松江城を作った事実上の松江藩初代藩主です。
- 5.0
- 旅行時期:2017/03(約9年前)
-
-
by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
松江・松江しんじ湖温泉 クチコミ:10件
堀尾吉晴、尾張の国の出身で父は守護代であったが織田信長に主君を滅ぼされ、父とともに浪人時代を過ごしていたこともありました。その後織田信長・豊臣秀吉に仕え大名に取り立てられます。秀吉の死後は徳川家康に従い、会津征伐の際に従軍を願い出るも子の忠氏のみ従軍を許され、吉晴は越前に帰国を命じられます。その帰途に騒動に巻き込まれ重傷を負ったため、関ケ原の戦いには忠氏が出陣し、この戦功を賞され出雲富田24万石に加増て転封されます。
富田月山城に入ったものの中世からの城は使い勝手が悪く、幕府に願い出て松江城の建造に着手します。その最中の慶長9(1604)年には忠氏が急死したため、子の忠晴が松江藩2代藩主となるも、まだ幼く祖父の吉晴が後見を務めています。しかし松江城が完成した慶長16(1611)年には吉晴も逝去。松江城の完成を見届ける前でした。その後寛永10(1633)年には嗣子がないまま忠晴は逝去し、堀尾家は僅か三代で改易となってしまいます。
堀尾吉晴公は公式には松江藩主にはなっておられません。しかし松江城の建立を含めた治世に於いて、忠氏とは二元政治を行い、忠晴の時代には後見として政務を代行したこともあり、松江藩の〝実質的な初代藩主〟とみなされることが多く、その功績を伝えるべく建立されたのが、大手前広場に立つこの〝堀尾吉晴公像〟になります。
松江藩というとどうしても松平家のイメージが強いのかも知れません。しかし堀尾氏の他京極氏も藩主になっているという事実。知らなければ知らないで良いのかも知れませんが、知っていればその功績に触れることが大変楽しく思えてきます。
神話の世界から始まる歴史の街は、さすがに多くの〝物語り〟が存在し、すべてに触れることは不可能なことかも知れません。でもそれがわかっていれば、その〝観光地〟ひとつとっても見分が本当に楽しくなってきます。そんなことを思いながら影の初代松江藩主堀尾吉晴公の真新しい銅像を眺めていました。
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 大手前広場からすぐ。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 銅像の前に長くいる方はおられません。
- バリアフリー:
- 5.0
- 整地はされています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 吉晴公の存在の大きさが感じられました。
クチコミ投稿日:2017/04/07
いいね!:9票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する