![リヴィングストン(1813−1873)が、アフリカ赤道部探検の開拓者ならば、スタンレーは仕上げを行った男である。<br /><br />スタンレー(1841〜1904)は、スコットランド(一説ではウェールズ)で私生児として生まれ、 幼くして母親に捨てられ、 孤児院で育つ。<br />が、 そこでの厳しい生活に耐えられず脱走を試み、 17歳のときアメリカに渡り養子となって、 アメリカ国籍を取得する。<br /><br />1871年リヴィングストンとの出会いで一躍世界の寵児となった彼は、ついで1874〜77年、東海岸からコンゴ川を下ってアフリカ大陸横断に成功。<br />『黒い大陸(Through The Dark Continent)』はこの第二回アフリカ探検の記録で、スタンレーの多くの著書のなかでも、最も有名かつ広く読まれた探検記である。<br /><br />スタンレーは、 その後も探検を続け、 手記を出版し続けた。 <br />それらの探検記に、 『暗黒大陸を横断して』 (1878)、 『最暗黒アフリカにて』 (1890) というタイトルがつけられた。<br />これらの著作では、センセーショナルな内容とともに、 暗黒大陸のイメージが流布され、 いつのまにか暗黒イメージが定着していった。<br /><br />その背景に、 時代の考え方の流れが、少なからず関与している。 <br />布教と探検の後に続いた、列強による帝国主義的進出、 領地の略奪に、 アフリカイコール暗黒というイメージは願ってもないものだった。 <br />彼らアフリカ人を野蛮な状態から救い出し、 文明の光にあてるというのが、 欧米人の大義名分となったからだ。<br /><br />探検家スタンレーの第二回アフリカ探検。<br />ヴィクトリア湖からタンガニーカ湖へ、コンゴ川を下って大西洋へ。<br />苦渋に満ちたこの横断ドキュメントによって、アフリカの真相は初めて世界に伝えられた。<br /><br />以下、彼の文章の一部を紹介する。<br /><br />1874年8月15日、私はイギリスを出帆して、アフリカ東岸へ向かった。<br />こんどの探検の主要な目的は、ディヴィッド・リヴィングストンが追求しようとした「大河」の秘密を解き、タンガニカ湖の流出口を確かめ、ナイル川の水源をつきとめることであった。<br /><br />9月21日、私はザンジバル島に着いた。<br />なじみぶかい山の尾根、ヤシやマンゴーの木々の茂るゆるやかな傾斜面がぼうと、うす霞につつまれていた。<br />うす青い空の下に、アフリカ大陸とザンジバル島とのあいだの海峡が、静かに眠っているようだった。<br />ザンジバルの港に上陸して、私は旧友オーガスタス・スパーホーク氏の家へ出かけた。<br />三年前に、消息を絶ったリヴィングストンを捜索するため、はじめて私がここへきたときと同じように、あたたかく歓迎された。<br /><br /> スパーホーク氏の助力で、まもなく私は、同行した三人の若いイギリス人たち、ケント州の漁師の息子フランシス・ポコック、エドワードの兄弟、ホテルの事務員だったフレデリック・バーカー、それに五匹のイヌたちを宿舎に落ちつかせた。<br />そして多量の荷物を陸揚げして、倉庫に入れた。<br /><br /> 多忙な日々がつづいた。アフリカ各地のいろいろな部族に提供する布地や、ガラス玉や針金を選んで、買い入れ、荷づくりもさせなくてはならなかった。<br />採用されようとしておし寄せてきたザンジバルのワンワナ人(奴隷でない自由人の現地人)の大群の中から、適当な者たちを選抜することも重要な仕事だった。<br />私は探検の経験のある者たちから、慎重に選びにかかり、マンワ・セラを首席班長とし、その下に各班長をすえ、探検隊を編成していった。<br />](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/02/76/650x_10027633.jpg?updated_at=1120430433)
1975/01/11 - 1975/01/11
133位(同エリア152件中)
片瀬貴文さん
リヴィングストン(1813−1873)が、アフリカ赤道部探検の開拓者ならば、スタンレーは仕上げを行った男である。
スタンレー(1841〜1904)は、スコットランド(一説ではウェールズ)で私生児として生まれ、 幼くして母親に捨てられ、 孤児院で育つ。
が、 そこでの厳しい生活に耐えられず脱走を試み、 17歳のときアメリカに渡り養子となって、 アメリカ国籍を取得する。
1871年リヴィングストンとの出会いで一躍世界の寵児となった彼は、ついで1874〜77年、東海岸からコンゴ川を下ってアフリカ大陸横断に成功。
『黒い大陸(Through The Dark Continent)』はこの第二回アフリカ探検の記録で、スタンレーの多くの著書のなかでも、最も有名かつ広く読まれた探検記である。
スタンレーは、 その後も探検を続け、 手記を出版し続けた。
それらの探検記に、 『暗黒大陸を横断して』 (1878)、 『最暗黒アフリカにて』 (1890) というタイトルがつけられた。
これらの著作では、センセーショナルな内容とともに、 暗黒大陸のイメージが流布され、 いつのまにか暗黒イメージが定着していった。
その背景に、 時代の考え方の流れが、少なからず関与している。
布教と探検の後に続いた、列強による帝国主義的進出、 領地の略奪に、 アフリカイコール暗黒というイメージは願ってもないものだった。
彼らアフリカ人を野蛮な状態から救い出し、 文明の光にあてるというのが、 欧米人の大義名分となったからだ。
探検家スタンレーの第二回アフリカ探検。
ヴィクトリア湖からタンガニーカ湖へ、コンゴ川を下って大西洋へ。
苦渋に満ちたこの横断ドキュメントによって、アフリカの真相は初めて世界に伝えられた。
以下、彼の文章の一部を紹介する。
1874年8月15日、私はイギリスを出帆して、アフリカ東岸へ向かった。
こんどの探検の主要な目的は、ディヴィッド・リヴィングストンが追求しようとした「大河」の秘密を解き、タンガニカ湖の流出口を確かめ、ナイル川の水源をつきとめることであった。
9月21日、私はザンジバル島に着いた。
なじみぶかい山の尾根、ヤシやマンゴーの木々の茂るゆるやかな傾斜面がぼうと、うす霞につつまれていた。
うす青い空の下に、アフリカ大陸とザンジバル島とのあいだの海峡が、静かに眠っているようだった。
ザンジバルの港に上陸して、私は旧友オーガスタス・スパーホーク氏の家へ出かけた。
三年前に、消息を絶ったリヴィングストンを捜索するため、はじめて私がここへきたときと同じように、あたたかく歓迎された。
スパーホーク氏の助力で、まもなく私は、同行した三人の若いイギリス人たち、ケント州の漁師の息子フランシス・ポコック、エドワードの兄弟、ホテルの事務員だったフレデリック・バーカー、それに五匹のイヌたちを宿舎に落ちつかせた。
そして多量の荷物を陸揚げして、倉庫に入れた。
多忙な日々がつづいた。アフリカ各地のいろいろな部族に提供する布地や、ガラス玉や針金を選んで、買い入れ、荷づくりもさせなくてはならなかった。
採用されようとしておし寄せてきたザンジバルのワンワナ人(奴隷でない自由人の現地人)の大群の中から、適当な者たちを選抜することも重要な仕事だった。
私は探検の経験のある者たちから、慎重に選びにかかり、マンワ・セラを首席班長とし、その下に各班長をすえ、探検隊を編成していった。
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