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2004年4月から約1年、上海旧フランス租界の住宅街「衡山路」界隈で生活した南ドンが、写真とともに、老洋房(ラオヤンファン=古い洋館)に隠された歴史をお届けします。

上海旧仏租界衡山路界隈の老洋房(ラオヤンファン)

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2004/04 - 2005/02

9344位(同エリア12011件中)

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南京ドンブリ

南京ドンブリさん

2004年4月から約1年、上海旧フランス租界の住宅街「衡山路」界隈で生活した南ドンが、写真とともに、老洋房(ラオヤンファン=古い洋館)に隠された歴史をお届けします。

  • 建国西路の最西端へ行くと衡山路にぶつかります。そこにかなり保存度の高い16階の中層建築物を見ることができます。これは1934年建築のかつての「ピカルディアパート」。外国人専用のマンションで、1999年に全面改修され現在でも四つ星級ホテル『衡山賓館』(衡山路534号)として現役で活躍中、そのために大変きれいなのです。出資者はフランス系の万国儲蓄会、設計もルネ・ミニュティ氏と、立地的条件も含め、当時のフランス租界を代表する“純”フランス建築です。古さを感じさせながらもスッキリとした簡素な外観で、その周辺の建築物との趣の違いが、また我々をひきつけます。解放後も外国人専用の「衡山招待所」として使用され、外国人の社交場としての役割を果たし続けてきたこの建物ですが、その伝統は今でも変わりません。現在1階には日本料理店『大漁』もあり、ここに集まる日本人も少なくないのです。

    建国西路の最西端へ行くと衡山路にぶつかります。そこにかなり保存度の高い16階の中層建築物を見ることができます。これは1934年建築のかつての「ピカルディアパート」。外国人専用のマンションで、1999年に全面改修され現在でも四つ星級ホテル『衡山賓館』(衡山路534号)として現役で活躍中、そのために大変きれいなのです。出資者はフランス系の万国儲蓄会、設計もルネ・ミニュティ氏と、立地的条件も含め、当時のフランス租界を代表する“純”フランス建築です。古さを感じさせながらもスッキリとした簡素な外観で、その周辺の建築物との趣の違いが、また我々をひきつけます。解放後も外国人専用の「衡山招待所」として使用され、外国人の社交場としての役割を果たし続けてきたこの建物ですが、その伝統は今でも変わりません。現在1階には日本料理店『大漁』もあり、ここに集まる日本人も少なくないのです。

  • 地下鉄「衡山路」駅から徒歩0分にある『国際礼拝堂(衡山路53号)』は現在も衡山路一帯のシンボルとなっています。この教会は1920年に東湖路に設立された協和礼拝堂が1925年にこの地に引っ越してきたもので上海最大規模のプロテスタント教会と言ってもいい由緒ある建物です。アヘン戦争(1840年)による上海開港以来、英国人を中心としたキリスト教布教は当然活発化し、1869年には黄浦区礼拝堂(聖三一礼拝堂)が建設されました。キリスト教文化の中国人社会普及に一役買ったのがアメリカ帰りの宋嘉樹の存在でしょう。彼は帰国当初、不公平な待遇で上海郊外へ伝道師として派遣されていましたが、その反動で後は上海のブルジョア信仰者と積極的に関係を築き、1900年には上海YMCAの創設に携わるなど上海キリスト教社会への影響を保ちながら、実業家として成功を果たしました。この宋嘉樹の子供達が日本でも有名な所謂「宋家の三姉妹」であり、長男が宋子文(国民政府財政部長)です。この衡山路53号の教会を、『宋子文邸(永嘉路501号)』、『蒋介石(三女宋美齢の夫)邸(東平路9号)』、『孔祥熙(長女宋靄齢の夫)邸(永嘉路383号)』が取り囲むようにして建っているのも頷けます。<br />

    地下鉄「衡山路」駅から徒歩0分にある『国際礼拝堂(衡山路53号)』は現在も衡山路一帯のシンボルとなっています。この教会は1920年に東湖路に設立された協和礼拝堂が1925年にこの地に引っ越してきたもので上海最大規模のプロテスタント教会と言ってもいい由緒ある建物です。アヘン戦争(1840年)による上海開港以来、英国人を中心としたキリスト教布教は当然活発化し、1869年には黄浦区礼拝堂(聖三一礼拝堂)が建設されました。キリスト教文化の中国人社会普及に一役買ったのがアメリカ帰りの宋嘉樹の存在でしょう。彼は帰国当初、不公平な待遇で上海郊外へ伝道師として派遣されていましたが、その反動で後は上海のブルジョア信仰者と積極的に関係を築き、1900年には上海YMCAの創設に携わるなど上海キリスト教社会への影響を保ちながら、実業家として成功を果たしました。この宋嘉樹の子供達が日本でも有名な所謂「宋家の三姉妹」であり、長男が宋子文(国民政府財政部長)です。この衡山路53号の教会を、『宋子文邸(永嘉路501号)』、『蒋介石(三女宋美齢の夫)邸(東平路9号)』、『孔祥熙(長女宋靄齢の夫)邸(永嘉路383号)』が取り囲むようにして建っているのも頷けます。

  • 永嘉路と岳要路の交差点にある『上海市老幹部大学』は、かつての中国四大家族だった宋子文の故居(永嘉路501号・岳陽路145号)です。宋子文は孫文の妻、宋慶麗の弟でもあり、ハーバード大学で経済を専攻。帰国後は中華民国の要職につき、財政部長を歴任し、中央銀行の創設や貨幣統一などにも尽力したと言われています。また、関税自主権の回復をほぼ実現したのも宋子文の財政部長時代。でも、こうした業績も「四大家族」としての威厳があればこそ。準洋風の建築もさることながら、芝生の施された広い前庭は正門からも見ることが出来、当時の彼等の贅沢ぶりが垣間見れます。解放後、宋子文は当然海外に追われる身となりますが、1950年以降はアメリカで生活し、T.V.Soongという名で広く海外で知られるようになりました。当然、中華人民共和国での彼の評価はそれほど高くはありません。

    永嘉路と岳要路の交差点にある『上海市老幹部大学』は、かつての中国四大家族だった宋子文の故居(永嘉路501号・岳陽路145号)です。宋子文は孫文の妻、宋慶麗の弟でもあり、ハーバード大学で経済を専攻。帰国後は中華民国の要職につき、財政部長を歴任し、中央銀行の創設や貨幣統一などにも尽力したと言われています。また、関税自主権の回復をほぼ実現したのも宋子文の財政部長時代。でも、こうした業績も「四大家族」としての威厳があればこそ。準洋風の建築もさることながら、芝生の施された広い前庭は正門からも見ることが出来、当時の彼等の贅沢ぶりが垣間見れます。解放後、宋子文は当然海外に追われる身となりますが、1950年以降はアメリカで生活し、T.V.Soongという名で広く海外で知られるようになりました。当然、中華人民共和国での彼の評価はそれほど高くはありません。

  • 建国西路と烏魯木斉南路の交差点近くにある『建国幼児園』は、かつての中華民国国民政府主席、汪兆銘の邸宅(建国西路570号)でした。汪兆銘は中国では字(あざな)の汪精衛の名で知られており、中国史上最低の漢奸(裏切り者)と認識されています。それは彼が中華民国国民政府主席であったとは言え、その政府は旧日本軍による傀儡政権であったからにほかなりません。でも、実際は孫文と同じ広東省の出身で、科挙試験制度の「挙人」にまでのぼりつめた秀才でもあり、26歳で清朝の粛親王暗殺を自ら実行(失敗)したほどの革命家でもありました。現に孫文自身が汪兆銘を最も信頼できる徒弟と認めていたことは彼に遺書を書かせたことからも伺えます。「革命未だ成功せず」という孫文の名言は汪兆銘が記したものなのです。そんな汪兆銘が、単なる私利私欲のために旧日本軍と手を結んだとはとても思えないというのが南ドンの個人的見解です。現在の中国政府が執拗に汪兆銘を反逆者扱いするのは旧日本軍と手を結んだということだけでなく、汪が「反共」をスローガンに掲げたからということも理由にあると思われます。汪兆銘が孫文の遺志を貫き、日本との和平を最後まで望んだのは、彼が若い頃、法政大学で青春を過ごしたことからも当然の流れと言えるかも知れません。蒋介石も若き日に日本の振武学堂で軍術を学びましたが、その後旧日本軍に故郷を空襲され母親を亡くしたことが、彼の抗日意識を駆り立てたと言っても過言ではないと思います。それぞれの人物の「運命」を感じずにはいられません。汪兆銘はその後、癌が悪化したため日本へ移送され、名古屋の病院で生涯を終えています。

    建国西路と烏魯木斉南路の交差点近くにある『建国幼児園』は、かつての中華民国国民政府主席、汪兆銘の邸宅(建国西路570号)でした。汪兆銘は中国では字(あざな)の汪精衛の名で知られており、中国史上最低の漢奸(裏切り者)と認識されています。それは彼が中華民国国民政府主席であったとは言え、その政府は旧日本軍による傀儡政権であったからにほかなりません。でも、実際は孫文と同じ広東省の出身で、科挙試験制度の「挙人」にまでのぼりつめた秀才でもあり、26歳で清朝の粛親王暗殺を自ら実行(失敗)したほどの革命家でもありました。現に孫文自身が汪兆銘を最も信頼できる徒弟と認めていたことは彼に遺書を書かせたことからも伺えます。「革命未だ成功せず」という孫文の名言は汪兆銘が記したものなのです。そんな汪兆銘が、単なる私利私欲のために旧日本軍と手を結んだとはとても思えないというのが南ドンの個人的見解です。現在の中国政府が執拗に汪兆銘を反逆者扱いするのは旧日本軍と手を結んだということだけでなく、汪が「反共」をスローガンに掲げたからということも理由にあると思われます。汪兆銘が孫文の遺志を貫き、日本との和平を最後まで望んだのは、彼が若い頃、法政大学で青春を過ごしたことからも当然の流れと言えるかも知れません。蒋介石も若き日に日本の振武学堂で軍術を学びましたが、その後旧日本軍に故郷を空襲され母親を亡くしたことが、彼の抗日意識を駆り立てたと言っても過言ではないと思います。それぞれの人物の「運命」を感じずにはいられません。汪兆銘はその後、癌が悪化したため日本へ移送され、名古屋の病院で生涯を終えています。

  • 永嘉路383号の『書香門弟』という茶館は庭園付きで人目を引く建物ですが、これはかのお金持ち孔祥熙の邸宅だった場所です。「孔」家と言えば蒋介石の「蒋」家、宋子文の「宋」家、陳立夫の「陳」家と並び中華民国期の“中国四大家族”と称されていた名家で,<br />孔祥熙は孔子の75代目の末裔でもあります。辛亥革命に参加して功績を残したことで、後も中央銀行総裁、行政院長などを務め、中華民国政府に君臨した“官僚資本家”の典型と言えましょう。旧日本軍が上海・南京を攻略してからは、孔祥熙ら四大家族は臨時首都であった重慶へ避難。その後も、ブラック・マーケットを利用し多額の米ドルを手にした上、売れ残った公債を好き勝手に仲間内で分け合うなどの悪事を働き、1945年には世論に屈服して孔祥熙は中央銀行総裁を辞任しています。戦争の混乱期にも私欲だけを貪り続けた男、孔祥熙…。1936年築のこの建物は四大家族が日本の満州・中国侵略をよそに贅沢を尽くしていた彼等にとっての黄金期の象徴と言っていいでしょう。

    永嘉路383号の『書香門弟』という茶館は庭園付きで人目を引く建物ですが、これはかのお金持ち孔祥熙の邸宅だった場所です。「孔」家と言えば蒋介石の「蒋」家、宋子文の「宋」家、陳立夫の「陳」家と並び中華民国期の“中国四大家族”と称されていた名家で,
    孔祥熙は孔子の75代目の末裔でもあります。辛亥革命に参加して功績を残したことで、後も中央銀行総裁、行政院長などを務め、中華民国政府に君臨した“官僚資本家”の典型と言えましょう。旧日本軍が上海・南京を攻略してからは、孔祥熙ら四大家族は臨時首都であった重慶へ避難。その後も、ブラック・マーケットを利用し多額の米ドルを手にした上、売れ残った公債を好き勝手に仲間内で分け合うなどの悪事を働き、1945年には世論に屈服して孔祥熙は中央銀行総裁を辞任しています。戦争の混乱期にも私欲だけを貪り続けた男、孔祥熙…。1936年築のこの建物は四大家族が日本の満州・中国侵略をよそに贅沢を尽くしていた彼等にとっての黄金期の象徴と言っていいでしょう。

  • 永嘉路36号はかつては『逸園』といわれるドッグレース場でした。1928年にフランス人投資家のスピルマン氏等が、イギリス人モリス氏の土地を買い上げて建設した二つのレース場と一つのサッカー場を有した当時としては本格的な娯楽場だったのです。当レース場の収益金が旧フランス租界に多大なる税収貢献をしたのは書くまでもありませんが、この地にあるのはそんなノンキな思い出ばかりではありません。1941年には外国人チームとのサッカー試合の判定をめぐって「逸園流血事件」が発生したのです。もちろん現在では『文化広場』として市民の憩いの場になっており、そんな史実があったことなどは想像もつきません。

    永嘉路36号はかつては『逸園』といわれるドッグレース場でした。1928年にフランス人投資家のスピルマン氏等が、イギリス人モリス氏の土地を買い上げて建設した二つのレース場と一つのサッカー場を有した当時としては本格的な娯楽場だったのです。当レース場の収益金が旧フランス租界に多大なる税収貢献をしたのは書くまでもありませんが、この地にあるのはそんなノンキな思い出ばかりではありません。1941年には外国人チームとのサッカー試合の判定をめぐって「逸園流血事件」が発生したのです。もちろん現在では『文化広場』として市民の憩いの場になっており、そんな史実があったことなどは想像もつきません。

  • 上海名物の集合住宅「弄堂」はどんどん消えつつあります。旧仏租界の永嘉路(旧西愛咸斯路)界隈も例外ではありません。写真は永嘉路291弄にある1928年竣工の『慎成里』という「弄堂」。現在でも90戸の家庭が暮らす永嘉路上では最大の「弄堂」です。見た目は極々普通の集合住宅ですが、かつて、ここは知る人ぞ知る共産党エリート(「中国社会科学家聯盟」の指導者)達が集まる場所でした。この弄堂に住んでいた女性烈士の胡綉楓は抗日戦争中、姉(関露)と、よくここから墨汁の入った壺を秘密裏に持ち出し、“打倒国民党売国政府”、“打倒日本帝国主義”、“中国共産党万歳”などの標語を迅速に町中に書きまわっていたといいます。

    上海名物の集合住宅「弄堂」はどんどん消えつつあります。旧仏租界の永嘉路(旧西愛咸斯路)界隈も例外ではありません。写真は永嘉路291弄にある1928年竣工の『慎成里』という「弄堂」。現在でも90戸の家庭が暮らす永嘉路上では最大の「弄堂」です。見た目は極々普通の集合住宅ですが、かつて、ここは知る人ぞ知る共産党エリート(「中国社会科学家聯盟」の指導者)達が集まる場所でした。この弄堂に住んでいた女性烈士の胡綉楓は抗日戦争中、姉(関露)と、よくここから墨汁の入った壺を秘密裏に持ち出し、“打倒国民党売国政府”、“打倒日本帝国主義”、“中国共産党万歳”などの標語を迅速に町中に書きまわっていたといいます。

  • 永嘉路387号は、かつて上海の“メリケン粉王”だった栄毅仁の家だったそうです。栄毅仁は日本軍侵攻後、香港へ逃れますが、新中国建設後は上海に定住し、第一号市長の陳毅を助け、1957年には自らも副市長と紡績工業部長を兼任しています。元中産階級だったということで文革期は不遇な時期を過ごしますが、復活後はCITIC(中国国際投資信託公司)の初代総裁にも選ばれました。

    永嘉路387号は、かつて上海の“メリケン粉王”だった栄毅仁の家だったそうです。栄毅仁は日本軍侵攻後、香港へ逃れますが、新中国建設後は上海に定住し、第一号市長の陳毅を助け、1957年には自らも副市長と紡績工業部長を兼任しています。元中産階級だったということで文革期は不遇な時期を過ごしますが、復活後はCITIC(中国国際投資信託公司)の初代総裁にも選ばれました。

  • 東平路11号にある『Sasha』バーも先にご紹介済みの「上海老幹部大学」と並んで宋子文の邸宅の一つです。宋子文は孫文の妻、宋慶麗の弟。中華民国の要職にもつき、政治家としても活躍をしたと言えば聞こえはいいですが、当時の「中国四大家族」の権威を利用しただけのこと。大陸での彼の評価は決して高くはありません。閑静な衡山路のこの地にいくつもの洋館を所有していたことだけを見ても、贅沢な彼等の暮らしぶりが伺えます。

    東平路11号にある『Sasha』バーも先にご紹介済みの「上海老幹部大学」と並んで宋子文の邸宅の一つです。宋子文は孫文の妻、宋慶麗の弟。中華民国の要職にもつき、政治家としても活躍をしたと言えば聞こえはいいですが、当時の「中国四大家族」の権威を利用しただけのこと。大陸での彼の評価は決して高くはありません。閑静な衡山路のこの地にいくつもの洋館を所有していたことだけを見ても、贅沢な彼等の暮らしぶりが伺えます。

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