徳川・武田争奪の的
- 4.0
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
-
-
by bluejaysさん(男性)
天竜 クチコミ:1件
文亀年間に二俣昌長が築いたと伝わる。
桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、今川氏の勢力は衰え徳川氏の城となる。
1572年武田信玄は遠江に侵攻し、二俣城を囲んだ。武田軍は、上流から筏を流して井楼を破壊し、水を汲み上げられないようにして降伏させた。
二俣城陥落により、徳川氏の本拠地浜松城まで防衛拠点がなくなり、遠州平野に侵入可能となった武田軍は三方ヶ原の戦いへと突入することになる。武田と徳川の抗争において前者の優位が決定的となり、国境付近の地侍は続々と武田に恭順することになった。
徳川家康は1575年、長篠の合戦で武田を破ると、二俣城を奪い大久保忠世を城主とした。家康の嫡男信康は、武田氏に内通した疑いをかけられ、1579年二俣城で切腹した。
1590年徳川家康が関東に移封されると、堀尾吉晴の弟宗光が城主となるが、堀尾氏は関ヶ原の合戦後出雲に転封となり、二俣城は廃城となった。
- 施設の満足度
-
4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 二俣本町駅近く
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2015/05/21
いいね!:0票
利用規約に違反している投稿は、報告することができます。 問題のある投稿を連絡する