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法円坂建物群 (法円坂遺跡)

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大阪城・京橋

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法円坂建物群 (法円坂遺跡) https://4travel.jp/dm_shisetsu/11555193

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クチコミ 2ページ目(27件)

  • 大きな倉庫模型

    • 3.5
    • 旅行時期:2019/02(約5年前)
    • 0

    大阪歴史博物館の横にあり、周りは近代的建物の中、大昔の建物が復元されているので目立ちました。かなり大きな高床式倉庫で、この...  続きを読む大きさは初めて見ました。屋根の上藁が良い雰囲気でした。中に入ることは出来ないです。  閉じる

    投稿日:2019/02/11

  • 古墳群との関係

    • 3.0
    • 旅行時期:2018/09(約6年前)
    • 0

    大阪メトロ谷町線谷町四丁目駅から徒歩数分、NHK大阪放送局&大阪歴史博物館の南にある復元遺跡です。
    5世紀ごろ、というこ...  続きを読むとで、住んでいるところの古市古墳群と同時期のものになります。
    大陸とも交流がありそうな場所で、一体どういうものが収納されていたんだろうか…古墳群が世界文化遺産に登録されたら、ここも整備されるといいのですが。  閉じる

    投稿日:2018/09/05

  • この周辺では、古墳時代の史跡もあります。

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/11(約8年前)
    • 0

    地下鉄谷町線の谷町四丁目8番出口からNHK方面へ坂を登ってくるとNHKや大阪歴史博物館の裏手にまわると古墳時代の高床式倉庫...  続きを読むが見えてきます。真田丸の影響で大阪城ばかりが注目を集めていますが、こんな場所があることに少し驚いています。ちょうどここで一息つくのも良いかもしれません。外堀のすぐ近くになりますので、足をのばしてみては。  閉じる

    投稿日:2017/02/04

  • 法円坂遺跡復元倉庫は、地下鉄谷町線谷町四丁目駅からすぐの大阪歴史博物館脇に復元された五世紀ごろの高床式倉庫です。隣接する難...  続きを読む波宮より一世紀ほど古いもので、倭王権が物資集散の拠点に建てた倉庫群と考えられています。
    復元倉庫の周りは現在も官公庁街であり、目の前には豊富から徳川と続く大阪城のお堀が広がり、隣は難波宮跡が広がります。ここが歴史の交差点として重要な場所であることを実感できました。
      閉じる

    投稿日:2016/12/14

  • 高床式倉庫を復元

    • 4.0
    • 旅行時期:2015/11(約9年前)
    • 0

    現在大阪歴史博物館・NHKの建っている辺りには古墳時代、規則正しくずらっと倉庫が並んでいたようで、そのうち、ひとつが復元さ...  続きを読むれています。高床式倉庫です。その他は石で柱の場所を表しているようでした。昔大阪は上町台地だけが陸地であとは海だったそうで、船で運んできた荷物を保管したのでしょうか。  閉じる

    投稿日:2015/12/05

  • 五世紀後半の建物群跡、発掘調査による遺跡

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/07(約9年前)
    • 0

    難波は飛鳥時代に中国大陸から我国に文化をもたらし又大陸へ向かう人達の交通の要所となっていた、発掘調査により五世紀後半の建物...  続きを読む群(16棟以上)が発掘され当時の姿を推察できる場所が大阪城の南、大阪歴史博物館前にありごくわずかですが忠実に再現されています、、参考資料*現地設置の説明用立札  閉じる

    投稿日:2015/07/14

  • 5世紀の高床式倉庫群からなる遺跡

    • 4.0
    • 旅行時期:2015/06(約9年前)
    • 1

    地下鉄谷町線谷町四丁目駅から歩いてすぐのところにあります。難波宮より100年以上も前、5世紀の高床式倉庫群からなる遺跡です...  続きを読む。発見された倉庫跡のうち1棟が復元されていて、構造がわかる1/20の模型も展示されています。直ぐそばに大阪歴史博物館があるので、あわせて観て周ればよいでしょう。
    現地にあった説明板の内容を参考までに下記に示します。

    【説明板に記載された内容】
    瀬戸内海の水運により大陸と結び、淀川や大和川をさかのぼって古代の政治の中心である大和や河内に直結する難波は、交通の要地でした。その中心である上町台地の北端にあたるこの地から、1987(昭和62)年に行なわれた発掘調査で5世紀後半頃の巨大な建物群が発見されました。16棟以上の高床建物が整然と建てられており、1棟あたりの規模は桁行(幅)が約10m、梁行(奥行き)は約9mです。面積は約90?と、当時としては極めて大規模な建物でした。柱配置の特徴から、屋根の形は入母屋造りになると思われます。
    建物群は東西方向に棟を揃え、厳密な計画のもとに建てられていました。百舌鳥や古市に巨大な古墳を築いた大王が、強大な権力を内外に誇示するためにつくったものと思われます。6〜7世紀には、この付近一帯にたくさんの建物が建てられるようになります。難波津と呼ばれる港を中心として、このあたりは物資の一大集散地として発達しました。また中国や朝鮮からの外交使節を迎えたり、遣隋使や遣唐使が発着するなど、海外に開かれた玄関として古代史上に重要な位置を占めました。  閉じる

    投稿日:2015/09/06

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