1975/01/10 - 1975/01/10
231位(同エリア263件中)
片瀬貴文さん
そもそも、アフリカ内陸部を、なぜ暗黒大陸と呼ぶのだろうか。
アフリカには、ヨーロッパ人がその未知なる大陸の存在に着目した時から、 「暗黒」という形容詞がつきまう。
はじめは、未知であるがゆえに、 あるいはその土地の情報に暗かったことから、 暗黒大陸と呼んだのだろう。
しかし、ヨーロッパ人が西アフリカ沿岸部に到達し、 アフリカ人の実態を見るようになると、慣習や伝統、 文化の相違から、 ヨーロッパ人の暗黒イメージに、別の側面が加わるようになった。
17世紀、西アフリカのギニア地方を訪れた英国人は、 黒人たちが裸でいる様を見て驚き、 その民度の低さを口汚く罵る。
衣服を纏わないことは、 単なる習慣の相違にとどまらず、 道徳と教養の欠如、 さらには人間性の欠如を意味した。
そればかりではなく、 政治的、 経済的な背景も絡む。
アフリカの黒人を新大陸に強制移送する奴隷貿易を正当化するためにも、 アフリカ人は野蛮である必要があったと考えられる。
だが、アフリカの暗黒のイメージをいっそう定着させたのは、 19世紀になってから盛んになった、 アフリカ内陸部へのキリスト教の布教と、 地理的探索の名のもとに行われた踏査であった。
それらの記録は、 宣教師の活動報告であろうと、 調査結果であろうと、 紀行文であろうと、 一様に 「探検記」 として、 熱狂的に欧米諸国で迎え入れられた。
1857年に英国で出版されたリビングストン著 『宣教師による南アフリカ旅行調査記録』 は、数ヶ月で7万部を突破するなど、 飛ぶように売れた。
列強のアフリカ進出において、リヴィングストンよりも直接的な影響を与えたのが、スタンレーである。
彼は優秀な探検家ではある一方、ベルギー国王レオポルド2世の委託を受け、アフリカ各地の集落の族長などに貢ぎ物を与え、コンゴ自由国の建国で、多くの役割を果たした。
最も大衆の人気を博したのは、スタンレーによる、 一連の 「探検物」 だった。
米国大衆紙の新聞記者であった彼は、 東アフリカ、タンガニーカ湖畔の小さな村で、 消息を絶って久しいリビングストンを見つけ出し、 その翌年に 『余は如何にしてリビングストンを発見せし也』を発表、 世間の注目を集めた。
新聞社が後ろ盾となり、 マスコミを味方につけての、 一大パフォーマンスだった。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
0