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二天門

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二天門 施設情報・クチコミに戻る

江戸時代初期の貴重な古建築です!

  • 4.5
  • 旅行時期:2017/06(約9年前)
hiroさん

by hiroさん(男性)

浅草 クチコミ:35件

『二天門』は、「浅草寺本堂」東側の「馬道通り」に面する側門(東門)で、1618年(元和4年)に当時の「浅草寺」境内に造営された「東照宮」(徳川家康を祀る神社)の「随身門」として建立したものと伝えられており、「豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)」と「櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)」の二神を祀っていたとされています。
「随身門」とは、神社で外からの敵の侵入を防ぎその聖域を守るために門の左右にを「守護神像(随身像)」を安置された門の総称になります。
「浅草寺」は、長い歴史の中で幾度も被災と再建を繰り返していますが、1631年(寛永8年)および1642年(寛永19年)の二度にわたる火災で「浅草寺」境内の「東照宮」への参詣用に造られた「影向堂」前の石橋(国の重要美術品)を残して焼失したことにより「東照宮」は江戸城内の紅葉山に遷座されています。
「随身門」は、1649年(慶安2年)に「浅草寺」再建で境内の本堂他の諸堂と共に切妻造り本瓦葺きの朱塗り「三間一戸八脚門」様式による「浅草寺」側門(東門)として再建されたと伝えられています。
1884年(明治17年)の神仏分離によって「随身門」に安置されていた「随身像」は、「浅草神社」に遷座されて、鎌倉の「鶴岡八幡宮」から「帝釈天」に仕え、 八部衆を支配するとされる「四天王」(仏教の四人の守護神:東方を「持国天」、南方を「増長天」、西方を「広目天」、北方を「多聞天」)に数えられる「持国天」と「広目天」像が奉納され、太政大臣「三条実美(さんじょうさねとみ)」筆の「二天門」の額が掲げられたことにより、『二天門』と称されるようになっています。
その後『二天門』は、1923年(大正12年)の関東大震災、1945年(昭和20年)の東京大空襲にも倒壊、焼失することはありませんでしたが、「持国天」と「広目天」の「二天像」が1945年(昭和20年)に修理先で焼失しています。
現在『二天門』に安置されている「二天像」は、1957年(昭和32年)に上野「寛永寺厳有院」(四代将軍・徳川家綱霊廟)から譲り受けた「持国天」と「増長天」像になります。
また「浅草寺」境内に残る江戸時代初期の貴重な古建築として、1946年(昭和21年)に国の「重要文化財」に指定されています。
「浅草寺」といえば「雷門」から「仲見世通り」、「宝蔵門」を通り「本堂」を参拝する縦の通りと「伝法院通り」や「五重塔」の脇から西側の「浅草六区」方面への横の通りに人々の流れが集中して賑わいがあり、今まで「浅草寺本堂」の東側『二天門』方面を歩いたことがありませんでした。
今回は、『二天門』から「隅田川」沿いを散策しようと思い初めて『二天門』をくぐりました。
『二天門』は、2010年(平成22年)に改修工事が行わており創建当初姿を感じさせる鮮やかな朱色に塗られた立派な江戸時代初期の木造建造物です。
「浅草寺」の観光客が集まり人気のある主要な建物が戦後に復興した鉄筋コンクリート造による建造物の中、江戸時代初期の貴重な古建築である『二天門』の廻りには観光客がほとんどいない穴場スポットです!
浅草を訪れた際は、また立ち寄りたいと思います。

施設の満足度

4.5

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.5
本堂の東側です。
人混みの少なさ:
5.0
雷門と比較すると観光客は殆どいません。
バリアフリー:
5.0
木製のスロープと手摺が設置されています。
見ごたえ:
4.5
江戸時代初期の木造建造物、国の重要文化財です。

クチコミ投稿日:2018/07/16

いいね!:6

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