作業環境の中で黙々と働いている姿が痛々しかった。

最後に訪れたのは気違い広場、大道芸人広場とも呼ばれている、ジャマ・エル・フナ広場である。我々が訪れた時はまだ陽も高く、広場にはアクロバットや蛇使いなどの大道芸人が芸を演じては観客を集めていた。観光客はいい鴨にされ、狙い撃ちされていた。観光客が興味を持って立ち止まり眺め始めるとすかさず、箱や帽子が廻ってきてチップをねだられるのである。食べ物を売る屋台店も立ち並び初めていた。広場近くのレストランの屋上展望席に入りジュースを飲みながら暫く群衆の動きを見ていたが飽きない面白さがあった。日暮れに近付くにつれ恰も地から湧き出るかのように人の数が増えてきて、夥しいとしかいいようのない群衆が広場を思い思いの方向へ往来するのである。或いは大道芸人を囲む輪の中に消え、或いは屋台の前で買い物をして楽しそうにぱくついていたりするのである。ここにも喧騒と猥雑が同居してマラケシならではの光景をつくりだしていた。

 マラケシュのホテルを8時半に出発して大西洋沿岸の都市アルジャディーナを目指した。ここには大航海時代にポルトガル人が開いた城塞が残されているのである。

 緑豊かな田園地帯を走行しているとコンクリートの円柱を半割りにして田畑の畦に敷設した灌漑設備が縦横に走っている光景によく出くわす。灌漑設備のかたわらでは水を容器に受けて洗濯に余念のない農婦の姿も散見されるその周囲には野の花が咲き乱れているし放牧された羊や牛の群れがのんびりと草を食んでいた。農道には驢馬に荷駄を満載した車を引かせて農民が往来している。まことにのどかな田園風景である。

そのうちトラックや乗用車や馬車や驢馬が沢山駐留して大勢の人々が集まっているのを目撃した。これは火曜日ごとに開かれる青空市場だという。農家は自家製の農産物を持ち込むし、商人は日曜生活物資を持ち込んで農民相手に商いをするのである。原初的形態の物資の交換流通の最も単純な市場が開かれているのである。仕入れが終わって驢馬車に家族を乗せて帰路を急ぐ農民の姿がそちこちに見られた。

バスはやがて大きな集落に到着した。前方には海が広がっている。大西洋岸のアルジャディーダである。この町は16世紀に貿易の基地としてポルトガル人によって開かれ、250年間彼らが居住した西欧風の街並みが城塞の中に残されている。雨水を蓄えるための大きな貯水槽やカトリックの教会、ユダヤ人の教会であるシナゴーグなどの建物も今は使われていないが史跡として残っている。訪れる人もないユダヤ人の墓地も残っていて人の世の移り変わり、栄枯盛衰を思わせる。

旅の終わりにあたり、旅行中知り得たモロッコ事情を注記しておくことにする。

モロッコは農業国であり、主たる農産物は玉蜀黍、大麦、小麦、オリーブじゃが芋、煙草、人参、オレンジ、葡萄などである。

次に収入源となっているのは観光収入であり、年間200万人の海外からの観光客を迎える。三番目には出稼ぎ労働者からの送金である。四番目には漁業によるもので鰯の収穫が多い。五番目に鉱物資源があり、燐鉱石は世界の生産高の17パーセントを産出している。六番目は石油資源である。

国民の所得水準は一例として大学卒業の学校の先生の月給は月500〜700$である。失業率は25%にも及び大学を卒業しても就職出来ないことが多く外国特にフランスやカナダ、アメリカに渡るケースが多い。

1982年に徴兵制は廃止され志願兵制になったが、志願者は多く軍は魅力ある就職先と考えられている。

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  • カサブランカ。ハッサン五世モスク

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  • ラバト。王宮

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  • ラバト。ハッサンの塔

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  • ラバト。ハッサンの塔の警備兵

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  • メケネス。メディナ

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  • フェズ。ダッバーギーン

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  • マラケシュ。ジャナ・エル・フナ広場

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  • アイト・ベン・ハットゥー

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