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デュルンシュタイン城

  • 5.0
  • 旅行時期:2018/08(約6年前)
やまかつさん

by やまかつさん(男性)

デュルンシュタイン クチコミ:1件

別名を、ケーンリンガー(キューンリンガー)城
ここは、廃虚になっているので、城内は入れないと思います。
写真撮影した様なの景色を見ながら、小道脇のお土産物屋散策で楽しめると思います。
トイレは少なく、私の利用した所は、50¢コインを入れるとレバーが回転して入れる方式でした。
50¢硬貨の事前準備を…
お土産は特産物のアプリコット品(ジャム、酒、)です。

以下は城に関する情報です。

12世紀半ばごろ、キューンリンク家初代ハートマール1世によって築かれたとされ、ハートマール1世は、キューンリンク家家祖とされるアッツォ・フォン・ゴーバツブルクの子ニッツォの子である。アッツォが、テーゲルンゼー修道院からデュルンシュタイン周辺の土地を獲得したとされる。
キューンリンク家は、オーストリア公の家臣(Ministeriale)として仕えていた。ハートマール1世には子がなく、甥のハートマール2世が後を継いだ。1192年、ハートマール2世は主君レオポルト5世の命により帰国途中であったリチャード1世(獅子心王)を捕え、デュルンシュタイン城に幽閉した。前年の第3回十字軍に際し、レオポルト5世がアッコを攻め落とした際に掲げた旗を、リチャード1世が叩き落としたことが原因とされる。翌年、リチャード1世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に引き渡された。その後、キューンリンク家からデュルンシュタイン家が分れたとみられているが、1355年にデュルンシュタイン家は無嗣断絶した。城はオーストリア公ハプスブルク家の所有となった。1573年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世は、宮廷財務長官(Hofkammer)のライヒャルト・シュトロイン・フォン・シュヴァルツェナウにデュルンシュタインを与えた。
1588年、シュトロインによって麓の居館も要塞化され城中に取り込まれた。三十年戦争末期の1645年に、デュルンシュタインはレンナート・トルステンソン率いるスウェーデン軍に占領された。同年、ボヘミアへ向かうことになったトルステンソンは、デュルンシュタイン城を爆破した。1662年には、オスマン・トルコ軍侵攻の際の避難所として「デュルンシュタイン宮(D�・rnstein Schloss)」の名がみられるため、現地説明板ではこの間に城が修築された可能性を示唆している。他方で、城中の建物(Burghaus)については居住不能とされており、今日に至るまで倒壊寸前の廃墟のまま。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
カップル・夫婦(シニア)
観光の所要時間:
1-2時間
アクセス:
3.0
城までは行けませんが、麓から眺められます。
景観:
4.5
最高ですよ
人混みの少なさ:
4.0
夏休みでありながらそれほど多くありませんでした。

クチコミ投稿日:2018/08/23

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