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南町奉行所跡

名所・史跡

南町奉行所跡 施設情報・クチコミに戻る

テレビでおなじみの大岡越前や遠山の金さんが裁きをした場所です!

  • 3.5
  • 旅行時期:2020/01(約6年前)
hiroさん

by hiroさん(男性)

銀座・有楽町・日比谷 クチコミ:22件

江戸時代における徳川幕府の役職で「三奉行」(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)と呼ばれていた中の『町奉行』は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面におよぶ執務を行う施設として、初代将軍「徳川家康」の時代となる江戸時代初期の1604年(慶長9年)から『南町奉行』と『北町奉行』の2名がそれぞれ月番で交代して執務を行っており、現在の千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる「常盤橋」門内に置かれてた『北町奉行所』が、第5代将軍「徳川綱吉」の時代となる江戸時代中期の1707年(宝永4年)に現在のJR山手線「有楽町駅」および駅東側街区一帯にあたりとなる「数寄屋橋」門内に移転したことにより『町奉行所』の所在地が一番南側となったため『南町奉行所』と改められ幕末に『町奉行所』が無くなるまでこの地にありました。
ちなみに1702年(元禄15年)から1719年(享保4年)の期間は、『南町奉行』と『北町奉行』のほかに『中町奉行』が存在しています。
名奉行としてテレビ時代劇でおなじみの「大岡越前守忠相」は、1717年(享保2年)から1736年(元文元年)の19年間に渡り、また「遠山の金さん」こと「遠山左衛門尉景元」が「北町奉行」から「大目付」の職を経て1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)の7年間に渡り『南町奉行』の職についています。
『南町奉行所跡』であったと証として、現在のJR山手線「有楽町駅」中央改札口から円形屋根の地下連絡昇降口の裏側に「東京都指定旧跡 南町奉行所跡」と記載されている碑と2005年(平成17年)の再開発に伴う遺跡発掘調査により出土した奉行所表門に面した下水溝の石組の一部が再開発事業の際に復元されており、円形屋根の地下連絡昇降口から地下1階に降りると遺跡発掘で発見された「穴蔵」(重要品を火災などで焼失しないように南町奉行所内の地下に設置された木製の蔵)の厚い板材を壁に立てて展示し、両脇に出土した木樋(水道管)を再利用した木製ベンチと地下広場向かいの丸柱の廻りに下水溝の石組を再利用した石製ベンチが設置されています。
ちなみに「穴蔵」の構造は、壁板の間に槙肌(木の皮)を詰めて水抜き穴から竹管を伝って桶に水が溜まる防水対策が施されており、中から伊勢神宮の神官が「大岡越前守忠相」の家臣に宛てた木札が出土しています。
普段は、『南町奉行所跡』を気にもせずに通り過ぎていましたが、今回は銀座で待ち合わせをした際に時間に余裕があったので『南町奉行所跡』の碑の前で足を止めて現在の周囲の建物からは江戸時代の面影を感じませんが、「案内板」などに目を通し江戸時代の先人たちの生活などを思い浮かべながら歴史に触れることができました。
現代社会は時間に追われる日々が多いですが、たまには史跡などの前で足を止めて歴史を振り返り心にゆとりを持てる時間をつくるのもよいものです・・・

施設の満足度

3.5

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.5
JR山手線・有楽町駅」中央改札口を出てすぐです。
人混みの少なさ:
3.5
有楽町駅を利用する人通りは絶えませんが、史跡の前で足を止める人は殆どいません。
バリアフリー:
4.5
地下連絡昇降口には、エレベーターとエスカレーターが設置されています。
見ごたえ:
3.0
発掘調査で出土した下水溝の石組の一部が再開発事業の際に復元されています。

クチコミ投稿日:2020/03/22

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