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今日はユダヤ沙漠サファリ・ツアーです。わくわく。死海への移動日に車の中から見かけて以来、すっかり魅惑されてしまったユダヤ沙漠。それを、エアコン完備の四輪駆動ジープで横断するというのが、本日のツアーです。わくわく。<br /><br />ガイドは、モティさん。つばの広い白い帽子にサングラス、背は低いですが、わりと割腹が良い方です。最初、顔をあわせた時、西部劇に出て来るアメリカのフロンティアかメキシコの男みたいでびびりかけましたが、サングラスを外すと、両目がちょっと離れているせいでヒラメを連想してしまう、なかなか愛敬ある顔をしていました。話上手で博学で、陽気でユーモア溢れ、ガイドとしてのサービスも旺盛です。今日のツアーは、私はユナイテッド・ツアー社を通じて申し込みましたが、モティさん自身は会社に所属せず、独自にユダヤ沙漠サファリ・ツアーを行っているそうです。自前のジープを使うので、参加人数は7人限定です。本日のツアー人数は、私を含めて5人でした。もしこれが7人を超えていたら、ユナイテッド・ツアー社のパンフレットの写真にあったような、日除けの屋根だけが付いたオープンの、エアコンもない大型バスになっていたところだったそうです。<br /><br />参加者はたった5人───フランス人夫婦と、ドイツ人学生の男の子二人連れに私───でしたので、モティさんは私たちのことをVIPグループと呼び、小人数ならではの便宜を色々図ってくれました。説明は全員にわかったかどうかきちんと確認してくれますし、質問するために説明を中断させるようなことになっても大丈夫です。それから、写真大好き日本人の例にもれない私のために、写真を撮りたければ好きな所で車をストップしてくれました。<br /><br />また、午後には、ツアーの日程に含まれていないヨルダン川上流の方へも周り、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場所へのアクセスを試みてくれました。結果的には行けませんでしたが。というのも、ヨルダン川は現在(1998年当時)、東の隣国ヨルダンとの国境にあたり、軍によって封鎖されているのです。イスラエル政府が、ヨルダン側に住むイスラム原始主義のパレスチナ人テロリストの侵入を警戒しているためで、警備も厳しいのです。それでもモティさんは、小人数なんだから、ちょっとくらい……と、軍用ジープに乗った見回りの軍人たちの説得を試みました。自社のツアー・パンフレットを配ったり、コカコーラをおごったり、挙げ句、私を指して「せっかく日本人の観光客もいることだし……」(何のこっちゃ?)といろいろやってくれおかげで、本部に問い合わせてOKがでたら、とまで言ってもらえましたが、無情にも本部からの返事はNoでした。何を言ってるんだ、といった調子でにべなく断られてしまったそうです。<br /><br />それでも、来る2000年にはイスラエル挙げてキリスト生誕2000年祭が行われるので、そのときであればヨルダン川の洗礼場所も公開されるのではないか、とモティさんは残念そうに話していました。

1998年秋のイスラエル旅行11日間(7日目:ユダヤ沙漠サファリ・ツアーの一日&再びイスラエル博物館)

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1998/09/15 - 1998/09/15

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まみ

まみさん

今日はユダヤ沙漠サファリ・ツアーです。わくわく。死海への移動日に車の中から見かけて以来、すっかり魅惑されてしまったユダヤ沙漠。それを、エアコン完備の四輪駆動ジープで横断するというのが、本日のツアーです。わくわく。

ガイドは、モティさん。つばの広い白い帽子にサングラス、背は低いですが、わりと割腹が良い方です。最初、顔をあわせた時、西部劇に出て来るアメリカのフロンティアかメキシコの男みたいでびびりかけましたが、サングラスを外すと、両目がちょっと離れているせいでヒラメを連想してしまう、なかなか愛敬ある顔をしていました。話上手で博学で、陽気でユーモア溢れ、ガイドとしてのサービスも旺盛です。今日のツアーは、私はユナイテッド・ツアー社を通じて申し込みましたが、モティさん自身は会社に所属せず、独自にユダヤ沙漠サファリ・ツアーを行っているそうです。自前のジープを使うので、参加人数は7人限定です。本日のツアー人数は、私を含めて5人でした。もしこれが7人を超えていたら、ユナイテッド・ツアー社のパンフレットの写真にあったような、日除けの屋根だけが付いたオープンの、エアコンもない大型バスになっていたところだったそうです。

参加者はたった5人───フランス人夫婦と、ドイツ人学生の男の子二人連れに私───でしたので、モティさんは私たちのことをVIPグループと呼び、小人数ならではの便宜を色々図ってくれました。説明は全員にわかったかどうかきちんと確認してくれますし、質問するために説明を中断させるようなことになっても大丈夫です。それから、写真大好き日本人の例にもれない私のために、写真を撮りたければ好きな所で車をストップしてくれました。

また、午後には、ツアーの日程に含まれていないヨルダン川上流の方へも周り、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場所へのアクセスを試みてくれました。結果的には行けませんでしたが。というのも、ヨルダン川は現在(1998年当時)、東の隣国ヨルダンとの国境にあたり、軍によって封鎖されているのです。イスラエル政府が、ヨルダン側に住むイスラム原始主義のパレスチナ人テロリストの侵入を警戒しているためで、警備も厳しいのです。それでもモティさんは、小人数なんだから、ちょっとくらい……と、軍用ジープに乗った見回りの軍人たちの説得を試みました。自社のツアー・パンフレットを配ったり、コカコーラをおごったり、挙げ句、私を指して「せっかく日本人の観光客もいることだし……」(何のこっちゃ?)といろいろやってくれおかげで、本部に問い合わせてOKがでたら、とまで言ってもらえましたが、無情にも本部からの返事はNoでした。何を言ってるんだ、といった調子でにべなく断られてしまったそうです。

それでも、来る2000年にはイスラエル挙げてキリスト生誕2000年祭が行われるので、そのときであればヨルダン川の洗礼場所も公開されるのではないか、とモティさんは残念そうに話していました。

  • ツアーの集合場所は、私の宿泊するFour Points Hotelではなく、Jerusalem Great Hotelに8時45分です。私が最後でしたので、9時前にツアー開始となりました。<br /><br />まずは、スコープス山を通って、オリーブ山でいったん車から下りてエルサレムの街を見下ろしました。昨日のツアーでのエルサレム眺望よりも、ずっと素敵なアングルでした。昨日よりも「岩のドーム」がくっきり見えます。

    ツアーの集合場所は、私の宿泊するFour Points Hotelではなく、Jerusalem Great Hotelに8時45分です。私が最後でしたので、9時前にツアー開始となりました。

    まずは、スコープス山を通って、オリーブ山でいったん車から下りてエルサレムの街を見下ろしました。昨日のツアーでのエルサレム眺望よりも、ずっと素敵なアングルでした。昨日よりも「岩のドーム」がくっきり見えます。

  • 少し焦点をずらし、ケデロン峡谷とユダヤ人墓地をファインダーに入れました。<br /><br />ユダヤ教徒の伝説によると、終末の日に、救世主が「黄金門」からエルサレムに入場するとされているため、「黄金門」はイスラム教徒によって閉鎖されてしまったそうです。また、その終末の日に、復活の一番乗りをしたい人々が、こぞってこの「黄金門」の前のケデロン峡谷に墓を立てさせたそうです。<br /><br />というわけで、ご覧のとおり、石棺がすきまなくぎっしり並んでいます。閉鎖された「黄金門」も、岩のドームより少し右手に見えています。

    少し焦点をずらし、ケデロン峡谷とユダヤ人墓地をファインダーに入れました。

    ユダヤ教徒の伝説によると、終末の日に、救世主が「黄金門」からエルサレムに入場するとされているため、「黄金門」はイスラム教徒によって閉鎖されてしまったそうです。また、その終末の日に、復活の一番乗りをしたい人々が、こぞってこの「黄金門」の前のケデロン峡谷に墓を立てさせたそうです。

    というわけで、ご覧のとおり、石棺がすきまなくぎっしり並んでいます。閉鎖された「黄金門」も、岩のドームより少し右手に見えています。

  • モティさんの四輪駆動ジープは、最初しばらくは、死海へ向かったときと同じ幹線道路を走りましたが、すぐに道路を外れて、ユダヤ沙漠に乗り上げました。ユダヤ沙漠の始まりは唐突です。緑の生える地帯と沙漠地帯がくっきり分かれます。<br /><br />ユダヤ沙漠に入ってまもなく、ベドウィン人キャンプのそばでコーヒーブレイクとなりました。砂漠で一番怖いのは脱水症状なので、まずは水分補給、というわけです。<br /><br />ユダヤ沙漠は、完全に局地的なものです。地中海の湿気でできた雲が、標高800mにあるエルサレム高山に阻まれます。そこで雨を降らせてしまうため、エルサレム上空を通り越す頃には空気はすっかり渇いてしまい、雨をもたらさないので、沙漠化してしまうのです。でも、完全な砂漠ではないため、水が得られるところがあります。だからこそ、聖書時代にアブラハムがキャンプを張れたわけですし、今もベドウィン人が住んでいます。<br /><br />写真は、水を求めてさまよう羊たちです。頭を地面に突っ込んでいる羊は、水にありついているのでしょう。<br /><br />聖書で羊の放牧の様子が西欧絵画のモチーフになることがありますが、この様子を見ると、ああいう絵はだいぶ西欧よりの風景であったことが窺えます。

    モティさんの四輪駆動ジープは、最初しばらくは、死海へ向かったときと同じ幹線道路を走りましたが、すぐに道路を外れて、ユダヤ沙漠に乗り上げました。ユダヤ沙漠の始まりは唐突です。緑の生える地帯と沙漠地帯がくっきり分かれます。

    ユダヤ沙漠に入ってまもなく、ベドウィン人キャンプのそばでコーヒーブレイクとなりました。砂漠で一番怖いのは脱水症状なので、まずは水分補給、というわけです。

    ユダヤ沙漠は、完全に局地的なものです。地中海の湿気でできた雲が、標高800mにあるエルサレム高山に阻まれます。そこで雨を降らせてしまうため、エルサレム上空を通り越す頃には空気はすっかり渇いてしまい、雨をもたらさないので、沙漠化してしまうのです。でも、完全な砂漠ではないため、水が得られるところがあります。だからこそ、聖書時代にアブラハムがキャンプを張れたわけですし、今もベドウィン人が住んでいます。

    写真は、水を求めてさまよう羊たちです。頭を地面に突っ込んでいる羊は、水にありついているのでしょう。

    聖書で羊の放牧の様子が西欧絵画のモチーフになることがありますが、この様子を見ると、ああいう絵はだいぶ西欧よりの風景であったことが窺えます。

  • こちらも、べドウィン人キャンプのそばでのコーヒーブレイクのときに撮った1枚です。羊たちは、あんまり暑いので、こうやって互いにくっつきあって、頭の部分だけでも日陰の下でなけなしの涼をとっているのです。

    こちらも、べドウィン人キャンプのそばでのコーヒーブレイクのときに撮った1枚です。羊たちは、あんまり暑いので、こうやって互いにくっつきあって、頭の部分だけでも日陰の下でなけなしの涼をとっているのです。

  • 羊たちに焦点を当ててもう1枚撮りました。なんだか、頭隠して尻隠さず、みたいで、とっても可愛いです。<br /><br />他にも、油断すると、車の下の日陰を求めて、羊やヤギたちが我先へ潜り込んでしまうのです。発車しようとするときに、そういった動物たちを追っ払うのが一苦労だそうです。<br /><br />写真の真ん中の右端に見えるのが、ベドウィン人キャンプです。<br /><br />ユダヤ沙漠に入ってまもなく、他にもベドウィン人のテントをいくつも見かけました。それが……いやはや、全部が全部ではないのですが、私の目にはほとんどプレハブのゴミの山に見えました。家畜のテントはそれでいいにしても、まさかあれには人は住んでいなかろう、と思われるような、みずぼらしいものもありました。あれでも、中は外観からは想像も付かないようなステキな生活空間に改造されているのでしょうか。それとも、どんな所でも住めば都、を地でいっているのでしょうか。<br /><br />モティさんの話によると、定住地を持たない遊牧民であるベドウィンも、今ではかなり定住化していて、生活が変化しているそうです。なにより、イスラエル政府が、遊牧民を無国籍のまま国内に居つかせるのを嫌っているのです。<br /><br />住民登録をすれば、彼らも当然、イスラエルの法律に縛られます。その一環で義務教育を受け、町の生活に触れた子供たちは、砂漠の厳しい生活に戻りたがらなくなります。あと2〜3世代もたてば、遊牧民の生活スタイルを保つベドウィンはいなくなるのではないか、とモティさんは言っていました。<br /><br />そうやって一つの民族がまた消えていくのは寂しい気がしますが、それにしたって、大学まで行くようになったベドウィンの若い男女が、いまだに自由恋愛結婚が許されないというのは厳しい話です。ベドウィンの掟では、結婚前の若い娘が男と会うのは、本来、厳禁なので、相手の男が彼女の父親に「お嬢さんが好きなので、お嫁さんに下さい」などと言えるはずがないのです。もしそうやって正式な結婚の手続きをすっとばして直接申し込んだりしたら、大変です。父親は、その若者はもちろん、掟を破った娘も、一族の名誉のために手にかけなければならないのです。今でも(1998年当時)、そうしてベドウィンの父親が娘を殺した、という事件が、時々新聞に載るそうです。信じられないような話です。<br /><br />───それでは、ベドウィンの娘に惚れたけど、金がなくて、べらぼうな結納金を払えない若者はどうしたらいいのでしょうか。答えは一つ。満月の晩に娘をさらってくればよいのです。ひとえに、月の魔力が自分を狂わせたんだ、と言い訳して。本当はもちろん、彼女としめし合わせているですけど。でも、それで二人が父親の追跡を一晩逃れることができれば、父親は娘を諦めなければならないそうです。いやはや、これも全く、ウソのようなホントのような話です。<br /><br />この話には続きがありました。この方法は、一人目の妻を迎える時にしか使えません。ベドウィンも経済力に応じて妻を複数持つことができますが、二人目の妻が欲しければ、今度は結納金をケチるわけにはいかないのです。というのも、既に一人、妻がいるので、月の魔力に狂った、という言い訳は成り立たないからだ、とか。

    羊たちに焦点を当ててもう1枚撮りました。なんだか、頭隠して尻隠さず、みたいで、とっても可愛いです。

    他にも、油断すると、車の下の日陰を求めて、羊やヤギたちが我先へ潜り込んでしまうのです。発車しようとするときに、そういった動物たちを追っ払うのが一苦労だそうです。

    写真の真ん中の右端に見えるのが、ベドウィン人キャンプです。

    ユダヤ沙漠に入ってまもなく、他にもベドウィン人のテントをいくつも見かけました。それが……いやはや、全部が全部ではないのですが、私の目にはほとんどプレハブのゴミの山に見えました。家畜のテントはそれでいいにしても、まさかあれには人は住んでいなかろう、と思われるような、みずぼらしいものもありました。あれでも、中は外観からは想像も付かないようなステキな生活空間に改造されているのでしょうか。それとも、どんな所でも住めば都、を地でいっているのでしょうか。

    モティさんの話によると、定住地を持たない遊牧民であるベドウィンも、今ではかなり定住化していて、生活が変化しているそうです。なにより、イスラエル政府が、遊牧民を無国籍のまま国内に居つかせるのを嫌っているのです。

    住民登録をすれば、彼らも当然、イスラエルの法律に縛られます。その一環で義務教育を受け、町の生活に触れた子供たちは、砂漠の厳しい生活に戻りたがらなくなります。あと2〜3世代もたてば、遊牧民の生活スタイルを保つベドウィンはいなくなるのではないか、とモティさんは言っていました。

    そうやって一つの民族がまた消えていくのは寂しい気がしますが、それにしたって、大学まで行くようになったベドウィンの若い男女が、いまだに自由恋愛結婚が許されないというのは厳しい話です。ベドウィンの掟では、結婚前の若い娘が男と会うのは、本来、厳禁なので、相手の男が彼女の父親に「お嬢さんが好きなので、お嫁さんに下さい」などと言えるはずがないのです。もしそうやって正式な結婚の手続きをすっとばして直接申し込んだりしたら、大変です。父親は、その若者はもちろん、掟を破った娘も、一族の名誉のために手にかけなければならないのです。今でも(1998年当時)、そうしてベドウィンの父親が娘を殺した、という事件が、時々新聞に載るそうです。信じられないような話です。

    ───それでは、ベドウィンの娘に惚れたけど、金がなくて、べらぼうな結納金を払えない若者はどうしたらいいのでしょうか。答えは一つ。満月の晩に娘をさらってくればよいのです。ひとえに、月の魔力が自分を狂わせたんだ、と言い訳して。本当はもちろん、彼女としめし合わせているですけど。でも、それで二人が父親の追跡を一晩逃れることができれば、父親は娘を諦めなければならないそうです。いやはや、これも全く、ウソのようなホントのような話です。

    この話には続きがありました。この方法は、一人目の妻を迎える時にしか使えません。ベドウィンも経済力に応じて妻を複数持つことができますが、二人目の妻が欲しければ、今度は結納金をケチるわけにはいかないのです。というのも、既に一人、妻がいるので、月の魔力に狂った、という言い訳は成り立たないからだ、とか。

  • ところで、幹線道路からユダヤ沙漠に入る前に、白い沙漠の中にぽっかり浮ぶ、作り物のようなかわいらしい町を見かけました。そういった町は、2日目、テルアヴィヴからエルサレム経由で死海への移動した最中でも見かけました。それは、パレスチナ自治区に侵入しているユダヤ人入植地でした。<br /><br />ユダヤ人入植地は、ユダヤ沙漠に入ってからも、遠くに眺めることができました。写真は、ベドウィン人キャンプのそばでコーヒーブレイクをとったときに撮ったものです。<br /><br />ユダヤ人入植地問題は、中東和平交渉の実現を滞らせている原因の一つです(1998年現在)。入植地関係の記事は、日本の新聞にもよく載っています。旅行に来る前の1998年8月も、朝日新聞の朝刊に3件も載っていました。ヨルダン川西岸ヘブロンの入植飛び地でユダヤ教の聖職者である律法学者(ラビ)が殺された件と、やはり同じヘブロンの別の入植地で、夜間パトロール中のユダヤ人入植者2人が殺された件。それから、現ネフタニヤ政権が、北の隣国シリアが返還を求めているゴラン高原に入植地拡大計画を発表した件。この入植地拡大計画については、歴代の大統領の中でもとりわけイスラエルびいきだと言われるクリントン大統領(1998年8月当時)のアメリカ政府でさえ、ただでさえ滞っている中東和平交渉にますます水を差すものだとして非難したとか。<br /><br />そんな暗いニュースのせいか、私がイメージしていた入植地というのは、工事中で鉄条網が張り巡らされ、取り壊された建物の廃虚がまだあちこちに残ったままの、錆がかったクレーンと道路に打ち込まれる槌の音が似合う、寂れて薄汚れた町でした。思うに、この想像の出所は、ナチスがユダヤ人を強制収容させたアウシュヴッツあたりのものだったようです。<br /><br />もちろん、こんなのは、本当に私の考えなしの想像にすぎませんでした。入植地は収容所ではなく、あくまで住宅地なのですから。それでも、まさか、あんな風に、赤系統の明るい色の屋根に真っ白な壁の、おそろいの真新しい家が並ぶかわいらしい町とは、夢にも思いませんでした。<br /><br />それにしても、いったんパレスチナ自治区と認めた地区にユダヤ人の町を無理矢理造るのは、私でもおかしいと思うのですが、タカ派の現政権(1998年8月当時)は譲ろうとしないそうです。入植地を縮小するどころか、拡大をやめようとしません。彼ら曰く、今、縮小したら、すでにある入植地がパレスチナ人の町だらけの中にポツンと取り残されて、陸の孤島になってしまう、ということらしいです。それなら最初から造らなければいいのに、と思うのは、なんの確執もこだわりもない第三者の無責任な意見なのでしょうね。<br /><br />そんな私が書けば書くほど蛇足になりそうですが、イスラエル側の主張の一つとして、ユダヤ人は移住してくる際、パレスチナ人にきちんと金を払って正式に土地を買ったのに、パレスチナ人が後から世論を味方にその契約を反故にして抗議しているだけ、というのもありました。そうだとしたらそれは納得できるかなぁと意見はすぐにゆらぎます。<br /><br />ところが、実は、ユダヤ人が現イスラエルであるパレスチナの地を自分たちの土地と主張する根拠は、遡れば旧約聖書時代にまでたどり着いてしまうのです。神がアブラハムとモーゼに向かって、ユダヤ人に与えると約束したことに端を発しているようです。うーん、神の約束ねぇ。それってユダヤ人の神であって、他の民族には関係ないんじゃないの? ───と、神話を一つの文学ジャンル以上に考えられない私には、理解するのは難かしいです。つまるところ宗教とは、本来そこまで民族のアイデンティティーに食い込むものなのでしょう。といっても、これも、私の頭の中での観念的な理解でしかありません。心を理解するのは、もっと難かしいです。

    ところで、幹線道路からユダヤ沙漠に入る前に、白い沙漠の中にぽっかり浮ぶ、作り物のようなかわいらしい町を見かけました。そういった町は、2日目、テルアヴィヴからエルサレム経由で死海への移動した最中でも見かけました。それは、パレスチナ自治区に侵入しているユダヤ人入植地でした。

    ユダヤ人入植地は、ユダヤ沙漠に入ってからも、遠くに眺めることができました。写真は、ベドウィン人キャンプのそばでコーヒーブレイクをとったときに撮ったものです。

    ユダヤ人入植地問題は、中東和平交渉の実現を滞らせている原因の一つです(1998年現在)。入植地関係の記事は、日本の新聞にもよく載っています。旅行に来る前の1998年8月も、朝日新聞の朝刊に3件も載っていました。ヨルダン川西岸ヘブロンの入植飛び地でユダヤ教の聖職者である律法学者(ラビ)が殺された件と、やはり同じヘブロンの別の入植地で、夜間パトロール中のユダヤ人入植者2人が殺された件。それから、現ネフタニヤ政権が、北の隣国シリアが返還を求めているゴラン高原に入植地拡大計画を発表した件。この入植地拡大計画については、歴代の大統領の中でもとりわけイスラエルびいきだと言われるクリントン大統領(1998年8月当時)のアメリカ政府でさえ、ただでさえ滞っている中東和平交渉にますます水を差すものだとして非難したとか。

    そんな暗いニュースのせいか、私がイメージしていた入植地というのは、工事中で鉄条網が張り巡らされ、取り壊された建物の廃虚がまだあちこちに残ったままの、錆がかったクレーンと道路に打ち込まれる槌の音が似合う、寂れて薄汚れた町でした。思うに、この想像の出所は、ナチスがユダヤ人を強制収容させたアウシュヴッツあたりのものだったようです。

    もちろん、こんなのは、本当に私の考えなしの想像にすぎませんでした。入植地は収容所ではなく、あくまで住宅地なのですから。それでも、まさか、あんな風に、赤系統の明るい色の屋根に真っ白な壁の、おそろいの真新しい家が並ぶかわいらしい町とは、夢にも思いませんでした。

    それにしても、いったんパレスチナ自治区と認めた地区にユダヤ人の町を無理矢理造るのは、私でもおかしいと思うのですが、タカ派の現政権(1998年8月当時)は譲ろうとしないそうです。入植地を縮小するどころか、拡大をやめようとしません。彼ら曰く、今、縮小したら、すでにある入植地がパレスチナ人の町だらけの中にポツンと取り残されて、陸の孤島になってしまう、ということらしいです。それなら最初から造らなければいいのに、と思うのは、なんの確執もこだわりもない第三者の無責任な意見なのでしょうね。

    そんな私が書けば書くほど蛇足になりそうですが、イスラエル側の主張の一つとして、ユダヤ人は移住してくる際、パレスチナ人にきちんと金を払って正式に土地を買ったのに、パレスチナ人が後から世論を味方にその契約を反故にして抗議しているだけ、というのもありました。そうだとしたらそれは納得できるかなぁと意見はすぐにゆらぎます。

    ところが、実は、ユダヤ人が現イスラエルであるパレスチナの地を自分たちの土地と主張する根拠は、遡れば旧約聖書時代にまでたどり着いてしまうのです。神がアブラハムとモーゼに向かって、ユダヤ人に与えると約束したことに端を発しているようです。うーん、神の約束ねぇ。それってユダヤ人の神であって、他の民族には関係ないんじゃないの? ───と、神話を一つの文学ジャンル以上に考えられない私には、理解するのは難かしいです。つまるところ宗教とは、本来そこまで民族のアイデンティティーに食い込むものなのでしょう。といっても、これも、私の頭の中での観念的な理解でしかありません。心を理解するのは、もっと難かしいです。

  • やはりユダヤ沙漠はカッコイイです。このサファリ・ツアーに参加して、本当に良かった!<br /><br />ユダヤ沙漠は、一面、乳白色っぽい白い沙漠なのですが、同じ白い砂漠でも、去年(1997年)見て来たサハラ砂漠のような、砂がサラサラな砂漠ではなく、もっと固そうです。四輪駆動であれば、ジープでも走り抜けることができます。サハラ砂漠では、オアシスや街のそばの少し草木が生えているところならともかく、車が通るなんて考えられませんでした。<br /><br />写真のとおり、ユダヤ沙漠は、なだらかな傾斜がいくつもいつくも重なっています。いかにも、イエスが修行のためにさまよった荒野のイメージそのものです。夏は摂氏50度を超す灼熱の荒野で、冬は寒風に曝される岩場、という修行にふさわしい厳しい場所なのです。

    やはりユダヤ沙漠はカッコイイです。このサファリ・ツアーに参加して、本当に良かった!

    ユダヤ沙漠は、一面、乳白色っぽい白い沙漠なのですが、同じ白い砂漠でも、去年(1997年)見て来たサハラ砂漠のような、砂がサラサラな砂漠ではなく、もっと固そうです。四輪駆動であれば、ジープでも走り抜けることができます。サハラ砂漠では、オアシスや街のそばの少し草木が生えているところならともかく、車が通るなんて考えられませんでした。

    写真のとおり、ユダヤ沙漠は、なだらかな傾斜がいくつもいつくも重なっています。いかにも、イエスが修行のためにさまよった荒野のイメージそのものです。夏は摂氏50度を超す灼熱の荒野で、冬は寒風に曝される岩場、という修行にふさわしい厳しい場所なのです。

  • なだらかな傾斜の荒野が続く、と思ったら、水の枯れた複雑な経路の河床(wadi)に、その両面から迫り来る、薄いプレート状の地層をギザギザに重ねた断面のような岩壁が見えてきました。これが、もう、カッコイイのなんのって! すっかり見ほれてしまいました。<br /><br />写真では、ギザギザの断層地形が、ちらっと見えて来ています。

    なだらかな傾斜の荒野が続く、と思ったら、水の枯れた複雑な経路の河床(wadi)に、その両面から迫り来る、薄いプレート状の地層をギザギザに重ねた断面のような岩壁が見えてきました。これが、もう、カッコイイのなんのって! すっかり見ほれてしまいました。

    写真では、ギザギザの断層地形が、ちらっと見えて来ています。

  • ユダヤ沙漠の断層地形です。もぉ、しびれるようなカッコ良さ! 谷間の底には、少しだけ水が見えます。<br /><br />モティさんの説明によると、ユダヤ沙漠も、年間平均としては少量ですが、冬にどしゃぶりの雨が降ります。といっても、年間たったの500mmです。しかし、土壌が、ほとんど水を吸わない石灰石(limestone)なので、水はしみ込まずに死海へ流れます。その時に水が地表を削っていくので、こういった複雑奇怪な地形になるのだそうです。<br /><br />ギザギザの地層には、所々、黒い火打ち石(flint)の層が混ざっているところもありました。その様子は、まるでペンで地表に落書きをしたようでした。<br /><br />ジープは、砂漠の上の平らなところを選んで走っていますが、それが一応、道でした。そして、道標は、なんと、赤や緑の丸や三角形がペイントされた道端の岩でした。それを見かけるたびに、モティさんは演技たっぷりに、「オーケー。まだ道に迷ってないね」と私たちをおどかすフリをするのですが、それより私は、どこかの不心得者がいたずら心を起こして、その道標の岩を動かしやしないか、そっちの方を心配してしまいました。なにしろ、両手で簡単に持ち上げられそうなくらい小さな岩に、知らなければほとんど落書きにしか見えないペイントなのですから。<br /><br />途中で、モティさんに教えられるままに、バード・ウォッチングらしきこともしました。イスラエルの秋の空は、ヨーロッパからサウジアラビアへ渡る渡り鳥たちの通り道になるのです。私がわかったのは、ハゲタカと、Nun Flycatcher。Nun Flycatcherは、白と黒だけの、小さくて愛らしい鳥でした。

    ユダヤ沙漠の断層地形です。もぉ、しびれるようなカッコ良さ! 谷間の底には、少しだけ水が見えます。

    モティさんの説明によると、ユダヤ沙漠も、年間平均としては少量ですが、冬にどしゃぶりの雨が降ります。といっても、年間たったの500mmです。しかし、土壌が、ほとんど水を吸わない石灰石(limestone)なので、水はしみ込まずに死海へ流れます。その時に水が地表を削っていくので、こういった複雑奇怪な地形になるのだそうです。

    ギザギザの地層には、所々、黒い火打ち石(flint)の層が混ざっているところもありました。その様子は、まるでペンで地表に落書きをしたようでした。

    ジープは、砂漠の上の平らなところを選んで走っていますが、それが一応、道でした。そして、道標は、なんと、赤や緑の丸や三角形がペイントされた道端の岩でした。それを見かけるたびに、モティさんは演技たっぷりに、「オーケー。まだ道に迷ってないね」と私たちをおどかすフリをするのですが、それより私は、どこかの不心得者がいたずら心を起こして、その道標の岩を動かしやしないか、そっちの方を心配してしまいました。なにしろ、両手で簡単に持ち上げられそうなくらい小さな岩に、知らなければほとんど落書きにしか見えないペイントなのですから。

    途中で、モティさんに教えられるままに、バード・ウォッチングらしきこともしました。イスラエルの秋の空は、ヨーロッパからサウジアラビアへ渡る渡り鳥たちの通り道になるのです。私がわかったのは、ハゲタカと、Nun Flycatcher。Nun Flycatcherは、白と黒だけの、小さくて愛らしい鳥でした。

  • 突然、モティさんが、私たち全員に目を閉じるように言いました。そして、もういい、と言われて目を開けたときに、岩壁の合間に修道院が広がっていました。<br /><br />写真は、聖サバス修道院です。ギリシャ正教の修道院です。死海から約10kmほどのところです。残念ながら、女人禁制なので、見学できないとのこと。ただし、もしこのツアーの参加者が男性だけだったら、見学を試みたそうなんですよね。<br /><br />この修道院には、修道僧の家族が面会しに来ることもあるのですが、たとえ母親であろうと、女性は、特別の棟に案内されて、敷地には入れてもらえないそうです。

    突然、モティさんが、私たち全員に目を閉じるように言いました。そして、もういい、と言われて目を開けたときに、岩壁の合間に修道院が広がっていました。

    写真は、聖サバス修道院です。ギリシャ正教の修道院です。死海から約10kmほどのところです。残念ながら、女人禁制なので、見学できないとのこと。ただし、もしこのツアーの参加者が男性だけだったら、見学を試みたそうなんですよね。

    この修道院には、修道僧の家族が面会しに来ることもあるのですが、たとえ母親であろうと、女性は、特別の棟に案内されて、敷地には入れてもらえないそうです。

  • 昼食は、死海地方のキブーツの食堂で食べました。写真は、緑豊かなキブーツの敷地内から、ユダヤ沙漠を見上げた1枚です。ここでも、緑あふれるキブーツと、草も生えない沙漠が、背中合わせでくっきり対比をなしています。<br /><br />キブーツとは、簡単に説明すると、旧ソ連の「コルホーズ」や中国の「人民公社」のイスラエル版とも言うべき共産農業共同体です。イスラエルの農業の大半は彼らが担っています(約40%──1998年当時)。中には、かなり大規模な土地を有し、経済力のあるキブーツもあるようですが、今は、どちらかというと、人員不足で存続が危ういのが多いそうです。元来、人間には、完全平等な社会主義生活というのは無理なようです。確かに、人より多く働いた人間が他の人間と同じだけしか報酬がもらえないとしたら、不満が募ることでしょう。<br /><br />しかし、キブーツは、コルホーズや人民公社のような解体の憂き目に遭う代わりに、ある程度資本主義の要素を取り入れることで成功しつつあるそうです。正式な成員にならずとも外から働きに来る者も積極的に雇います。たとえ観光客でも、希望すれば、彼らと労働・生活を共にすることができますし、それもイスラエルの観光魅力の一つともなっています。(1998年当時)<br /><br />私たちがお昼を食べたキブーツは、かつてモティさんが働いていた所でした。しかし、彼の奥さんが死海地方の気候に耐えられなくて、辞めたのだそうです。<br /><br />確かに、このあたりは夏は、たびたび摂氏40度を超すといいますし、日本の多湿な夏並みに湿度も高いです。エアコン完備のジープの外に出ると、とたんに空気が重いのです。湿度が高くて、息苦しいほどです。それでも日本よりは湿気はしつこくないのですが……。しかし、空気は非常にきれいなのだそうです。この辺りで働いている人に、自慢されちゃったくらいです。「東京の空気はとても汚いって本当? ここはすごくきれいだから、健康にも肌にもとてもいいのよ」って。

    昼食は、死海地方のキブーツの食堂で食べました。写真は、緑豊かなキブーツの敷地内から、ユダヤ沙漠を見上げた1枚です。ここでも、緑あふれるキブーツと、草も生えない沙漠が、背中合わせでくっきり対比をなしています。

    キブーツとは、簡単に説明すると、旧ソ連の「コルホーズ」や中国の「人民公社」のイスラエル版とも言うべき共産農業共同体です。イスラエルの農業の大半は彼らが担っています(約40%──1998年当時)。中には、かなり大規模な土地を有し、経済力のあるキブーツもあるようですが、今は、どちらかというと、人員不足で存続が危ういのが多いそうです。元来、人間には、完全平等な社会主義生活というのは無理なようです。確かに、人より多く働いた人間が他の人間と同じだけしか報酬がもらえないとしたら、不満が募ることでしょう。

    しかし、キブーツは、コルホーズや人民公社のような解体の憂き目に遭う代わりに、ある程度資本主義の要素を取り入れることで成功しつつあるそうです。正式な成員にならずとも外から働きに来る者も積極的に雇います。たとえ観光客でも、希望すれば、彼らと労働・生活を共にすることができますし、それもイスラエルの観光魅力の一つともなっています。(1998年当時)

    私たちがお昼を食べたキブーツは、かつてモティさんが働いていた所でした。しかし、彼の奥さんが死海地方の気候に耐えられなくて、辞めたのだそうです。

    確かに、このあたりは夏は、たびたび摂氏40度を超すといいますし、日本の多湿な夏並みに湿度も高いです。エアコン完備のジープの外に出ると、とたんに空気が重いのです。湿度が高くて、息苦しいほどです。それでも日本よりは湿気はしつこくないのですが……。しかし、空気は非常にきれいなのだそうです。この辺りで働いている人に、自慢されちゃったくらいです。「東京の空気はとても汚いって本当? ここはすごくきれいだから、健康にも肌にもとてもいいのよ」って。

  • 沙漠の岩壁には、天然の洞窟がたくさくできています。かつては修行僧がその中で暮らしていました。そういう洞穴の一つの中が、死海写本が発見されたクムランの洞窟です。<br /><br />クムラン洞窟も見学できるのかなぁと期待していましたが、あいにく洞窟が見えるこのアングルから写真を撮ることができただけでした。しかし、もともとクムランに行くことも、この洞窟を間近に見ることも予定していなかったので、これでも予想外の儲け物でした。

    沙漠の岩壁には、天然の洞窟がたくさくできています。かつては修行僧がその中で暮らしていました。そういう洞穴の一つの中が、死海写本が発見されたクムランの洞窟です。

    クムラン洞窟も見学できるのかなぁと期待していましたが、あいにく洞窟が見えるこのアングルから写真を撮ることができただけでした。しかし、もともとクムランに行くことも、この洞窟を間近に見ることも予定していなかったので、これでも予想外の儲け物でした。

  • クムラン洞窟とユダヤ沙漠を一緒にファインダーに入れてみました。<br /><br />クムランで写本が発見されたのは1947年の夏。おりしもイスラエルの独立戦争が始まる直前でした。イスラエルの人々はこれを単なる偶然とは思わず、イスラエルの独立を神が望んでいることの証明・前兆の出来事のように思って誇りにしているそうです。<br /><br />ところで、このクムランへはこのまま沙漠を突っ切って来る予定だったのですが、ユダヤ沙漠の一部は軍の訓練地に当てられていて、ちょうど訓練の最中でした。そのため通過許可が下りませんでした。残念でしたが、私たちは道路に戻って迂回してここにたどり着きました。

    クムラン洞窟とユダヤ沙漠を一緒にファインダーに入れてみました。

    クムランで写本が発見されたのは1947年の夏。おりしもイスラエルの独立戦争が始まる直前でした。イスラエルの人々はこれを単なる偶然とは思わず、イスラエルの独立を神が望んでいることの証明・前兆の出来事のように思って誇りにしているそうです。

    ところで、このクムランへはこのまま沙漠を突っ切って来る予定だったのですが、ユダヤ沙漠の一部は軍の訓練地に当てられていて、ちょうど訓練の最中でした。そのため通過許可が下りませんでした。残念でしたが、私たちは道路に戻って迂回してここにたどり着きました。

  • ヨルダンとの国境地帯を走りました。Danger ! の立て札があります。<br /><br />ヨルダンとの国境地帯は、死海より南はベドウィン人くらいしか住んでいないので、自由に行き来させているそうですが(1998年当時)、北はヨルダン川に住むパレスチナ原理主義の過激派が出入りすることがあるので、センサー付の鉄条網でぐーっと覆われています。<br /><br />モティさんは、私たちをヨルダン川のイエスが洗礼を受けた場所に案内する予定だったのです。しかし、冒頭で紹介したとおり、国境軍とのやりとりがあって、結局はイエスが洗礼を受けた場所へは行けませんでした。<br /><br />余談ですが、その洗礼場所付近には、イエスの洗礼を記念して、かつて東方正教の修道院があったそうです。ところが、その修道院の僧侶がパレスチナ人テロのイスラエル入国を手伝ったので、修道院は解体されてしまい、今は何もないとのことです(1998年当時)。<br /><br />私たちはこの後、ヨルダンとの国境からそう遠くない、聖ガリスムス教会を見学しました。ライオンの怪我を直したという聖ガリシムス(Garisimus)という聖人を祭った東方正教の教会です。(あいにく写真はありません)。<br /><br />この教会の中で、モティさんに、東方正教とカトリック教の教会の違いを簡単にレクチャーしてもらいました。これは、私がこの2年後の2000年にロシアのサンクト・ペテルブルグとモスクワを旅行したときを始め、その後の旅行先での一人歩きで、とても参考になりました。<br /><br />まずは、説教する司教が、東方正教の場合は、イコン(聖人像)が描かれた板(聖障=イコノスタシス)の向こうにいて見えません。それから、東方正教では信者は立っているので、信者席がありません。また、東方教会にはカトリック教会のような教皇をトップとする階級制度なく、司教はすべて平等なのだそうです。

    ヨルダンとの国境地帯を走りました。Danger ! の立て札があります。

    ヨルダンとの国境地帯は、死海より南はベドウィン人くらいしか住んでいないので、自由に行き来させているそうですが(1998年当時)、北はヨルダン川に住むパレスチナ原理主義の過激派が出入りすることがあるので、センサー付の鉄条網でぐーっと覆われています。

    モティさんは、私たちをヨルダン川のイエスが洗礼を受けた場所に案内する予定だったのです。しかし、冒頭で紹介したとおり、国境軍とのやりとりがあって、結局はイエスが洗礼を受けた場所へは行けませんでした。

    余談ですが、その洗礼場所付近には、イエスの洗礼を記念して、かつて東方正教の修道院があったそうです。ところが、その修道院の僧侶がパレスチナ人テロのイスラエル入国を手伝ったので、修道院は解体されてしまい、今は何もないとのことです(1998年当時)。

    私たちはこの後、ヨルダンとの国境からそう遠くない、聖ガリスムス教会を見学しました。ライオンの怪我を直したという聖ガリシムス(Garisimus)という聖人を祭った東方正教の教会です。(あいにく写真はありません)。

    この教会の中で、モティさんに、東方正教とカトリック教の教会の違いを簡単にレクチャーしてもらいました。これは、私がこの2年後の2000年にロシアのサンクト・ペテルブルグとモスクワを旅行したときを始め、その後の旅行先での一人歩きで、とても参考になりました。

    まずは、説教する司教が、東方正教の場合は、イコン(聖人像)が描かれた板(聖障=イコノスタシス)の向こうにいて見えません。それから、東方正教では信者は立っているので、信者席がありません。また、東方教会にはカトリック教会のような教皇をトップとする階級制度なく、司教はすべて平等なのだそうです。

  • 道路を走っているときに、道路を渡りに来たラクダの群れが見えました。こういうとき、歩行者ならぬ歩行動物が優先となるので、モティさんはジープを止めました。<br /><br />モティさんは、あの群れはみんなメスだと言いました。ラクダは、その目元の可愛らしい見かけに反して狂暴な性質なので、オスはテントのそばから群れで離すことなどできないそうです。

    道路を走っているときに、道路を渡りに来たラクダの群れが見えました。こういうとき、歩行者ならぬ歩行動物が優先となるので、モティさんはジープを止めました。

    モティさんは、あの群れはみんなメスだと言いました。ラクダは、その目元の可愛らしい見かけに反して狂暴な性質なので、オスはテントのそばから群れで離すことなどできないそうです。

  • ベトウィン人のラクダの群れです。道路を渡る前に、群れの先頭にいた何頭かが、道草を食ってしまいました。写真のとおり、文字どおり、道端の草を、食っています。<br /><br />後方には、ラクダの番をする少年が2人従っています。少年の1人がラクダたちを促して、道路を渡らせました。<br /><br />ラクダたちを近くで見ると、なるほど私が去年の1997年、チュニジアのサハラ砂漠で見かけたオスのラクダの群れに比べると、どのラクダも小柄で、肌の色もだいぶ淡い色をしていて、なんとなくメスっぽいとうなづけました。

    ベトウィン人のラクダの群れです。道路を渡る前に、群れの先頭にいた何頭かが、道草を食ってしまいました。写真のとおり、文字どおり、道端の草を、食っています。

    後方には、ラクダの番をする少年が2人従っています。少年の1人がラクダたちを促して、道路を渡らせました。

    ラクダたちを近くで見ると、なるほど私が去年の1997年、チュニジアのサハラ砂漠で見かけたオスのラクダの群れに比べると、どのラクダも小柄で、肌の色もだいぶ淡い色をしていて、なんとなくメスっぽいとうなづけました。

  • ラクダの番をするベドウィン人の少年の写真を撮らせてもらいました。<br /><br />ラクダはかしこいし、これはメスばかりの群れなので、少年でも番が務まるのだそうです。ただし、唯一、気をつけなければならないのは、こうやって道路を渡るときだそうです。<br /><br />帰りはモティさんのジープでホテルまで送ってもらえたので、5時半には部屋に戻ることができました。一日の大半、車の中にデーンと座っているだけでしたので、まだまだ元気が余っています。<br /><br />というわけで、夜間は、イスラエル博物館を再訪することにしました。毎週火曜日だけは、夜10時まで開いているのです。<br /><br />イスラエル博物館は、ホテルから歩いて20分くらいの距離にあります。実は、私が滞在しているホテルもイスラエル博物館も、国会議事堂(クネセット)や中央銀行、首相官邸、財務省、最高裁判所、それから国際会議所がある、イスラエルの「ワシントン」と言われる地区にあるのです(1998年イスラエル旅行記「4日目(その2:エルサレムのホテル周辺(官庁・大学分校・エルサレム二大博物館が集中する新市街Givat Ram地区))」を参考)。<br /><br />ちなみに、イスラエルのワシントンなんて言ったのは、私ではありません。現知ツアーのガイドの一人がそう言ってたんですよ。<br /><br />だから、あまり人通りはないですが、そんなに治安は悪くありません。それでも帰りは遅くなる予定なので、手荷物はできるだけ減らし、念のために懐中電灯付きの安全ブザーを持って行きました。<br /><br />イスラエル博物館の本館は、アジア・アフリカ・オセアニアの民族美術部門、考古学部門、西洋近・現代美術部門、ユダヤ美術史部門、ユダヤ文化コレクション部門などに分かれています。昨日は半日かけて、西洋近・現代美術部門とユダヤ美術史部門しか回れませんでした。今日は、民族美術部門から取りかかり、ユダヤ文化コレクションを回ることにしました。<br /><br />そうして約一時間のミュージーアム・ショップ兼休憩を挟んで、夕方6時から9時まで見てまわりました。閉館は10時でしたが、そこでどうにも疲れてしまったので、9時でリタイヤしました。<br /><br />結局、この日にユダヤ文化コレクションは、最後まで見終わらせることができませんでした。なので、このコレクションを見終わらせるために、イスラエル最終日の17日の木曜日の午後に、もう一度この博物館に来ることにしました。やっぱりユダヤ文化コレクションは、これこそイスラエルにある博物館らしいコレクションといえますから、じっくり取り組む必要があります。いや、そうしなければ、もったいないです。<br /><br />実は、今回、ユダヤ文化コレクション部門では、始めのうちは、豪華絢爛な展示品に目を輝かせていただけでした。しかし、私は、生憎、ユダヤ教の祭具については、役割も使い方もほとんど知りません。なんだかわけのわからないけど、きれいな物がいっぱい並んでいるなぁ、という鑑賞の仕方では、次第に興味が半減してきます。何か意味があるに違いないけれど、私にはわからない、という思いは、もどかしさも募ります。なので、もう一度、エリアの最初の部屋に戻って、壁の説明をきちんと読みながら改めて鑑賞し直したのです。<br /><br />しかし、さすがに、一日たっぷり遊んで来た後の夜の9時です。途中で体力も気力も根性も尽きてしまい、半ばでリタイアしてしまったというわけです。<br /><br />見学の途中で、腕時計を落としてしまったのも、痛かったです。今、何時かわからない、残りどのくらい時間があるかわからない、という状態は、なんとなく落ち着きませんでした。<br /><br />その腕時計ですが、一昨日も、ホテルへ戻るバスを探してうろうろしているときに落として、婦警さんに拾ってもらったくらいなのですから、接続部が甘くなっていたわけです。目覚まし時計は持参していますが、腕時計は1本しかありません。ダメ元で博物館の切符売り場のそばの事務所で、落とし物が届いていないか尋ねてみたら……ありました! 諦めかけていただけに、どんなに嬉しかったことか。<br /><br />なので、帰りの道は気分もよく、足取りも軽かったです。夜の9時すぎの官庁街、人どおりはほとんどないのですが、街灯は明るく、歩道も広く見晴しがよいので、ほとんど怖くありませんでした。エルサレム新市街の街の明かりと、自動車の明かりがチラチラと瞬いて、美しい夜景を楽しみながらホテルへ向かいました。(自分でやっておいてなんですが、もちろん、このような女一人の夜間歩きはお薦めしません@)

    ラクダの番をするベドウィン人の少年の写真を撮らせてもらいました。

    ラクダはかしこいし、これはメスばかりの群れなので、少年でも番が務まるのだそうです。ただし、唯一、気をつけなければならないのは、こうやって道路を渡るときだそうです。

    帰りはモティさんのジープでホテルまで送ってもらえたので、5時半には部屋に戻ることができました。一日の大半、車の中にデーンと座っているだけでしたので、まだまだ元気が余っています。

    というわけで、夜間は、イスラエル博物館を再訪することにしました。毎週火曜日だけは、夜10時まで開いているのです。

    イスラエル博物館は、ホテルから歩いて20分くらいの距離にあります。実は、私が滞在しているホテルもイスラエル博物館も、国会議事堂(クネセット)や中央銀行、首相官邸、財務省、最高裁判所、それから国際会議所がある、イスラエルの「ワシントン」と言われる地区にあるのです(1998年イスラエル旅行記「4日目(その2:エルサレムのホテル周辺(官庁・大学分校・エルサレム二大博物館が集中する新市街Givat Ram地区))」を参考)。

    ちなみに、イスラエルのワシントンなんて言ったのは、私ではありません。現知ツアーのガイドの一人がそう言ってたんですよ。

    だから、あまり人通りはないですが、そんなに治安は悪くありません。それでも帰りは遅くなる予定なので、手荷物はできるだけ減らし、念のために懐中電灯付きの安全ブザーを持って行きました。

    イスラエル博物館の本館は、アジア・アフリカ・オセアニアの民族美術部門、考古学部門、西洋近・現代美術部門、ユダヤ美術史部門、ユダヤ文化コレクション部門などに分かれています。昨日は半日かけて、西洋近・現代美術部門とユダヤ美術史部門しか回れませんでした。今日は、民族美術部門から取りかかり、ユダヤ文化コレクションを回ることにしました。

    そうして約一時間のミュージーアム・ショップ兼休憩を挟んで、夕方6時から9時まで見てまわりました。閉館は10時でしたが、そこでどうにも疲れてしまったので、9時でリタイヤしました。

    結局、この日にユダヤ文化コレクションは、最後まで見終わらせることができませんでした。なので、このコレクションを見終わらせるために、イスラエル最終日の17日の木曜日の午後に、もう一度この博物館に来ることにしました。やっぱりユダヤ文化コレクションは、これこそイスラエルにある博物館らしいコレクションといえますから、じっくり取り組む必要があります。いや、そうしなければ、もったいないです。

    実は、今回、ユダヤ文化コレクション部門では、始めのうちは、豪華絢爛な展示品に目を輝かせていただけでした。しかし、私は、生憎、ユダヤ教の祭具については、役割も使い方もほとんど知りません。なんだかわけのわからないけど、きれいな物がいっぱい並んでいるなぁ、という鑑賞の仕方では、次第に興味が半減してきます。何か意味があるに違いないけれど、私にはわからない、という思いは、もどかしさも募ります。なので、もう一度、エリアの最初の部屋に戻って、壁の説明をきちんと読みながら改めて鑑賞し直したのです。

    しかし、さすがに、一日たっぷり遊んで来た後の夜の9時です。途中で体力も気力も根性も尽きてしまい、半ばでリタイアしてしまったというわけです。

    見学の途中で、腕時計を落としてしまったのも、痛かったです。今、何時かわからない、残りどのくらい時間があるかわからない、という状態は、なんとなく落ち着きませんでした。

    その腕時計ですが、一昨日も、ホテルへ戻るバスを探してうろうろしているときに落として、婦警さんに拾ってもらったくらいなのですから、接続部が甘くなっていたわけです。目覚まし時計は持参していますが、腕時計は1本しかありません。ダメ元で博物館の切符売り場のそばの事務所で、落とし物が届いていないか尋ねてみたら……ありました! 諦めかけていただけに、どんなに嬉しかったことか。

    なので、帰りの道は気分もよく、足取りも軽かったです。夜の9時すぎの官庁街、人どおりはほとんどないのですが、街灯は明るく、歩道も広く見晴しがよいので、ほとんど怖くありませんでした。エルサレム新市街の街の明かりと、自動車の明かりがチラチラと瞬いて、美しい夜景を楽しみながらホテルへ向かいました。(自分でやっておいてなんですが、もちろん、このような女一人の夜間歩きはお薦めしません@)

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