沖縄陸軍病院終焉之地です。~沖縄陸軍病院之塔~
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- 旅行時期:2016/03(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
糸満・ひめゆり クチコミ:207件
国道331号線から平和創造の森公園へと向かう途中?沖縄陸軍病院入口?の碑があり、そこから数分の木立の中にひっそりと建っています。昭和19(1944)年5月に動員令により熊本陸軍病院において編成された球18803部隊(隊長:広池文吉軍医中佐)がその中核となりました。最初は那覇市樋川にあった開南中学校を拠点としていましたが十・十空襲により破壊炎上。陸軍病院本隊は夜を徹して南風原分院へと移動します。年が明けた昭和20(1945)年3月米軍の艦砲射撃が激しくなる中、看護学徒隊の配属が始まりました。
4月1日北谷・読谷村の海岸に米軍が上陸、沖縄での地上戦が始まります。それにより前線から運ばれてくる重症患者が増加し、内科系の診療科を廃し3つの外科の診療科に改編されます。しかし圧倒的な兵士や軍備を持つ米軍の前にどんどんと押される状況が続き、5月中旬には第32軍司令部より南部撤退の命令が下されます。その中の本部壕として使われたこの山城陸軍病院本部壕(通称サキアブ)、写真を見る限りでもガマの入口が大きく開口している様子がわかります。
昭和20(1945)年6月18日19:00頃、壕入口付近に米軍の迫撃砲弾が着弾し、広池院長をはじめ兵士や学徒、患者の多くが犠牲となりました。翌日には院長を失い病院壕としての機能を果たさなくなった陸軍山城本部壕にも解散命令が出され、砲弾の飛び交う中学徒隊は数人のグループに別れ壕を出て行くものの行くあてもなく、解散から司令官の自決によって沖縄の組織的戦闘行為が終わるまでの5日程の間に約200名もの戦死者を出しました。
この塔は戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔として慰霊会(遺族及び戦友の会)が昭和39(1964)年1月26日に建立し、平成 4(1992)年 6月23日これを再建されて?沖縄陸軍病院之碑?とされて現在に至ります。塔の前方には椅子が設置してあり、毎年6月23日には関係者遺族が追悼式典を行っているそうです。
その?沖縄陸軍病院之碑?の斜向かいにある山城陸軍病院本部壕跡、戦後70年を経て土砂の流入が激しく奥までは入ることはできません。管理されているものではないため、入壕はできるもののあくまでも自己責任で行うことになります。多分戦後整備されたものと思われる階段を下りて行き、下まで降りると進行方向と逆側に壕が繋がっているようです。遺品なども置かれており、観光地化されていないゆえの70余年前の悲劇を感じられる場所…そんなふうに思えました。なお雨が降ると足場が大変悪くなりますのでご注意下さい。
駐車スペースは1台分ありました。しかし周辺の畑の畦道は道幅が狭く離合困難なので路駐はできません。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 平和創造の森公園から車で5分位です。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日の昼間は誰もいませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足場はあまりよくありません。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 碑があってガマがある、その往時に触れることができます。
クチコミ投稿日:2016/03/08
いいね!:9票
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