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三枚橋 沼津城跡 施設情報・クチコミに戻る

面影を偲ぶものはありません

  • 3.0
  • 旅行時期:2021/04(約3年前)
+mo2さん

by +mo2さん(男性)

沼津 クチコミ:20件

中央公園にある三枚橋城跡、沼津城本丸址です。ただ、城の痕跡は写真の沼津城本丸址の碑と付近の工事の際に見つかった三枚橋城の石垣に使われていた周囲の石だけです。三枚橋城は、天正7年(1579年)に、北条氏を牽制するために武田勝頼の命で築城されたといわれており、武田氏の東駿河における拠点の一つの城でした。狩野川を挟んで対峙した、北条氏の戸倉城(清水町徳倉)との間で小競り合いが絶えなかったといいます。武田氏の駿河における拠点であった三枚橋城も、天正10年(1582年)に武田勝頼・信勝父子が天目山で自害し武田氏が滅亡すると、同城は徳川氏に明け渡され、家康の子、松平忠吉とその後見役の松井忠次(松平康親)が入城しました。その後1601年(慶長6年)には、大久保忠佐が城主となり沼津藩主となりましたが、1613年(慶長18年)忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌1614年(慶長19年)に廃城となります。廃城となった三枚橋城ですが、1641年(寛永18年)の大火後、城跡は開墾地となっていました。安永6年(1777年)、水野忠友が、十代将軍徳川家治から沼津城地を拝領し、ここに沼津水野藩が誕生します。忠友は幕府にあって、つぎつぎと要職につき、老中にまでなり老中筆頭田沼意次とともに権勢をふるいました。以後も老中・側用人・寺社奉行などの要職についた者がでて、慶応4年(1868年)、8代藩主忠敬が上総(千葉県)の菊間に移封されるまで、水野家による支配が約90年間続きました。明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されましたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872年)に城は県で競売に付し解体され、その後、沼津は2回の大火に遭ったこともあり、城の堀は埋められ、その面影を偲ぶことはできなくなっています。いわれなければここに城があったことは全くわかりません。

施設の満足度

3.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
3.0
人混みの少なさ:
3.0
バリアフリー:
3.0
見ごたえ:
2.0

クチコミ投稿日:2021/05/22

いいね!:3

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