木戸ら維新三傑は新政府初期の悩ましい時代に早死に。
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- 旅行時期:2016/06(約10年前)
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by tadさん(男性)
萩 クチコミ:23件
今回、初めて木戸孝允旧宅に入った。2階は公開されていないが、それでも、かなり広い。岩倉使節団で欧米を見てきており、展示されている木戸の写真は洋装が似合っているが、髷をつけた時代の写真もりりしい。流石、京都の幾松を娶るだけのことはある。京都霊山護国神社の墓は参ったことがあるが、あそこでは幾松の墓も一緒だ。
吉田松陰の主な弟子たちは早死にしてしまい、残った伊藤博文が木戸の岩倉使節団に加わることになる。1864年に長州ファイブの一人としてロンドン大学で勉強したのは、松陰の弟子では伊藤博文だけだったのだ。英語ができ国際性を身につけた伊藤にはその分、重い役回りが来ることになる。薩長閥とよく言われるが、1878年(明治11年)には木戸、西郷、大久保の維新三傑はみんな死んでしまったのだ。
その後、明治政府は不平等条約を廃して日英同盟が可能になるまで、日本の形作りができるまでに時間が相当必要となった。海外での憲法調査などで中心的な活躍をした人たちは大変な苦労をしているのだが、そこらあたりは、ドラマでもちっともポピュラーにはならない。海外情報をきちんと勉強しないとドラマや小説は書きにくいからだろう。実際、安っぽい小説程度が氾濫してしまうのだ。幕末と維新のわずかな期間への注目度が少し過ぎるのかもしれない。官軍が勝ったからといって近代日本がすぐにできたわけではないのだが。。。(このあたりの情報は瀧井一博「文明史のなかの明治憲法」(講談社)などが参考になる。)
木戸は、吉田松陰とその弟子グループとは少し距離があり、冷静に動いていたように思う。維新後、木戸は10年間もなんとかよく頑張ったと思う。その後の苦労は伊藤等が引き継いだ。そこには一般の注目はあまり集まらないが。。。国際性がなくては、その後の政治活動は不可能だったのだ。松陰や西郷や福澤のみならず、アジア進出をすぐ考える人たちが多かったのだが、この点を警戒した木戸や大久保や伊藤たちの歯止めはだんだんと効かなくなってくる。
木戸の家を訪問し、そんなことを考えていた。彼は世界情勢がかなりわかっており、悩める男だったのだ。単純に日本だけの事情で動こうとする人たちや軍人中心になってくると、国際関係は制御できなくなる。外国語や国際交流が苦手な普通の日本人の性格は今に始まったことではない。明治初期の早く目覚めた一握りの日本人達の苦労は私にはよくわかる。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
クチコミ投稿日:2016/06/23
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