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<br /> ハノイ市内へ入ったとき驚いたのはその夥しいモーターバイクの大群である。特に出勤時や退勤時のモーターバイクが、我が物顔に路面一杯に広がって往来する光景は、絶えず路面から沸いてきて路面を疾駆すると言ったほうがいいのかも知れない。交通信号のない所を自在に右折し且つ左折していくモーターバイク。接触事故を起こしそうでいて、不思議なことにこれが起きない。そこには無秩序に見える流れの中にも事故の起きないシステムが神様の手によって組み込まれ、働いているようにさえ見える。この流れの中を平然と横切って横断する歩行者もかなりの数見受けられる。歩行者は立ち止まることをしない。悠然とあたかも散歩でもしているようなリズムで歩く。歩行者の目指す方向と歩行速度が認識できるとモーターバイクの流れはこれを巧みにかわしながら流れるのである。ちなみにモーターバイクのスピードは二十km/時程度である。この流れの速度とリズムの感覚を掴みきるまでは外来の異邦人には町中を散策することは困難である。<br /><br />  ガイドに聞いてみるとモーターバイクは一台2000$(US)〜2500$であるのに対して、平均的な庶民の収入は月当たり25$〜30$程度であるというから、余程の蓄えがあるか長期間の月賦によらなければ買えない理屈になる。そこで月賦制度について聞いてみると頭金三分の一で残金は2年間の月賦払いが通常の支払い条件であるという。そしてモーターバイクや車の中古品の売買は国産品(日本と提携した組み立て工場がある)奨励のため最近禁止されたというから走行するモーターバイクは新車が多い。しかも往来するモーターバイクに乗っている人々の服装は小奇麗で特に若い女性の色鮮やかなアオザイは美しい。市場には豊富にありとあらゆる生活物資が並べられており、これを購う人々も品物を厳しく吟味している。このような現象を瞥見しただけでもこの国の民衆の生活水準は相当高そうである。訪問する前の予想に反して社会主義を標榜するこの国の庶民の生活は開放経済化の成果なのか活気に満ちていた。<br /><br />  この国では1975年にサイゴンが陥落し南北ベトナムが統一された時、金や米ドルで箪笥預金されていた民衆の蓄えが約20億$あったといわれており、また戦乱を逃れて外国へ避難していた裕福な人々からの送金が年10$くらいあるともいわれている。こうした蓄えがベースになって現在の活況を呈しているものと思われる。<br /><br />  初日は九時にホテルを出発してホーチンミン廟を見学した。ハノイの気候はまだ肌寒いくらいでこの季節の三月、太陽が顔をみせずどんよりと空は曇っている。しかし雨が降るわけではない。特異な天候である。ホーチンミン廟近くへ来ると長い行列ができている。これは廟内にガラスケースの中に冷凍保存されて安置されているホーチンミンの遺体に対面し、祈りを捧げるためにやってきたベトナム人や外国の観光客達である。毎日このようにひきもきらさずベトナム人達の長い行列ができるということだから、民衆に慕われ「ホー小父さん」と呼ばれた建国の父ホーチンミンの人柄と偉大さが偲ばれる。廟の裏手には1969年に亡くなるまで住んでいた高床式の住居も残されていて質素な遺品なども当時のままの姿で保存され展示されていた。<br /><br />  次に訪れたのは文廟である。この廟は1070年に孔子を祀るために李朝によって建てられた廟で、1076年には境内にベトナム最初の大学が開設された。大学施設として使われていた建物の中でも十九世紀の阮王朝時代にできた奎文閣には82の石碑がそれぞれに顔の違う亀の上に乗って建っている。この石碑には15世紀以降約300年間の科挙試験合格者82名の名前が刻まれている。石碑には本人の出所や来歴がこと細かに記載され称賛の言葉に満ちている。<br /><br />  この文廟を見ていると碑文は全て漢文であり、建物も中国風なので、中国の勢威がこの地にまで及んでいたことを史跡として現実に認識することができた。<br /><br />  李朝は1010年に李公蘊が昇竜(タンロン現在のハノイ)を都として定め国号を大越と称したベトナム最初の長期王朝であった。李朝は宗代の中国の制度を多く取り入れて国家を充実させた。科挙の制度や仏教を取り入れたのもこの王朝である。仏教の導入により文学や芸術も普及した。ベトナムの歴史はその大半が異民族に支配され続けた歴史であるともいえるのだが、この李王朝はほんの一瞬だけベトナム人が輝いてみせた独立王朝であったと思うと感慨深いものがある。<br /><br />  この後ホアン・キエム湖の中ほどの島にある玉山寺へ行った。この寺は18世紀に建立され、文学の神スオン王や武将チャン・フン・ダオ(陳興道)等が祀られている。この武将は13世紀に三回、元の侵攻に対してこれを撃退した民族的な英雄である。1257年、1285年、1288年の三回にわたっての来襲に対して、よく戦いこれを撃退した。その戦法の一つは例えば、海岸線の浅い海底に沢山の杭を海面と垂直方向に設置しておいて干満の落差を利用して大型戦闘船で来襲した元の船隊の船底に穴をあけようというもので創意溢れるものであった。ベトコンが地下にトンネルを掘って米軍に抵抗した時、落とし穴に仕掛けた釘や針の山もこの民族の英雄チャン・フン・ダオの戦法に学んだのではないかとふと思った。<br /><br />  民族学博物館では54もある各種民族の衣装や生活用具、住居の模型等を見学した。ベトナムは多民族国家であり民衆は国籍とともに民族籍とでもいうようなものをもっていることがよく分かった。民族分布の地図を見るとそれはあたかもモザイク画のような細かい模様になっている。一番多いのはキン族(ベト族とも言われる)で約5600万人おり、主に平地に居住し全人口の90%を占めている。残りの10%が53民族に別れる少数民族である。  <br /><br />  翌朝四時半にまだ暗いうちにホテルを出発し、フエへ赴くべく空港へ向かった。早い時間にもかかわらず続々と白人の団体観光客が集まってきた。飛行機はほぼ満席であった。ガイドの話ではベトナムを訪れる観光客はフランス人がもっとも多く、次に日本人であるという。韓国人も増えつつあり、アメリカ人も最近多くなってきたそうだ。アメリカ人や傭兵のような立場で参戦した韓国人にとっては苦い思い出しか残らない国なのであろうが父祖が戦役で苦労した場所を次世代に見せておきたいという戦跡めぐりツアーに人気があるようである。<br /><br />  フエはベトナム中央部にある古都であり、阮王朝の首都がおかれていた所である。四季のある美しい学都でもある。日本でいえばさしずめ京都といったところか。1993年には、ユネスコの世界遺産に指定された。人口は80万人で農業従事者が60%に及ぶ農村である。この町の美しい風景を題材にした音楽が沢山作られていることでも有名らしい。<br /><br />  先ず阮朝の王宮を訪問した。この王宮は外堀に囲まれており、ほぼ方形の敷地の広さは38haもあるが建物として残っているのは午門、大和殿、顕臨閣、フラッグタワーだけである。その他はベトナム戦争時1968年のフエ攻防戦で破壊されてしまった。<br /><br />  午門は第二代皇帝ミン・マン帝(1820〜1840)の時創建され第12代カイ・ディン帝(1916〜1916)の時再建された。この門には三つの入り口があり中央の入り口は皇帝しか使用できない。この門を通ると正面に赤い屋根で平屋の大和殿があり、建物内の中央には金箔の玉座が置かれている。ここでは皇帝の即位式が行われた。最後の皇帝バオ・ダイ帝(1925〜1945)もここで退位したのである。この建物は紫禁城を模して作られたといわれている。初代ザー・ロン帝(1802〜1820)が創建したものであるが、ベトナム戦争中に破壊されたものを1970年に再建した。この大和殿の屋根の上には皇帝の権威の象徴である竜の彫刻が九つ置かれて舞っている。大和殿の横には顕臨閣があり阮王朝の菩提寺である。残りの広い敷地には草が生えところどころに礎石だけが見受けられる。僅かに残っているコンクリート製の壁には銃弾の痕跡が今なお残されていて激しく戦われたフエの攻防戦を偲ばせる。またこの阮朝の王宮跡に佇んで掲額や調度品に書き込まれた漢文に接すると改めて、中国文化の影響の大きさを感じる。<br /><br />  翌日の午後ホーチンミン市から70km北西に位置するクチの地下トンネルへ向かった。<br /> クチへ到る道路には依然としてモーターバイクの大群が疾駆しており、しかも排気ガスから呼吸器を守るために、布切れで覆面をしているライダーが多い。一見覆面強盗の群れが疾駆しているかと見紛うような異様な光景である。アオザイを風に靡かせながらサングラスに覆面をしてモーターバイクを走らせている若い女性の姿は見物であった。<br /><br />  クチ近くになると交通量も少なくなり道路の周辺には稲田や林が広がっており、樹木の下では牛がのんびりと草を食んでいる牧歌的な風景が現れる。このように静かで長閑な田舎で激しい戦闘が行われたとは俄には信じられない。<br /><br />  ベトナム戦争当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれ、鉄の三角地帯と呼ばれ難攻不落の場所であった。アメリカ軍は何度も空爆を繰り返し、大量の枯れ葉剤を投下して密林を裸にしてしまった。身を隠す樹木が無くなっても解放勢力は地下に掘ったトンネルに籠もってゲリラ戦を続けた。総距離250kmにも及ぶ手掘りのトンネルは深さ3m、6m、8mの三層構造になっており、トンネル内には会議室、参謀室、寝室、台所、病院まで備わっていた。トンネルの土は粘土質で意外に固く、入り口は直径30cm程の穴で穴の上に板を置いて落ち葉を被せれば発見することは難しい。またトンネル周辺やトンネル内の要所には落とし穴が設置されていて落とし穴にはさまざまな工夫の施された針が仕掛けられていて容易に敵が侵入できないようになっている。トンネルの一部は観光用に開放されている。<br /><br />  翌日、ホーチンミン市内を観光した。サイゴン大教会は十九世紀末に建てられた赤煉瓦作りのカトリック教会である。サイゴン大教会のすぐ横には一見鉄道の駅舎かと思わせるような建物がある。これは中央郵便局でフランスの統治時代に建てられたものである。このあたりはいかにもフランス文化の香りが漂うような町の佇まいである。<br /><br /><br />

路面に湧き出るモーターバイクの大群

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2000/03/09 - 2000/03/13

20022位(同エリア20553件中)

0

22

早島 潮

早島 潮さん


ハノイ市内へ入ったとき驚いたのはその夥しいモーターバイクの大群である。特に出勤時や退勤時のモーターバイクが、我が物顔に路面一杯に広がって往来する光景は、絶えず路面から沸いてきて路面を疾駆すると言ったほうがいいのかも知れない。交通信号のない所を自在に右折し且つ左折していくモーターバイク。接触事故を起こしそうでいて、不思議なことにこれが起きない。そこには無秩序に見える流れの中にも事故の起きないシステムが神様の手によって組み込まれ、働いているようにさえ見える。この流れの中を平然と横切って横断する歩行者もかなりの数見受けられる。歩行者は立ち止まることをしない。悠然とあたかも散歩でもしているようなリズムで歩く。歩行者の目指す方向と歩行速度が認識できるとモーターバイクの流れはこれを巧みにかわしながら流れるのである。ちなみにモーターバイクのスピードは二十km/時程度である。この流れの速度とリズムの感覚を掴みきるまでは外来の異邦人には町中を散策することは困難である。

ガイドに聞いてみるとモーターバイクは一台2000$(US)〜2500$であるのに対して、平均的な庶民の収入は月当たり25$〜30$程度であるというから、余程の蓄えがあるか長期間の月賦によらなければ買えない理屈になる。そこで月賦制度について聞いてみると頭金三分の一で残金は2年間の月賦払いが通常の支払い条件であるという。そしてモーターバイクや車の中古品の売買は国産品(日本と提携した組み立て工場がある)奨励のため最近禁止されたというから走行するモーターバイクは新車が多い。しかも往来するモーターバイクに乗っている人々の服装は小奇麗で特に若い女性の色鮮やかなアオザイは美しい。市場には豊富にありとあらゆる生活物資が並べられており、これを購う人々も品物を厳しく吟味している。このような現象を瞥見しただけでもこの国の民衆の生活水準は相当高そうである。訪問する前の予想に反して社会主義を標榜するこの国の庶民の生活は開放経済化の成果なのか活気に満ちていた。

この国では1975年にサイゴンが陥落し南北ベトナムが統一された時、金や米ドルで箪笥預金されていた民衆の蓄えが約20億$あったといわれており、また戦乱を逃れて外国へ避難していた裕福な人々からの送金が年10$くらいあるともいわれている。こうした蓄えがベースになって現在の活況を呈しているものと思われる。

初日は九時にホテルを出発してホーチンミン廟を見学した。ハノイの気候はまだ肌寒いくらいでこの季節の三月、太陽が顔をみせずどんよりと空は曇っている。しかし雨が降るわけではない。特異な天候である。ホーチンミン廟近くへ来ると長い行列ができている。これは廟内にガラスケースの中に冷凍保存されて安置されているホーチンミンの遺体に対面し、祈りを捧げるためにやってきたベトナム人や外国の観光客達である。毎日このようにひきもきらさずベトナム人達の長い行列ができるということだから、民衆に慕われ「ホー小父さん」と呼ばれた建国の父ホーチンミンの人柄と偉大さが偲ばれる。廟の裏手には1969年に亡くなるまで住んでいた高床式の住居も残されていて質素な遺品なども当時のままの姿で保存され展示されていた。

次に訪れたのは文廟である。この廟は1070年に孔子を祀るために李朝によって建てられた廟で、1076年には境内にベトナム最初の大学が開設された。大学施設として使われていた建物の中でも十九世紀の阮王朝時代にできた奎文閣には82の石碑がそれぞれに顔の違う亀の上に乗って建っている。この石碑には15世紀以降約300年間の科挙試験合格者82名の名前が刻まれている。石碑には本人の出所や来歴がこと細かに記載され称賛の言葉に満ちている。

この文廟を見ていると碑文は全て漢文であり、建物も中国風なので、中国の勢威がこの地にまで及んでいたことを史跡として現実に認識することができた。

李朝は1010年に李公蘊が昇竜(タンロン現在のハノイ)を都として定め国号を大越と称したベトナム最初の長期王朝であった。李朝は宗代の中国の制度を多く取り入れて国家を充実させた。科挙の制度や仏教を取り入れたのもこの王朝である。仏教の導入により文学や芸術も普及した。ベトナムの歴史はその大半が異民族に支配され続けた歴史であるともいえるのだが、この李王朝はほんの一瞬だけベトナム人が輝いてみせた独立王朝であったと思うと感慨深いものがある。

この後ホアン・キエム湖の中ほどの島にある玉山寺へ行った。この寺は18世紀に建立され、文学の神スオン王や武将チャン・フン・ダオ(陳興道)等が祀られている。この武将は13世紀に三回、元の侵攻に対してこれを撃退した民族的な英雄である。1257年、1285年、1288年の三回にわたっての来襲に対して、よく戦いこれを撃退した。その戦法の一つは例えば、海岸線の浅い海底に沢山の杭を海面と垂直方向に設置しておいて干満の落差を利用して大型戦闘船で来襲した元の船隊の船底に穴をあけようというもので創意溢れるものであった。ベトコンが地下にトンネルを掘って米軍に抵抗した時、落とし穴に仕掛けた釘や針の山もこの民族の英雄チャン・フン・ダオの戦法に学んだのではないかとふと思った。

民族学博物館では54もある各種民族の衣装や生活用具、住居の模型等を見学した。ベトナムは多民族国家であり民衆は国籍とともに民族籍とでもいうようなものをもっていることがよく分かった。民族分布の地図を見るとそれはあたかもモザイク画のような細かい模様になっている。一番多いのはキン族(ベト族とも言われる)で約5600万人おり、主に平地に居住し全人口の90%を占めている。残りの10%が53民族に別れる少数民族である。  

翌朝四時半にまだ暗いうちにホテルを出発し、フエへ赴くべく空港へ向かった。早い時間にもかかわらず続々と白人の団体観光客が集まってきた。飛行機はほぼ満席であった。ガイドの話ではベトナムを訪れる観光客はフランス人がもっとも多く、次に日本人であるという。韓国人も増えつつあり、アメリカ人も最近多くなってきたそうだ。アメリカ人や傭兵のような立場で参戦した韓国人にとっては苦い思い出しか残らない国なのであろうが父祖が戦役で苦労した場所を次世代に見せておきたいという戦跡めぐりツアーに人気があるようである。

フエはベトナム中央部にある古都であり、阮王朝の首都がおかれていた所である。四季のある美しい学都でもある。日本でいえばさしずめ京都といったところか。1993年には、ユネスコの世界遺産に指定された。人口は80万人で農業従事者が60%に及ぶ農村である。この町の美しい風景を題材にした音楽が沢山作られていることでも有名らしい。

先ず阮朝の王宮を訪問した。この王宮は外堀に囲まれており、ほぼ方形の敷地の広さは38haもあるが建物として残っているのは午門、大和殿、顕臨閣、フラッグタワーだけである。その他はベトナム戦争時1968年のフエ攻防戦で破壊されてしまった。

午門は第二代皇帝ミン・マン帝(1820〜1840)の時創建され第12代カイ・ディン帝(1916〜1916)の時再建された。この門には三つの入り口があり中央の入り口は皇帝しか使用できない。この門を通ると正面に赤い屋根で平屋の大和殿があり、建物内の中央には金箔の玉座が置かれている。ここでは皇帝の即位式が行われた。最後の皇帝バオ・ダイ帝(1925〜1945)もここで退位したのである。この建物は紫禁城を模して作られたといわれている。初代ザー・ロン帝(1802〜1820)が創建したものであるが、ベトナム戦争中に破壊されたものを1970年に再建した。この大和殿の屋根の上には皇帝の権威の象徴である竜の彫刻が九つ置かれて舞っている。大和殿の横には顕臨閣があり阮王朝の菩提寺である。残りの広い敷地には草が生えところどころに礎石だけが見受けられる。僅かに残っているコンクリート製の壁には銃弾の痕跡が今なお残されていて激しく戦われたフエの攻防戦を偲ばせる。またこの阮朝の王宮跡に佇んで掲額や調度品に書き込まれた漢文に接すると改めて、中国文化の影響の大きさを感じる。

翌日の午後ホーチンミン市から70km北西に位置するクチの地下トンネルへ向かった。
 クチへ到る道路には依然としてモーターバイクの大群が疾駆しており、しかも排気ガスから呼吸器を守るために、布切れで覆面をしているライダーが多い。一見覆面強盗の群れが疾駆しているかと見紛うような異様な光景である。アオザイを風に靡かせながらサングラスに覆面をしてモーターバイクを走らせている若い女性の姿は見物であった。

クチ近くになると交通量も少なくなり道路の周辺には稲田や林が広がっており、樹木の下では牛がのんびりと草を食んでいる牧歌的な風景が現れる。このように静かで長閑な田舎で激しい戦闘が行われたとは俄には信じられない。

ベトナム戦争当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれ、鉄の三角地帯と呼ばれ難攻不落の場所であった。アメリカ軍は何度も空爆を繰り返し、大量の枯れ葉剤を投下して密林を裸にしてしまった。身を隠す樹木が無くなっても解放勢力は地下に掘ったトンネルに籠もってゲリラ戦を続けた。総距離250kmにも及ぶ手掘りのトンネルは深さ3m、6m、8mの三層構造になっており、トンネル内には会議室、参謀室、寝室、台所、病院まで備わっていた。トンネルの土は粘土質で意外に固く、入り口は直径30cm程の穴で穴の上に板を置いて落ち葉を被せれば発見することは難しい。またトンネル周辺やトンネル内の要所には落とし穴が設置されていて落とし穴にはさまざまな工夫の施された針が仕掛けられていて容易に敵が侵入できないようになっている。トンネルの一部は観光用に開放されている。

翌日、ホーチンミン市内を観光した。サイゴン大教会は十九世紀末に建てられた赤煉瓦作りのカトリック教会である。サイゴン大教会のすぐ横には一見鉄道の駅舎かと思わせるような建物がある。これは中央郵便局でフランスの統治時代に建てられたものである。このあたりはいかにもフランス文化の香りが漂うような町の佇まいである。


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  • 羽田から関西空港へ向かう。富士山

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  • ハノイ。文廟。被支配の長かったベトナムの歴史の中で比較的長く続いた李王朝の孔子廟

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  • ハノイ。ホーチンミン廟堂

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  • フエ。第12代ガイ・ディン帝廟

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  • フエ。ガンディン帝廟内の展示品

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  • クチ。地下壕の入り口

    クチ。地下壕の入り口

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  • クチ。戦車の残骸

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  • 覆面ライダー

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  • ホーチンミン。バイクの群れ

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  • ホーチンミン。サイゴン大聖堂

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