公共租界 楊樹浦
散歩・街歩き
3.07
施設情報
クチコミ(1件)
1~1件(全1件中)
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19世紀末から20世紀中期まで最も工場が集中した地域となった.現在再開発地域です。
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- 旅行時期:2015/07(約11年前)
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アメリカ租界から共同租界(東側)へ、そして近代工業発祥の地となる。1845年外灘から始まった英国租界は西へ拡張します。18... 続きを読む48年には米国租界が設置され、1863年両国の租界が合併(英国租界に吸収)され共同租界が誕生、さらに拡張を続けます。租界のビジネス活動において、アメリカ人はあまり目立った活動はありません。むしろアメリカ人は文化や芸術的な方面で上海に足跡を残したそうです。海外へ出たアメリカ人は、かならず上海に立ち寄り、実業家や映画俳優、作家などが多く上海の社交界の記録に名を残しています。上海優秀歴史建築から見てもアメリカ人の建てた建物は有りません。後の1894年になると日本も租界工商局のメンバーになり、虹口(ホンキュー)地区に日本領事館が開設されます。日本は楊樹浦に綿紡績工場を建て世界の綿紡績を独占しました。清の同冶二年(1863年)、租界の外にある楊樹浦路に工場が建ち始めた。黄浦江に面して水運交通の便が良く、低価格の労働力が豊富などの理由で中国国内、外国の資本が集まり工場が動き出した。広い土地に綿紡績、造船、造紙、発電、自来水等の工場が出来た。19世紀末から20世紀中期まで最も工場が集中した地域となった。1937年には楊樹浦路一帯には300余の各工場があり、多くの労働者も集まった。その中でも日本の綿紡績工場は目だった存在でした。近年中国に多種の日本企業の工場が進出したが、すでに租界時代に工場進出(在華紡)をしていました。英、中国等の綿紡工場も吸収して上海の綿紡績を独占してしまいました。“やりすぎ”は何時の世も嫌われ労働争議も多かったようです。内外、豊田(トヨタ自動車の前身)鐘紡、東洋紡等の日本の紡績会社です。黄浦江工業碼区は上海近代工業化に大きく貢献した。世界大戦終了時日本の工場は撤退して長らく楊樹浦路一帯は寂れていましたが、2010年の万博前頃から再開発が始まり、古い住宅を取り壊し、高層住宅や大きなショッピングモールが出来始めました。現在、楊樹浦路一帯はいたるところで再開発工事が進められていますが、在華紡の社宅には今尚、多くの住民が住んでいます。上海市政府はこれらを上海優秀歴史建築に認定し、保存、改修して行く方針です。第五次上海優秀歴史建築が発表となり、早速、改修を始めた現場も見られました。租界時代の工場地域だった楊樹浦路一帯は数年後には高層ビルが連なる高級住宅街・1000万人都市に変身するでしょう。 閉じる
投稿日:2015/08/05
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中国の風景さん