2005/10/14 - 2005/10/14
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adsawinさん
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**1971年の暴動から2年後の1973年2度目の暴動が起きる。そして2005年10月14日あの哀しい事件は再現される・・・ケシテ忘れないように!2度と同じ事が繰り返されない為に・・・(1993年5月第3度目)*****
1973年10月14日・・人々は今でも胸の奥に哀しい思いを残している。しかし今のタイ国があるのはその事件のせいなのかもしれない・・・この事件が起きたのは10月5日であった・・13人の教授や学生が捕まりそれに反発してタイ国内の大学から生徒や先生達が集まりその数は何十万人にも昇ったのだった・・・・
当時タイ国内の大学の学生リーダー的存在だった人物・・ティラユット・ブンミー氏の所属大学はタイのチュラロンコン大学で、彼のしたで連絡係を務めていた当時の学生は10人彼らは常に政府の新しい改革が必要であり、首相の交代を願い人々に理解してもらう為にワットプラケウの横の空き地で1.その当時改正されようとしていた、新憲法をただちに承認すること。2.憲法についてを平民に教える事。
3.タイ国民の意見を尊重すること。其れを討っ堪え続けて来た。
其れを見ていた軍政府関係者は軍人を通して彼らは大学の教授などを通してデモなどを起すだろうと答え、其れは・・学生運動が法律で禁止されていない限り、教授と通して軍人も参加或いは其れを守る為にデモに参加して欲しいと話に来るだろうと返答していた。1973年10月5日のことだった。
1973年10月6日
その日は上記1−3までの彼らの要求を請求する為に参加した人数は20人となり、彼らはその内容は記載した紙を配り歩いたのである。其れはラマ7世が書いた手紙をコピーしたもので内容は、もし自分の権力を分け与えることが出来るのならば、決められた人物1人或いはグループに分けるのではなく(そうなると人々は権力を横暴に振るいその上に立とうとして悪いことに利用されるだろうからと言う内容のことで)タイ国民に分け与える物とする。と言うラマ7世自信が書いたこれからの憲法のあり方を指導する教えの中から抜粋して書かれたものを配って歩いたのだ。其処から彼らはサイアムスクエアーからプラトゥナームまでデモ行進しながら歩いて配り歩いた其れは午後2時である。その後・・警察により教授・学生・新聞記者・そして其れを指示していた政治家達の11人が逮捕されたのである。警察が逮捕した理由は、反政治派運動の集合を開き法律で決められた5人以上を超えていたとして逮捕したのである。逮捕された時間は午後2時そして誰かが遭いに着ても合う事が出来ないようにと、夜中警察学校に移動したのである。
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1973年10月7日
前日の夕方から翌日の夕方までに警察はこの逮捕した人物達の家などを家宅捜索し、更にランカムヘン大学の学生を逮捕したのである。
全部で12人になる。
彼ら以外の学生の代表者たちは彼らの釈放に必要なお金を用意し、彼らの釈放を願い警察に訪れるが・・警察側は其れを聞き入れられず、その日は誰も釈放されずに過ぎた。 -
1973年10月8日
タマサート大学の試験第1日目の朝、反政府ポスターがいたるところに張られ、シーナッカリンウィロート大学では学生が大勢集まっていた。
そして彼らが政府に討っ堪えたのは、逮捕された仲間達の釈放を要求する集まりを開いた。そして逮捕しを政府側からキチンとその理由の説明をすることを要求し、学生は首相に対して、その憲法はいかなることなのか、そして逮捕した理由を説明する事を書いた手紙を首相に送ったのである。 -
逮捕状が出される為にはそれなりの初歩的工程が必要だが・・其れが何処からどういう理由で誰が許可したのか・・ここが一番重要なわけであるが・・・
副首相は(最高副軍指揮官)このデモ行進をしていた学生20名達は反政府派とし、コミニストなる行動を起こし(中国語や英語やタイ語で書かれたテロ犯罪の資料)その書類が彼らの元から沢山押収されたことを報道した。 -
1973年10月8日の政府間でこのことについて行われた会議書類の内容では、デモ行進などによる暴動が起きた場合、其れを鎮圧する為にはどういう方法が行われるかが記されていた。其れを書かれた書類にはその結果は暴動を起した学生10万人の学生の内2%の学生は死亡するだろう・・しかしその命は国が存在する為には仕方がないと云う結果だと報告されている・・其れはどういうことか?学生運動の鎮圧は話合いではなく力をもって鎮圧するという事と明らかにその為に死亡者が出るということも知らされた上でそう言う報告書が出されていたのである。政府の会議書類の内容は学生運動と戦うという事を知らせる会議書類であったのである。そして更にポスターを張るなどして行動した学生に逮捕状を出し逮捕し合計13人となる。午後1時、代表の教授や学生達60人は警察学校に向かうが・・警察では対面することも何かを渡す事さえも許可されなかった。
教授たち60人は全員の名前を書き込んだ面談者記帳の最後に”We Shall Overcome\ -
1973年10月9日
この日の朝タマサート大学の国旗場には黒い布が通常の旗の半分の大きさで揚げられた。そして学構内のいたるところにある掲示板に張られた紙には、先日政府が逮捕した13人の人々を15日以内に解放す事、そして12月10日から政府が新憲法を許可し使用することなどが書かれていた。
午後1時タマサート大学で学生により会議が開かれ、纏められた内容を首相に送った、しかしそれでもまだ13人の人々は解放されなかった。
タマサート大学の教授人205人は更に会議を開き纏められた報告書を政府あてに送った・・其れは現在の状態より更に激しい戦いが起こるだろうと予想される内容のものであった。其れに対して回答して来た政府の答えは、法律に基づいた逮捕であり、首相の判断と首相の権力でなされた物であり学生や教授が求める物は権力で押さえたのである。そして首相は大学に対して試験が通常に行われる用に大学に指示したのである。 -
1973年10月10日
タマサート大学には殆んど全ての学生が集合していた、そこで話されたことは・・タイ国の将来を決めるのは今の自分達タイ国民全ての力が必要であると言うこと、それが出来る事未来あるタイ国を築きなおせるという大切な事である。しかし其れが改正なれない限り・・タイ国は何時までも暗く貧乏なままであると話されていた。
バンコク内の試験は全て中止され、其処に集合した学生だけでも1万人が集合し、武器なる物を持ち戦う為に人々は闘志を向けていた。
首相は其れに対し、13人に対して更に彼らは反政府派運動を起したコミニストであると云う逮捕状を出し更に重い罪をつけたのである。 -
1973年10月11日
朝、学生はタマサート大学の敷地内に僧侶を200人招き、抗議に参加している学生達が僧侶にタンブーン出来るようにした。
そして反対政府に対しての抗議を行ったいた・・其処に参加していた学生は全部で5万人だった・・・午後になり政府は学生運動の指導者を警察に招き・今後どうしたらいいかを話し合う、何度もの話合いは結論は出ない!!何故ならどちらもお互いを受け入れない受け入れられないという事情がある。
夜になり政府はこの反対政府派の行動に対してどう対応したらよいか?という会議を開いた。学生達には外国からタイ国民達から沢山の食事・果物・飲み物などが届けられたいた。 -
1973年10月12日
学生達が集合して既に3日間が経っていた。そしてタイ国民・大学院生・教授・など他の県からも学生達が・・反政府抗議を行いながらポスターを掲げバンコクの市内をタマサート大学に向かい歩いてやって来たのだった・・其れは市内の何処の道をも塞ぐほどの人数だった。既にタマサート大学内には10万人の人で溢れていた。12時調度・・・学生の代表者は最後には政府は13人を24時間以内には解放するだろう、しかし政府が何も回答しない場合には・・我々は手段を変えて反対運動を起すだろう、と話した。
タイラック・ディリーニュース・ネイション・バンコクポストなどの新聞紙には毎日このい様子が伝えられ、タイ全国から学生やこの反政府運動を支持する人々がバンコクに向けてやって来ていた。
いったい・・どれくらいの人々が集まりその反政府への署名を書いたのか??そして集まった人々の数などに恐れを抱いた政府は13人を其れを受け入れる体制を打ち出そうとしていた・・。そして彼らの保証人として彼らの解放を支持した人物・・彼らはそれが誰か分からず・・釈放される事を断り・警察学校に捕らえられたままであった。学生達は政府は嘘をついていると学生達は警戒した。
其れはいったい誰が保証人となり、政府がどんな交換条件をつけて釈放するのか、そして釈放さえすれば学生達の高潮した気分も収まり・・次第に治まるだろうと考えているのだろうと・・不振に思った。
そして夜に成るとタイ国内から集合した人々は20万人を超えていた・・
ラジオ局からは学生の親は自分の子供を迎えに来るようにと放送されている、そして彼らの親に対して国民ラジオ局は学生はこの暴動をおこした場合にはナイフや拳銃を利用する危ない行動を取るだろう・・と其れを避けるためには早く親が迎えに来るようにと放送したのだ。
タマサート大学の外側には警察官や軍人が学生が暴動を起すのを待ち伏せしているような体制で拳銃や警棒、盾を用意してタマサート大学の周りを囲んでいると放送された。 -
1973年10月13日
学生が出した返答が政府から行われるのは13日の12時である。誰もが其れまでの時間を待つていた。
朝05:00学生の大学生がタイの国歌を歌い、タマサート大学の敷地内に入れない人々は大学の外に溢れ出ながらもその時を待つていた。
そして12:00時調度、学生の代表者は”自分達は政府に提出した抗議書に対して5日間寝ずに政府からの回答を待って来た、しかし政府は我らを無視している”とマイクロホンで話し出した。
”時間切れだ・・自分達はズート待って来た、自分達はもしそれに回答しない場合は力をもって抗議すると言い渡してきた・・そして12時を知らせる時と共に其処にいた全員が手を上げて立ち外に向かいながらタイの国歌を歌いながら歩きだしたのだ、午後2時でもまだタマサート大学の敷地内から外に向かい歩き出した人々はまだ半分にも経っしていなかった。
午後3時半にはラーチャダムルン通りを歩いていた、其処を歩く人は約50万人の人が行進していた、その様子は当時のテレビ局4-5チャンネルが放送していた。 -
最初は警察署に向けて歩いていたが警察官などから立ち退きを要求され、それに激怒した人々はバンコクの警察署を燃やすと言う行動に出た。
ニュースに寄れば・・首相が辞任したと報告・・其れは事実であったかどうかは不明である・・しかし政府内で良し悪しを決める会議で首脳陣3人(親戚縁者兄弟で)言い争いが置きたことでこの首脳陣3人は堪えられずに直ぐに辞職をして外国に逃避した。既に夕方18:40の事である。
しかし首相はもう一つの仕事である最高軍司令部の幹部をしているわけで・・武器も持たない学生や市民に対して武器を積んだ大きなトラックで軍人に運んだ。
其れを知った学生や人々の集団は直ぐに事の事情を察しデモ行進はそこでストップした。 -
1973年10月14日
朝05時になるとその戦いは終わりを告げたと人々は理解し人々は棒やナイフ、瓶で作られた爆破物などをタマサート内に捨て皆それぞれ自分の家に向けて歩いて帰宅しだしていた。しかし警察官達はその場から立ち去る事を許可せず、時間が経つに連れて学生や人々は感情が高まり警察官に対して抵抗の抗議を込めて、食べ物や水の瓶を投げつけたのだった・・その中で1人の人が警察官に対して棒を投げつけた・・そのため警察官は怪我を負う、そして10分後2台の車で群集に向けて車でその中に突撃し、その後から警察官が突撃した・・人々を女性でも男性でも子供でも滅た打ち・・・目が痛くなるガスを顔面の受けた女性は痛さとショックでその場に倒れた・・其れがきっかけとなったのだろう・・人々の感情も警察の感情も爆発した・・・・逃げ出せるものは逃げ・・バンコクの動物園に逃げ込めた物は逃げ込み、動物園の中にある石などを警察官に投げつけた・・それからは既に収拾がつかない状態に膨れ上がり政府関係者は軍人を使い・警察官を動因して大きな暴動へと膨れ挙がったのである。
市民達はそれに激怒しラジオ局や政府関係の建物などに火を点け関係者などを殴る行動に出た・・其れは朝06時30分から06時45分の15分間の最初の戦いとなったのである。
10時に成ると政府はニュースで反政府運動派について、ラマ9世の敷地内で反政府抗議の為に暴動を起していると発表した。
そして別のニュースでは政府は軍や警察を利用しある女性は頭を棒で叩かれて死亡・子供は暴動で川に落ちて死亡したと報道されたが・・其れは事実とは反する物で逆に人々をも政府側をも刺激する結果となった。
其れを聞いた人々は更に激怒し暴動はドンドン大きくなるばかりであった。
更に政府は軍人や警察を更に増やした・・死亡者など暴動が起きていたのは、ラチャダムルン通りのみでその時間は既に10時間を越えた。
政府は23時から05時までの間の外出禁止令を出し、学校などを休校しタマサート大学やシーラッパコン大学は危険地帯と報告しこれから軍人や警察が其処を抑圧する為に近づかないようにと命令したのである。
反政府派の人々は午後2時バンコクの宝クジ売り場を燃やし、人々はバスを利用して軍や警察の車に正面衝突させた・・それらの人々を軍や警察は撃ち殺した。
夕方18時、政府の報告により首相を務めていた軍の最高指令部幹部が首相を退陣したと報告、19:15分ラマ9世はこの異様な行動を心配してとうとうラジオやテレビ画面を通して話した内容は、今日は日が悪く沢山の人々が亡くなるなどしている、ラマ9世は自らこの暴動が治まるようにとタイ国民(平民も警察も軍人も全ての人々に対して)に対して休止すように話したのである。そしてその場を取り合えず取りまとめるためにラマ9世自信が選んだ人物タマサート大学の教授を首相に置くように指示した。
新首相はテレビで直ぐにこの暴動を止めるように指示、6ヶ月以内に新憲法が使用される事を説明した。しかしこの後新首相も同じ用に民衆からは支持されずに辞任することになる。
午前0時首相を辞任したがまだ軍最高幹部としての力をもっ全首相はラジオに出て、タイ国人に対しコミニストとされる人物を叩き潰すために・・警戒の手を緩めることなくさらに厳しくすると話、その夜は暴動は止む事がなかった・・ -
1973年10月15日
まだ暴動は治まらずにいた。
政府は銀行や郵便局など公共関係・政府関係の仕事を休む用に指示した。
学生や人々は何処にも逃げないでいた。むしろまだ人は集まりだしていたのだった。其れまでに亡くなった人々は77人重軽傷を負った人々は858人と報告された。
しかし、全首相が辞任した事で暴動は徐々に治まり、逮捕された人々も釈放され暴動は治まっていったが・・この5日間の大きな暴動で沢山の人々が犠牲になり結果としてタイの国が良くなったか?と云えば・・ここで終止符が打たれたわけではなく取りあえずその時の暴動が治まったと云うところで・・・そして20年後の1993年3度目の暴動が起きた・・その時自分は既に・・チェンマイに居り・その暴動をテレビを通して見ていた・・突然警察や軍人が銃を平民に向け乱射・そしてタイ全国から集合した人々が沢山行方不明になっていた・・・
当時を振り返れば・・武器を持たない市民達に対し鎮圧を理由に市民に軍の兵器を持つ手対応すること事態が異常であり、しかし熱くなりすぎた当時の首相は自分の気持ちに歯止めが掛けられずに国外へ逃げるという行動をとり全国民から逃げざる終えない事情を抱えた事が反政府運動派達にとり最終的には勝利を収めた事とも言える、しかし戦車を出動させヘリコプターを出動させ、ガスや手りゅう弾を使用させ・・とまるで戦争を起こしているような状態での暴動はまさに異常な光景だった・・これは後々までも言い伝えられているが、前首相つまり政治家の
トップに立つと不思議なもので力があれば尚、自分の国だと勘違いを起こす・・いわばヒットラーのしていた事と同じことを繰り変えそうとする。 -
それを止めない限りタイと言う国が何時までたっても自由で市民権が適用される平和な国にならないと言う事は明らかで・・学生の代表を務め・警察に逮捕されながらもそれを望み、
今現在でもそれを誇りにしている人々は現在・・これからの将来を担う若い学生の指導を勤めている。このクーデターから20年後また暴動が起きる、しかし今度は政府の遣り方、軍や警察の内部事情が大きな原因で、既に市民権が強調されたタイの政府が発足し流れて着た時代におきた最後のクーデターとも言うべき1993年の暴動はタイの一番醜い部分が表に出た事で市民達は再度立ち上がるのです。
しかし10月14日のこの学生による暴動の更に上を行く暴動で亡くなるった人々はどのくらいだつたのか・・今でもそのときに行方不明になったチェンマイ大学の学生や市民などは・・何処に捨てられ、何処に消えてしまったのか・・不明なままである。
それにしても警察と軍が市民に銃を向け無差別に殺していく様子は異常な光景だった。しかし何時の時代でも何処の国にも起こる暴動は・・ゆくゆくは国にとり改善される素晴らしい力となるのだが・・・決して市民を守るための警察や軍が市民に銃を向ける事があってはいけないと思うところである。 -
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この旅行記へのコメント (2)
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- enyasuさん 2005/10/29 10:26:37
- 学生市民の運動
- お久しぶりです。
じっくりと読ませていただきました。学生の気持ちを思うと心が苦しくなりました。
この旅行記でタイという国についてますます興味を持つようになりました。
自分の祖国、住んでいる地域についても、もっとよく知らなければいけませんね。
またいろいろ教えてください。
- adsawinさん からの返信 2005/11/03 03:21:17
- RE: 学生市民の運動=ご無沙汰・・元気ですか?
- 中国はもう冬支度?
チェンマイはまだ雨季が終わらず毎日ぐずぐずした天気が続いていて・・病人が多くなるなる。・・
でも今日は久しぶりに晴天・・日本の秋の運動会日よりかなあ・・
朝晩は少し涼しくなり長袖も恋しい時期になりました。
この学生運動は可なり深刻な問題で・・この次の3度目の時を丁度テレビでチェンマイで見ていた頃・・沢山のチェンマイからの学生がバンコクで行方不明になり・・大変な騒ぎだった事を覚えています・・・
未だにその殆ど99%以上の人が見つからない・・軍が何処に捨てたのか?何処に処分したのか?だれにも分からないなんて事がマジで通る国なんだと身が凍える思いがした。あれから17年近い年月が経とうとしているとは・・まだ信じられないが・・・住んでみないと分からない部分・・住んでいるから知る部分をまだまだ紹介できるかな??と思います・・・
体に気を付けて・・寒い冬支度を乗り越えて下さい・・中国の冬は長そうだから・・・
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