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シムクガマ

名所・史跡

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Between life and death.

  • 5.0
  • 旅行時期:2022/06(約4年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

恩納・読谷 クチコミ:14件

沖縄本島西海岸に米軍が上陸した昭和20(1945)年4月1日、読谷村の住民の多数は二つのガマに避難をしていた。チビチリガマとシムクガマ。双方のガマは僅か800mしか離れてはいない。しかしこの〝距離〟が多くの村民達の運命を分ける要因となったことは、沖縄戦史の中でも触れられている史実である。チビチリガマの避難民は139名、うち自決者を含める犠牲者は82名。実に6割近い住民が落命している。それに対してシムクガマの避難民は約1,000名、うち犠牲者は米軍が上陸時に戦車の砲弾による3名だけである。勿論死者が出ている事実は間違いないが、自ら死を選んだ者達の比率はシムクガマに於いては0である。これにはそれぞれのガマに避難していた住民達のキャリアが大きく影響している。

沖縄戦が始まるにあたり内地の〝皇民化教育〟が沖縄でも行われていた。その影響を目の当たりにしたチビチリガマに対し、シムクガマではハワイ帰りのウチナンチュー2名が、米兵が避難民を〝殺さない〟と説き、交渉の為に米兵の上官の下に出向き、それを保証する旨を無事にガマに戻り避難民を説得して投降した。結果として捕虜にはなったが1,000名の避難民の命は救われることとなった。

この話は〝シムクガマの奇跡〟として後年に2人の功績を讃える碑がガマ内部に建立され、現在でも見ることができるものとなっている。勿論過大解釈されている部分もあり、2人の英語力だけで遣り取りが終わった訳ではない。むしろ〝伝わらなかった〟と言っても過言ではなかったと解釈されている位である。しかし避難民を助けるために必死だった2人は身振り手振りを交えながら、ガマ内部に日本兵はおらず、また避難民も米兵に対し争うつもりはない事を伝え、見事避難民の命を守ることに成功した。これが〝シムクガマの奇跡〟と呼ばれるものとなる。それに対してチビチリガマにはそのような〝リーダー格〟の者は居らず、むしろ中国戦線に於いて最前線の野戦病院に従軍していた元看護師が、自分が見聞きしたことを避難民達に説いたことが災いし、自らが死を選ぶ方向に向いてしまったことが悲劇に繋がった。しかしチビチリガマの悲劇は集団自決だけでは終わらなかった。むしろ戦後になってから多くの犠牲者を出す〝理由〟を作った〝張本人〟として自らも命を絶った元看護師の〝遺族〟までもがあたかも〝殺人鬼〟の家族の如く扱われ、集落から追い出されるということが起こった。チビチリガマに於ける悲劇の〝生き残り〟や惨劇を伝え聞いた遺族が、その様子を公言することを拒んだことから事実は長期に渡って知られることなく、一部の〝悪者〟のせいで起こった悲劇として語り継がれていたこともまた事実である。

〝悪者〟は長きに渡りチビチリガマの犠牲者氏名が刻まれている〝碑〟にすら名前がなかった。そうすることで〝悲劇〟の幕引きを図ろうとしたように思えて仕方がないのである。チビチリガマだけを訪れた時には感じなかった違和感をシムクガマを訪れた時に私は感じた。集団心理として〝生と死の狭間〟をどちらに転んだのかということが結論であり、その結果犠牲者が出たか出なかったかということにしか過ぎないと思われる。

ガマに辿り着く道は整備されたチビチリガマに対し、かなり足場が悪いシムクガマと大きな違いを感じずにはいられなかった。色々なもので比較対象とされているチビチリガマとシムクガマではあるが、やはり自分の目と足で訪れて感じてみるのが答えになると痛感した二つのガマ訪問であった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
3.0
入口がわかり辛く、ガマへの道も悪路である。
人混みの少なさ:
5.0
訪れた際は誰とも会わなかった。
バリアフリー:
3.0
足場は非常に悪いので覚悟が必要。
見ごたえ:
5.0
チビチリガマとの違いを肌で感じられる場所であった。

クチコミ投稿日:2022/06/20

いいね!:7

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