2006/01/23 - 2006/01/28
1061位(同エリア1495件中)
khkさん
25日はいよいよ激戦の舞台となったペリリュー島へ。司令部跡や戦車、鎮魂碑などを見学。終戦から60年以上たってもいまだリアルに残る遺物にふれ、この悲劇を繰り返してはいけないという思いを強くしました。
PR
-
-
25日
この日からペリリュー島へ
ペリリュー島に向かう波止場の近くに幅が30cmも40cmもゆうにあるようなシャコ貝がゴロゴロ捨てられて(?)いた。 -
ペリリュー島にも、慰霊碑は数多くある。戦後、日本に戻らずパラオに残った方のお墓もあった。日本からたずねてくる人の案内役となっていたそうだ。
-
本当に小さな船着場から上がり、宿となるMAYUMI INNに寄った後、ペリリュー郡知事に会うことができた。NPOとして、毎年、戦争で亡くなった方へのお線香代わりにヤシの木を植えているのだが、地元の青年団(こちらでもそのままセイネンダンという言葉が使われている)に通常の活動の一部としてヤシの植樹をお願いしており、青年団団長から、今回植えた場所の報告があった。地道に活動を続けてくれているようだ。会見も終わり、いよいよペリリュー島に残された戦争の爪跡をめぐる旅が始まった。田舎道を走り、やがて道路も切れて木々の間を抜けると、いきなり旧日本軍司令部が現れた。
-
一部の壁と外郭と床があるのみで、五百トン爆弾(だっただろうか。。)をもろに受けた跡も痛々しい。床には植物がところ狭しと生えている。
-
いたるところにある弾痕の跡が痛々しく、戦いの激しさを物語っている。
-
ここは手洗い場。
-
爆弾でぶち抜かれた天井。ほかにももっと大きな穴があった。
-
トイレの跡。現在は壁も何もない。
-
こちらは風呂場。現地人はシャワーのみというから、やはり日本人の作った建物だということがよくわかる。
-
階段を上って上の階にも上がれる。終戦から何も手を加えず、60年経過した現在に上の階が歩けるというのは非常に丈夫ということなのか。。。
-
野ざらしのままおいてあっただけあり、さすがに真ん中付近の床の感触がアヤシかった。日本人のエゴなのかもしれないが、このまま朽ちていくには惜しいような気がした。
-
司令部の隣には弾薬庫の建物がたっていた。鉄扉がものものしさを語っている。2階から撮った図。
-
日本の戦車がそのまま残されている。人の背たけよりも低く、仰向けに寝るような感じで乗るらしい。後にアメリカの戦車も見ることになるが、たぶん見た人はほとんんど、ありゃまぁと思うくらい大きさに差があった。この戦車に乗っていた人はどんな思いで戦っていたのだろうと思うと言葉もない。
-
戦車の後ろ部分。誰かがキャタピイラーをきれいにまとめてくれたらしい。また、戦車の付近は木がなくしばふになっていて、よく見えるように整えられていた。
-
背が低く、天井もなくなっていたので、戦車の内部を見ることができた。2つのレバーと車軸になるのだろうか、太いローラーのようなものが見える。朽ち果てた司令部や戦車に植物が生えている様子は、直接見た時はなんとも思わなかったが、後から写した写真を見ると、宮崎駿のラピュタを思わせるような気がした。
-
なんの変哲もない美しいビーチだが、アメリカ軍が上陸した時は、海が血の色に染まり、そこから「オレンジビーチ」という名前がついた。日本軍12000人、アメリカ軍8000人が亡くなり、日本軍は玉砕した。
当時、空爆と2ヵ月に及ぶ激戦により焼け野原になったという話を事前に読んでいたのだが、信じられないくらい草木が生い茂っている。この温度と雨量ではいくらでも育つのかもしれない。島ではまだ観光客だけで島を歩き回るのを禁じているという。まだナイフなど危険なものが転がっている恐れがあるから・・・
ちなみにこの戦いではまだ火炎放射機は使われてなく、ここでの経験から開発されたのだそうだ。なんとも恐ろしい。 -
滑走路。バスで横切ったのだが、まだ現役で使われているらしい。第二次大戦当時は、アジアを攻める重要な拠点となったパラオ。すなわちこの滑走路をも意味する。一見、とても平和そうにみえるこの滑走路が今までいったいどれだけの戦闘機を向かえ、見送ったのだろうと思う。
-
-
さて、お次はアメリカ軍の戦車。2メーターくらいはゆうにあって、砲台もついている。戦車の後ろには星条旗からとったのであろう、大きな星マークが見られた。
-
浜辺にほど近い位置にあった防空壕。このような防空壕はたくさんあって、沖縄のガマを思い出させた。
-
斜面の中腹に設置された砲台。やはりいくつもあるらしい。中の一箇所が整備され、階段ができていた。以前はなかったらしい。
-
砲台の裏にまわって後ろから見た図。どうやって操るのか見当もつかない。しっかり足場が組まれている。あまりにもリアルなので、複雑な気分が入り混じる。
-
密林に残されたゼロ戦。胴体の前の部分が既になく、翼が折れてしまっている。この動画を撮っている最中にぬかるみにビーチサンダルが張り付き、鼻緒がはずれるというハプニングあり。ちょっと歩くたびに鼻緒がはずれるので、防空壕を見学したときに、最後に一人残されてしまった。小パニックに。。。
-
ハネムーンビーチ。この日は誰もいなかったが地元の人がバーベキューをして遊んだりするとのこと。のどか、の一言につきる。
-
南洋桜。うまく根付いて大きく育ってほしい。
-
ペリリュー神社。神社の正面に南洋桜の苗を記念植樹。
-
中川大佐が自決した壕にも訪れた。度重なる空襲の後、2ヵ月に渡る地上戦を経て、最後にこの碑のそばの洞穴に追い詰められ、自決したそうだ。いかに無念だったかと忍ばれる。おそらくあちこちに落ちていたのだろう、銃弾の弾や水筒もしくは飯盒のようなものが碑の横に集められていた。
碑の左部分が変質しているのは、恐らくここを訪れた人がお酒をかけたためではないか?と誰かが話していた。故郷から何千キロも離れたこの地で命を落とした人達へのせめてものなぐさめなのだろう。
一方で、逃げ回り潜伏した兵士が何人もいて、10年後にようやく保護されたというケースもあったそうだ。 -
MAYUMI INNでの夕食に、ペリリュー州知事のジャクソンさんとアシスタントのエリコさん、青年団団長のオバックさんをお招きしたところ、訪れてくださった。(写真は右:ジャクソンさん、左:エリコさん)
エリコさんに戦争でペリリューの人は巻き込まれたのかと尋ねると「some・・・」と言っていた。本当に申し訳なく、謝った時に思わず涙ぐんでしまったのだが、エリコが同じく涙を浮かべながら、いいのよと言ってくれたのがとても嬉しかった。 -
ジャクソンさん、エリコさん、オバックさんを囲み和やかに歓談。こちらから日本の歌をプレゼントした。残念ながら、ジャクソンさんたちは歌は歌わなかったが、来年には歌ってくれると約束してくれた。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
30